【第4章】 星空キャンプ編 17
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あのマンションの一室。
双子達の、閉鎖的でありながら、ささやかで慎ましく、幸せな日々は、少しずつ。徐々に。しかし、確実に終わりに向かっていった。
母が精神的に不安定になっていったのだ。
あんなに優しかった母は、双子に対してきつくあたることが多くなってきた。
原因はわかっていた。男が来る回数が目に見えて減ってきたのだ。
双子が7歳を迎えた頃には、毎週の様に訪ねてきていた男は月に一回も来なくなった。
母は必死に男の気を引こうと躍起になった。幼いハルカにも、それが逆効果であることは明白だった。
男は遂に、部屋に全く来なくなった。
母は絵本を読んでくれなくなった。
母は天窓の下で昼寝を一緒にしてくれなくなった。
母はたばこを吸うようになった。
母は酒を飲むようになった。
母は部屋を滅多に掃除しなくなった。
母は双子の食事を滅多に作らなくなった。
母は双子に対して頻繁に怒鳴るようになった。「どうしていい子にできないの!」と。
母は双子が「いい子」にできなかったら、殴るようになった。
母は殴るだけでは気が済まず、倒れた二人を蹴るようになった。
母は殴る蹴る以外の「お仕置き」もたくさん行った。たくさん。たくさん。毎日。本当にたくさん。
大体は「いい子」にできないのはシズカの方だった。シズカはいつもぼろぞうきんのように倒れていた。だから、ハルカはシズカみたいになりたくなくて、必死に「いい子」になろうと頑張った。でも、結局はハルカもぼろぼろになって、いつもシズカの隣に倒れていた。
母はテレビを壊した。正確にはシズカの後頭部が画面にヒビを入れて、それから映らなくなった。
母が時折、家を出るようになった。ドアは両面シリンダー錠なので、双子には追うことが出来なかった。
母は数日して、帰ってきた。玄関のドアを開けて現れた母に、二人は空腹をこらえながら、必死で笑顔を作って駆け寄る。
母は開口一番に言う。「パパは来た?」
母の望む答えはわかっていた。でも、こればかりはどうしようもなかった。答えられないハルカの代わりに、いつもシズカが事実を伝えた。その度に、二人は「お仕置き」された。だってパパが帰ってこないのは、二人が「いい子」じゃなかったからなのだから。
何度目かの外出の帰り、男がまた一度も来ていなかったことを確認した母は、双子を子ども部屋に閉じ込めた。二人は、大人しく、母が鍵を開けてくれるのを待った。しかし、リビングから物音がしなくなり、母がまた外出したことを悟った。二人は子ども部屋で、いつまでも母の帰りを待った。
季節は冬だった。寒かった。
ハルカとシズカは、天窓を眺めて過ごした。夜になると、ぼんやりと見える星にも喜んだ。でも、街中のここでは、大してよく見えない。
「星座ってのは、山奥とか、田舎とかじゃないとよく見えないんだよ」
シズカが言った。
「テレビで言ってたね」
「ああ。テレビで言ってた」
ハルカは言った。
「いつか、見に行こうね。二人で」
「山奥にか」
「うん。星がすっごく綺麗に見えるところで、二人で天体観測をするの」
シズカは笑った。
「いいな。きっと最高だ」
「シズカ、何が見たい?」
「うーん」
シズカは少し考えて答えた。
「流星だな」
「流れ星! いいね。私も見たい」
「だろ? 星がびゅんびゅん流れていくんだぞ。絶対に綺麗に決まってる」
「一緒に見に行こうね」
「ああ」
「約束だよ」
「約束だ」
何日たっただろう。
二人は、母がもう、ここに帰ってこないと悟った。
シズカが、ラジコンのおもちゃから針金を2本、取り出すことに成功した。
ハルカがそれを使って、鍵穴を開けようとほじくり回した。当時はピッキングなんて言葉も知らなかった が、何かのアニメ映画で泥棒がやっていたことの見よう見まねだった。
何時間、もしかしたら何日もたって、ようやく子ども部屋の鍵が開いた。
ハルカとシズカは数日ぶりのリビングに飛び込んだ。長いこと掃除をされず、生ゴミも放置され、リビングは異臭を放っていたが、そのリビングをかき回すようにして二人は食べ物を捜した。ろくなものがなかったが、なんとか棚の奥から見つけたインスタント麺をハルカは二つに割った。シズカと分け合おうとしたのだ。しかし、シズカは食べようとしなかった。
「お姉ちゃんは大丈夫だ。ハルカ、お前が食え」
それ以外のわずかな食料も、シズカは全て妹に譲ってくれた。
幸運なことに、水道は通っていた。ハルカとシズカは胃がたぷたぷになるまで水道水を飲み、まだ食料がないかリビングを探したが、徒労に終わった。寝室は鍵がかかっており、探せなかった。
もう、外に出るしかない。シズカがそう言った。
ハルカは反対した。母が絶対に許さないと思ったのだ。
「このままじゃ、二人とも死んじまうぞ。ハルカ」
シズカは妹の両肩を持ち、言った。
「二人で、流星、見に行くんだろうが」
ハルカは玄関のシリンダー錠に挑戦した。
しかし、玄関の鍵穴は子ども部屋のものよりずっと複雑で、なかなか開けることが出来なかった。
また数日が経過した。
シズカが、動かなくなった。
ごはんが足りないのだ。ハルカにばかり食ベ物をくれていたから。
このままじゃ、お姉ちゃんが死んじゃう。
ハルカは泣きながら針金を引っかき回した。
ハルカの手の感覚がとっくに無くなり、ハルカ自身の意識も朦朧とし始めた時、カチリと鍵穴が音を立てた。
「シズカ! 開いたよ! シズカ!」
ハルカは這うようにして、子ども部屋で倒れているシズカを呼びに行った。
シズカは目をうっすらと開け「そうか」と笑った。
「がんばったな。えらいぞ」
「うん! 行こう! シズカ」
「姉ちゃんは動けねえ。ハルカだけで、行くんだ」
ハルカは首を横に振った。
「一緒に行く」
「だめだ。一人で、行くんだ」
「やだ。置いていけないよ。それに・・・・・・」
ハルカは物心ついてこの方、部屋を出たことがない。ハルカにとってこのマンションの一室だけが世界だったのだ。
「怖いよ・・・・・・」
ハルカは静かに涙を流した。
「お姉ちゃん・・・・・・ついてきてよ。一緒にいてよ。そばにいてよ」
シズカも泣いていた。同じように、音もなく、涙を流していた。
シズカが手の平を上げる。ハルカはその手に、自分の手の平を重ねた。
「ハルカ。生きるんだよ。ここを出て、生きるんだ」
すっと、手の平が押された。
「行け。行くんだ」
ハルカは泣きながらリビングを進んだ。玄関の戸にたどり着く。
怖い。
でも、このままじゃ。
ドアノブをひねる。ゆっくりと、ドアが開いた。
そこからはおぼろげな記憶である。
ぼんやりとしていて、よく覚えていないが、マンションの最上階から、非常階段を半分転がるようにして地上に降りた春香は、すぐ近くのコンビニに這うようにして駆け込んだ。そこで陳列してあったパンを手当たり次第にひっつかみ、マンションに戻ろうとしたところを店員に止められたらしい。
店員はすぐに警察と救急に連絡した。
救急車に担ぎ込まれた春香は、「お姉ちゃんが! お姉ちゃんがまだいるの!」と叫び続けていたらしい。
車内で、点滴のチューブに繋がれ、半分気絶していた春香は、救急隊員の会話を聞いてしまった。
「もう一人の方はどうだった」
「とっくに手遅れだったよ。死後、何日も経ってる」
そんなはずない。さっきまで、一緒に話してた。そんなはずない。
そんなはずない。
春香は叫んだ。救急隊員に押さえられ、鎮静剤を投与されるまで、春香は叫び続けた。
その後、病院で集中的に治療を受けた春香は、抜け殻のようになりながらも一命をとりとめた。
しかし、生きる気力を完全に無くした7歳の少女は、食事も一切とらず、ずっと点滴の針を刺されたままだった。
生死の間をさまよったせいだろうか。春香はこの世のものではないものを目にするようになった。幽霊というやつだろう。彼らは病院をさまよっていた。春香はそれをぼおっと見ていた。
医者と看護師が話しているのが聞こえた。「このまま何も食べなければ、点滴だけではもたないだろう」と
それもいいか。と春香は思った。
自分のせいでシズカは死んだ。自分だけがのうのうと生きていて良いわけがない。
だったら、自分も死んで、この幽霊たちの仲間になって、シズカに会えばいいのだ。
それに、一人は嫌だ。
春香がそう思ったときだった。
『いるよ。ここに』
頭の中で、シズカの声がした。
「シズカ? シズカ!」
なんで? どうして?
姉は死んだ。それはわかっていた。それは理解していた。
だから、この姉は幽霊だ。
でもかまわなかった。幽霊でも、亡霊でも、なんでもよかった。
シズカの声は言った。
『そばにいてって言われたからな』
春香は泣いた。
それから、二人は、ずっと一緒だった。
唯一の親戚だと名乗り出てくれた美和子さんに引き取られた後も。
一年遅れで小学校に編入したときも。
今回のキャンプにこっそり申し込んだときも。
二人は、ずっと、一緒だったのだ。




