【第4章】 星空キャンプ編 8
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「そろそろ鍋の準備、できたころじゃない? 声、かけてきなさい」
ミオンにそう言われて、春香は立ち上がりかけ、またあわてて座った。ランプのところに行くなら、マッチが行きたがると思ったのだ。
「スピカちゃん行ってきてよ。あたし、火、見てるから」
しかし、マッチはそう言ってたき火から目を離さなかった。薪割りはしなかったが、たき火の炎は気に入ったのだろうか。
ちらりとミオンを見ると、小さく頷いた。この様子なら、マッチに任せても大丈夫だろうとミオンも判断したのだろう。
「じゃあ、行ってくるね」
マッチに火を任せ、調理用の炊事場に向かう。距離は10メートルほど。とっくに日は沈みきっていた。すぐ横が森なのもあるだろうが、さっきまでじっと火を見ていたせいで、道が真っ暗に見える。屋根の蛍光灯が光っている調理用場まで一直線なので、困りはしないが、どうしてもおそるおそる足を踏み出す形になる。
後ろの火起こし場からも、子どもの楽しそうな声が響いてくる。前方の調理場からも聞こえてくるはずだ。しかし、横の森に吸い込まれるのだろうか。進めば進むほど後ろからの喧噪が小さくなっていくばかりで、無音に近づいていく。
お昼の田代警備員の話を思い出した。あの森の手前にもフェンスがはってあるが、食べ物の匂いにつられて、野生動物がくぐり抜けてきたりしていないだろうか。
そう思って、チラリと森を見た春香は凍り付いた。
女が立っていた。
森の中、木々の間を縫うようにして設置されているフェンスの向こう側に、痩せ細った一人の女が突っ立っている。
洋服か和服かもわからない白い服が暗闇のなかでボウッとまるで光っているように際だって浮かんでいた。
遠くてよく見えない。髪は長い黒髪のようだが、周りの暗闇に紛れて境界線が曖昧だ。顔ももちろん判別できない。
ただ一つ、わかることがある。
春香を睨んでいる。あの距離から上目遣いでじいっと睨み付けている。
あの人、今朝のトイレの女だ。ついてきたんだ。
春香の呼吸が乱れる。
幽霊を見るのはそんなに珍しくない。これまでも時折見かけたことがある。でも、本当に見かける程度で、ついてこられたことなんてなかった。こんな長距離を追いかけてこられたことなどなかった。こんなふうに悪意むき出しの視線を送られたことなど、一度もなかった。
どうしよう。なんかやばい。やばいやばいやばい。
『落ち着け。春香。大丈夫だ』
シズカが必死で呼び掛けてくれている。でも、頭の中で響いているはずのその声さえ遠くに聞こえた。
怖い。呼吸が、うまく、いかない。
女が口を動かす。何も聞こえない。でも、春香に向かって何かをつぶやいているのはわかった。春香を睨み付けながら、同じ言葉を何度も何度も。
だめだ。息が、出来ない。
「スピカ。大丈夫?」
突然の声に春香は飛び上がった。
振り返ると、ランプが立っていた。手にカレーの鍋を持っている。
安堵すると同時に、春香の肺が動き方を思い出した。慌てて息を吸う。
「どうしたの?」
そう小首をかしげるランプに春香は「ええと」と言葉を濁し、ちらりと森を見た。
女は相変わらず佇んでいた。
幽霊が見えるなんて言ったら、きっと気味悪がられる。
そう思い、何も言えずにいた春香は、春香の目線を追ったランプの、次の言葉に衝撃を受けた。
「ああ。スピカ、見えるんだ」
「へ?」
「あの、幽霊のことでしょ。あいつ、サービスエリアにもいたやつね」
なんのことはないと言った様子で話すランプに春香は驚いた。
「ランプちゃん、見えるの?」
「うん。見えるし、聞こえるよ。もう慣れっこ」
春香は目を丸くした。自分以外に幽霊が見える人間に出会ったのは初めてだった。
「ランプちゃんは、怖くないの?」
春香は改めて森に目をやり、女を遠目に見た。相変わらず春香を睨み付け、口をパクパクしている。
「大丈夫よ。あいつらはどうせ何も出来ないわ。ただそこにいるだけ。なかには怖がらせようとしてくるやつもいるけど、相手をしないことが一番よ」
「そ、そうなんだ」
すごい。
春香はただ震えることしか出来ないのに、同い年の女の子がこうまで達観して物事を見れるなんて。
かっこいい。なんかマッチがぞっこんになるのもわかる気がする。
「それより、そろそろ手伝ってくれない? 重いんだけど」
そう言われて我に返った春香は「ごめん!」とカレー鍋の取っ手を片方持った。二人で幼児を連れた親子のようにカレー鍋を挟んで歩き、かまどに向かう。
「ランプちゃんは、よく見るの? あの、ああいうやつ」
「ええ。そこら中にいるから」
「そんなに見るんだ・・・・・・ 私、年に数回ぐらい」
「へえ。個人差があるのね」
「そ、そうかもね! 人によって違うんだね。初めて知った」
「私もよ」
あれ、なんだろ。あんなに怖い存在なのに。さっきまでパニックになるほど怖かったはずなのに。
今は、幽霊の話をするのが、なんだか楽しい。
春香は突然のわくわくする感覚に戸惑いながら、自分の感情の変化の原因を考えた。そして思いあたった。
そうか。これは、オタク饒舌現象と同じだ。
以前、幽霊が見えることを美和子さんに相談した際は、本気で精神状態を心配され、面倒なことになった。
だから、それ以降、幽霊の話題は誰にも言えずにいた。美和子さんの前でも、もう見えない振りをしている。相談に乗ってくれるのはシズカだけだった。
そんな時に、理解者が現れたのだ。それも同い年の女の子。そりゃあ嬉しくなっちゃうよ。今朝のランプが小説の話が通じると思った瞬間にマシンガントークを始めてしまった気持ちが、今は痛いほど理解できた。
「それにしても、ここまでついてくるなんて、珍しいわね」
「やっぱり? 大丈夫かなあ?」
春香はチラリと後ろを振り返った。女は森の中からまだ春香の方を見てぶつぶつとつぶやいていた。
「言ったでしょ。どうせ何もできないわ。大丈夫」
ランプもチラリと後ろを振り向いた。が、すぐに前を向く。本当にそこまで興味がないのだろう。
「あの人、さっきからブツブツ、なんて言ってるのかなあ。聞こえないから余計不気味だよね」
そう言った春香に、一瞬、意外そうな表情をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「やっぱり、個人差があるのね。スピカには声は聞こえないんだ」
「え、ランプちゃん、聞こえるの?」
ランプちゃんは「まあね」と息を吐いた。
「・・・・・・あの人、なんて言ってるの?」
ランプちゃんは数秒だけ眉をひそめたが、たいしたことじゃないわよとでも言いたげに口を開いた。
「カエレって」
真夏にしては涼しい風が、暗闇の中を吹き抜けた。
「帰れ。出て行け。帰れ。近づくな。帰れ。帰れ。帰れ。ずっと、そう言ってるわ」




