【第3章】 雪中キャンプ編 斉藤ナツ 11
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「そういえば、奈緒ちゃん。冬休みはありがとうね」
トリマキさんは私の席の前に来ると、おもむろにそう言った。
トリマキさんは背が高い。奈緒と同じぐらいだ。その時、私は席に座っており、奈緒は私の机に身をのり出すようにして床に膝をついていたので、トリマキさんに見下ろされる形になる。
奈緒は困惑した顔でトリマキさんを見上げた。かくれんぼ以降、奈緒は私以外のクラスメイトとほとんどしゃべらなくなっていた。
「なにが?」
「奈緒ちゃん、冬休み、誕生日会よんでくれたじゃん」
へー。そうだったんだ。あれ? 私呼ばれてないよ。少人数で開いたのかな? 別にいいけど。
「みんなも楽しかったって」
みんなでやってるじゃん。私、完全にハミられてるじゃん。全然いいけど。
「立派な家だったね。お父さんかっこいいし、おかあさん綺麗だし」
うわー。私、そう言えば奈緒の家に呼ばれたことないわ。いや、いいんだよ。全然気にしてないよ。でも、最近かなり仲良くなってきたと思ったんだけどなあ。人付き合いって難しいね。
私は自分でも意外なほど複雑な気分になりながら、奈緒を見た。そしてまたしてもぎょっとする。奈緒は筆箱を握りしめ、蒼白な顔で唇を噛んでいた。
「いやー。ケーキも大きかったね。有名なケーキ屋さんのやつなんでしょ。あれ。大きなプレートにメッセージも書いてあったしさ」
うん? そういえば、奈緒の誕生日は私と同じ10月1日ではなかったか? なんで冬休みに?
「メイちゃん、誕生日おめでとうって」
・・・・・・メイちゃん? 奈緒の肩が小さくピクリと震えたのがわかった。
「びっくりしたよ。違う子の誕生日会に来ちゃったのかと思ったもん。ねえ、みんな?」
トリマキさんがそう言って振り返ると、後ろにいた女子数人が苦笑いを浮かべながら頷いた。トリマキさんの表情がより得意げになる。
そうか。今、女子のヒエラルキーのトップが完全に交代しようとしているのか。
「でも、奈緒ちゃんが喜んでたから安心したよ。『わーい。メイうれしい! ママありがとう』って」
私は奈緒を見た。完全に下を向いて、私の机を見つめている。
私は、参観日に目にした奈緒の母親を思い出す。若くて美人だった。そう。若かった。奈緒を産んだとは思えないほどに。
「ごめんね。私たち、ずっと奈緒ちゃんって呼んじゃってたね。これからはちゃんと『メイちゃん』って呼ぶね」
私はもうトリマキさんの方は見ていなかった。黙って下を向き続ける奈緒を見つめていた。顔は見えない。でも、肩がわずかに震えていた。
「改めてよろくね。『メイちゃん』」
奈緒の顔は見えない。しかし、私の机に、ポトリと滴が落ちるのは見えた。
全く話が飲み込めない。しかし、私がやることは一つだった。
私はゆっくりと立ち上がり、すっとトリマキさんの前に立った。それでも小柄な私は大柄なトリマキさんに見下ろされる。
「なによ。な・・・・・・」
私は自分が座っていた椅子の脚を掴むと、思いっきりトリマキさんの太ももに叩き付けた。
トリマキさんが悲鳴を上げて床に倒れ込む。その上にゆっくり椅子を振り上げ、落とす。トリマキさんが再度悲鳴を上げて手をばたつかせる。その両手を私の膝で押さえ込むように馬乗りになり、泣き叫ぶトリマキさんの顔面に拳をたたき込んだ。一発、二発。三発。
クラスは騒然となった。男子が叫び、女子は泣き出した。その中に、奈緒のすすり泣きも混じっていた。だから私はやめなかった。
五発。六発。
騒ぎを聞きつけて飛んできた中田教諭に羽交い締めにされるまで、私はトリマキさんを殴り続けた。
奈緒はずっと泣いていた。
トリマキさんの怪我は見た目ほどではなかった。
どこも骨折していないし、太ももも打ち身で済んだ。所詮、小学生女子の非力な攻撃だったということだ。しかも、トリマキさんは柔道を習っていたようで、こけるときもとっさに受け身をしたらしく、捻挫もなかった。
ただ、見た目ほどではないと言うことは、逆に言えば見た目はなかなかだった。私が十数発殴りつけた顔は見事に膨れ上がり、その日の夕方にはアンパンマンの様になっていた。
無論、駆けつけたトリマキさんの両親は大激怒だった。
今も校長室で「相手の両親をよべ!」と怒鳴り散らしている。当然だ。しかし、私の親にはどうせ電話は繋がらない。
流石に私だけを興奮するトリマキ両親の前に出すことは出来なかったのだろう。校長室の隣の会議室に待機させられた。隣には関係者として残された奈緒もいる。奈緒は泣きはらした目で自分の膝を見つめていた。
私は何も聞かなかった。言いたくないことなんて、誰にだってある。
無言の静寂の中、校長室からトリマキ両親の怒り狂う声だけがかすかに漏れてくる。
「ママね、パパの再婚相手なの」
奈緒がいつものように肩に掛かった髪をなでながら、ぽつりと言った。
「そうなんだ」
私も何でもないように答えた。よくある話ではある。
「でね、その新しいママ、ちょと、その、心が弱い人みたいで」
「うん」
「ママには本当の娘さん、メイちゃんって子がいたみたいで」
「うん」
「いつの間にか、ママはあたしを、メイちゃんって呼ぶようになったの」
「・・・・・・お父さんは?」
「おかあさんは、心が弱いんだから、好きにさせてあげなさいって。お前も困らないだろうって」
私は、目をつぶった。
それは・・・・・・ ダメだろう。
小学生の私でも、そのいびつな関係が正しい家族でないことはわかる。
十歳そこらの女の子に、死んだ実子の名前を押しつける。そのことがどれほど奈緒のアイデンティティーを破壊したか、尊厳を踏みにじったか想像に難くない。
「死んだ子の名前で呼ばれるのは、キツいわね」
「死んでないよ」
奈緒の言葉に驚いて奈緒の顔を見る。奈緒はまた無表情だった。
「本物のメイちゃん、親戚に引き取られてるみたい。場所と連絡先を書いたメモも見つけたから、間違いないよ。どっかの喫茶店みたい」
「じゃあなんで」
「パパのふりして、喫茶店に電話してみた。その時の相手の感じからの予想なんだけど」
奈緒は軽く笑った。
「なんか、ママの想像とちがったんだろうね。理想の子育てにならなかったんでしょ」
だから、実の娘を捨てて、奈緒を新しいメイちゃんにしたと言うことか。
「つまりね、ママの理想のメイちゃんじゃないと、あたしも捨てられるんだよ」
「・・・・・・それじゃ、だめなの?」
いらないだろ。そんな母親。
「だって、ママに捨てられたら、きっとパパもあたしを捨てる。パパはママが大好きだから」
そんなこと・・・・・・ ないとは言い切れない。娘を違う名前で呼ぶのをなんとも思わない男だ。
「あたしは家ではメイちゃんで、きっとこれからもずっとそうで、でも、本当のメイちゃんは他の場所にちゃんといて」
そこで奈緒の声がかすかに震えた。
「じゃあ、あたしは一体だれなんだろうね」
理科室での奈緒の言葉を思い出す。
あたしの事は、『あんた』じゃなくて、『ナオちゃん』って呼んで
壁を一枚隔てた校長室が騒がしくなった。
どうやら、私側の保護者が到着したらしい。父だろうか? しかし、声ですぐにわかった。祖母だ。そりゃそうか。父が学校からの電話に出るはずがないしな。
怒りをまくし立てるトリマキ両親に対し、祖母は相変わらずのようだ。「はあ」「そうですか」「あらまあ」「それはわるいことで」。のれんに腕押し選手権をすればきっと金メダルだ。あまりの温度差に、壁越しにもトリマキ両親の勢いがそがれていくのがわかる。
しばらくして、会議室の戸が開かれ、私は校長室に連れて行かれた。もう本人を連れて行っても大丈夫と判断したのだろう。
校長室のソファには両親に挟まれているトリマキさん。その向かいの席に私の祖母が座っていた。いつも通りどこか浮世離れした笑みを浮かべている。私も祖母の隣に座らされて、トリマキさんと向かい合う形になった。
トリマキ両親は私の姿を見て、完全に毒気を抜かれてしまったようだった。父親なんかは、「お前、こんな小さな子に一対一で負けたのか」とトリマキさんを睨み付けた。トリマキさんは小さくなって下を向いてしまった。なんかかわいそうになってきたな。元気出してアンパンマン。
教師に促され、私はすらすらと形ばかりの謝罪文を口にした。それでトリマキ両親も最低限の面子が立ったと思ったのだろう。あとは、「まあ、子ども同士の喧嘩ですから」「本人も反省していますし」と大人な発言が飛び交って、会はお開きとなった。
祖母の「おなかすいたわねえ」という相変わらず気の抜けた言葉に「そうだね」と答えながら校長室を出ると、会議室の前に例の若くて綺麗な奈緒の母親が立っていた。奈緒を迎えに来たところなのだろう。母親は担任と何やら話をしている。
「はい。ええ。そうなんですね。わかりました。友達づきあいはよく考えるようにと、『メイちゃん』に私からも言っておきます」
私は祖母に「先に行ってて」と言い残し、奈緒の母親と担任の視線をくぐり抜けて会議室に入った。一人座っていた奈緒が私を見て驚く。私の表情を見て何か察したのだろう。泣きそうな顔になる。絶交するとでも言われると思ったのだろうか。
「会いに行こう」
私は奈緒の両手を握って言った。
「え?」
「本当のメイちゃんに会いに行くのよ。私たち二人で。そして言ってやるの。あんたの母親はあんたがなんとかしろって」
「え、でも」
「その喫茶店の住所、わかってるんでしょ」
奈緒が頷いて地域名を口にする。かなり遠いな。
「それでも行こう。小学生二人じゃ何日かかるかわからないけど、私たち二人でなら行ける」
「・・・・・・家出ってこと?」
「・・・・・・そうね。そう。家出。遠くに行く。限界まで、遠くに行くの」
二人で。
「でも、そんなことしたら、あたし、本当に捨てられちゃう」
「私がいる」
奈緒が息をのむ。
「私がいる。私がいれば、それで十分なんでしょ」
私は彼女の目をじっと見つめた
奈緒の頬を、つうっと涙が伝った。
「なっちゃん。あたしと、ずっと一緒にいてくれる?」
私は黙って頷いた。




