【第3章】 雪中キャンプ編 斉藤ナツ 8
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「すいませーーん!」
急に響いた男性の声に、私の意識は過去から現在に一気に引き戻された。その反動で、ストーブの前で組んでいた足がびくりと跳ね上がる。そして不運なことに、その足がストーブを蹴り倒す形になった。
私は声にならない悲鳴を上げたが、時すでに遅し。ぽかぽかとテントを暖めていた愛しのストーブはガシャンと横倒しになった。
やばいやばいやばい。
「あのー! 隣のテントのものなんですけどー」
レイジの声がテントの外から聞こえる。うっすらとテントの生地越しに陰も見える。しかし私はそれどころではなかった。
ストーブからはとくとくと灯油が漏れ出している。
「あ! あ! すみません! ちょとまって!」
レイジが黙る。
私は引火するのではないかとハラハラしたが、安全装置が働いたようで、ストーブはすでに消火していた。対震の自動消火装置があって良かった。それに、足立先生も言っていたではないか。灯油は発火点が低い。何かに染み込ませでもしないかぎり、そう簡単に発火しない。
それに、今回は床がないテントスタイルが功を奏した。流れ出た灯油は雪に吸い込まれていく。
「ちょっと、まって、くださいね」
私はゆっくりとストーブを起した。やれやれ。
テントからでてレイジに挨拶しようと振り返った時、突然、レイジの声色がかわった。
「なんか知らないけどさ」
動画撮影の時とは打って変わった、低い声。思わずテントの生地越しのレイジの陰をみたまま、固まる。
「動画の邪魔だけは、すんじゃねえぞ」
それだけ言うと、レイジの陰はすっと離れていった。
突然のことにしばらく動けなかった私は、ふと我に返って、テントの入り口を開ける。
レイジはもうすでに自分のテントの近くまで戻ってしまっていた。後ろ姿しか見えないが、肩を怒らせている。いつのまにかまた雪かきを再開していた女性をのわきを無視するように通り過ぎ、そのまま振り向きもせず、またテントの入り口の方に回り込んで、死角に入った。
そこまで言うか?
確かに、動画の邪魔をしてしまったが、わざとじゃないことはわかっただろうし、そこまで怒らなくてもいいんじゃないか。初対面の相手に、あんなに怒らなくてもいいだろう。
私は腹が立つと言うよりは、困惑してしまった。
気になって、スマホを取り出す。Ytubeの画面を出し、「レイジのキャンプちゃんねる」で検索する。電波が通じるキャンプ場は便利だな。
すぐに出てきた。
想像以上に有名な配信者らしい。フォロワー数20万人。すごいな。
様々なキャンプ動画を投稿していた。試しにいくつか再生してみる。
「こんにちは! レイジのキャンプちゃんねるです! 世界中のキャンプ仲間のみんな、聞こえてるー!?」
大音量で流れてびっくりした。あわてて音量を下げる。
あぶないあぶない。撮影の邪魔をするなと言われた直後に、相手の動画を大音量で流すなど、いくらなんでも煽りすぎだ。
動画リストを見ていくと、大体がキャンプ場でのキャンプの様子を紹介しているものだった。どれもお洒落なキャンプ飯をサムネに持ってきていて、思わず再生したくなる。紗奈子もこういうのを参考にしたら良いんじゃないか。まあ、離乳食のサムネでは再生数稼げないか。
中には解説動画もあった。たき火の仕方、テントの立て方、薪割りの仕方、等など。試しに「薪割りの仕方」を再生する。
「えーとですね、みなさん間違いがちなんですが、斧を持つ右手には手袋はしません。すっぽ抜けたら困るでしょ。薪を支える左手だけ手袋をします。このとき・・・・・・」
なるほど。わかりやすい。私には当然の知識だが、初心者にはいいだろうな。まあ、私がやるなら、利き手が左手のパターンも網羅するが。
「服装の選び方。ジャケット編」があったので、そちらも再生してみる。
「俺はね、この黒いダウンがお気に入りなんで、よく着てるんですけど、ポリエチレンだから、火の粉には弱いんですよ。すぐ穴あいちゃいますし、最悪、燃え上がります。だから、たき火をする際は、コットンとかの難燃素材の上着を用意して・・・・・・」
わかってんじゃないか。今度、美音と紗奈子に見せてやろう。
しかし、こう画面越しに見ると素晴らしい好青年だ。見目も今時だし、ファンも多いだろう。いやはや、裏側なんて見るもんじゃないな。
そう考えると、私はなんだかせっかくの楽しいキャンプに水を差された感じがして、ため息をついた。
まあ、いいさ。そういうこともある。
私はストーブを点検し、灯油がこぼれ落ちたところを布で拭いた。少し渇かしておいた方がいいだろう。
よし。この時間でたき火をしよう。
薪を取りに行くために、私はテントを出た。
雪の通路を進む。
モリサキテントを見る。雪かきをしていた彼女さんは、レイジに呼ばれたのだろうか。テントの中に入ってしまっていた。彼女には挨拶しておきたかったが、今はよそう。
トイレを横切り、無料の薪が置いてあるロッジに向かう。
ふと思った。
昔、それこそ小学生の私だったら、あんなレイジみたいな態度をとるやつはただではおかなかっただろうな。
いや、どうだろう。よく考えれば私は昔からかなりめんどくさがりやだったから、実害がなければ放っておく感じだったか。
でも、1回、やらかしたな。ずっと忘れていたけれど。
ひとたび紐解かれた記憶は、次々としまい込まれていた思い出を引きずり出してきた。
その記憶の中には必ず、ナオちゃんがいた。




