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キャンプをしたいだけなのに【2巻発売中】  作者: 夏人
第2章 結局はみんな他人事 
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【第2章】 湖畔キャンプ編 斉藤ナツ 15


 23


 私はひっくり返したボートの腹にしがみつくように上体を乗り上げ、これでもかと空気を吸い込んだ。その空気をゼーゼーと吐き出し、またむさぼるように酸素を摂取する。

 完全に横転し、船の腹を上に向けている手漕ぎボートの上に体を全て移動させ、呼吸を整える。

 あぶない。死ぬかと思った。

 体にへばりついた上着を引き剥がす様に脱ぎ捨てる。上着の下に着込んでいた古びたライフジャケットが姿を現す。これがなければ確実に沈んでいた。

 手漕ぎボートが使えるとわかった時、すぐに一か八か野原の倉庫まで引き返して、このライフジャケットをとってきた。無造作に並べられていた中で一番傷みが少ないのを見繕ってきたつもりではあったが、果たしてしっかり機能してくれるかは賭けだった。

 結果、賭けには勝った。ライフジャケットは確かな浮力を私にもたらした。

 わざと白鳥がぎりぎり見えるであろう位置で水中に入り、水面から浮き上がった頭部をボートの陰に隠す。タイミングを見計らってボートの底に移動し、後は我慢比べだ。なかなかボートに乗り移ってこないから、あのままボートの底にしがみついたまま窒息するかと思った。

 思いのほか、白鳥の接近が早かったため、準備に時間がとれずになかなかギリギリの作戦となったが、なんとかうまくいったらしい。

 首を巡らしてさっきまで自分がいたキャンプサイトを見る。そこには、LEDライトの光が見えた。私に気がついて光が振られる。紗奈子だ。

 まったく。成功する可能性は低いから、先に逃げておけと指示をしたのに。あのライトがあれば、紗奈子一人でも自分が行きしなに迷い込んだルートをもう一度通って、車道に出られたはずだ。そうすれば、私が勝てなくても時間さえ稼げれば、紗奈子は逃げ切れるかもしれない。そう打ち合わせたはずなのだが。

 紗奈子は初めから、私を置いていくつもりはなかったらしい。

 あきれながらも手を振り返す。紗奈子のライトがうれしそうに上下に動いた。飛び跳ねているのだろう。

 さてと。

 白鳥のモーターボートに目を向ける。操縦できるだろうか。まあ、やってみよう。

 私がモーターボートに乗り移ろうと上体を起したその時、水面から突然、腕が飛び出してモーターボートの縁を掴んだ。

 私があっけにとられている間に、もう片方の手も縁をつかみ、ザバリと男が水面から飛び出してきた。モーターボートによじ登り、甲板の上を転がった。ごほごほとむせ込む音とともに、額のヘッドライトの光が周囲を照らす。

 白鳥だ。

 私は弾かれたように水面にダイブした。モーターボートに背を向け、がむしゃらに紗奈子がいる岸の方に泳ぎ出す。

 なんですぐさまモーターボートに移っておかなかったんだ。後悔しても遅かった。今から乗り移って、白鳥とまともに戦っても勝ち目はない。となれば、逃げるしかない。

 私は泳ぎは得意な方だ。だが、先ほどあれだけ頼もしかったライフジャケットが、今度は私の動きを制限していた。クロールをするつもりが、浮力のために顔を上げたまま犬かきのようになってしまう。だが、逆に言えば気道は完全に確保されていた。だから叫んだ。

「紗奈子! 逃げて! 逃げなさい!」

 LEDの光と、紗奈子の陰が右往左往する。だが、一向に逃げようとしない。ちくしょう。逃げてくれ。

「あんただけの体じゃないでしょうが!」 

 紗奈子の体がびくりと止まる。卑怯な言い方だ。そんなことはわかっている。でもこうでも言わないと、紗奈子は走り出さない。そう思った。

「母親になるんだったら、子どもを守りなさい!」

 紗奈子の体が弾かれるように動き出した。木々の間に姿が消え、LEDの光が木々の間を移動していくのが見える。

 後ろから、あのエンジンの重低音が絶望的に響いた。

 ある程度の距離は稼いだつもりだが、モーターボートが進み出せば、ものの数秒で私は轢き殺されるだろう。必死に泳ぎながらも今日何度目かの死を覚悟する。

 しかし、エンジン音が鳴り響くばかりで、モーターボートはいつまでたっても突っ込んでこなかった。

 肩越しに後ろを振り返る。白鳥が船尾のモーターをのぞき込んで悪態をついている。 

 どうやら何かが引っかかったらしい。

 よし。今のうちだ。

 ライフジャケットの浮力にも体が対応してきたのか、私の泳ぐスピードも上がっている。いける。逃げ切れる。

 そう思った矢先、ざばんと派手な水音が響いた。反射的に振り向いた私は恐怖した。

 シャツを脱ぎ捨て、上半身裸になった白鳥が水に飛び込んでいた。ヘッドライトは付けたまま、背中には棒状の物を背負っている。そんな馬鹿みたいな格好で、クロールもどきの犬かきをする私に、競泳選手の様なバタフライで、恐ろしい勢いで迫ってきた。

 私は叫び出しそうになりながら、必死で手足を動かす。

 岸が遠い。あと30メートル。

 20メートル。

 10メートル。

 5メートル。

 浅瀬になったのか裸足の両足が湖の底に着いた。全力で泥を蹴り、岸まで駆け上がる。

 自分のキャンプ道具を蹴り飛ばしながら、紗奈子が通っていったであろう林の中に入っていく。しばらく進むと真っ暗になり、木々にぶつかりそうになる。手探りで進むしかない。小石や小枝が足の裏に突き刺さるのを感じるが、かまっていられない。

 後ろを振り返ると、白鳥も上陸し、ヘッドライトで辺りを照らしている。私を探しているのだ。焦りのあまり、歩を早める。そして当然のように前方の木の幹に衝突した。

 その場にしゃがみ込み、ぶつけた箇所を押さえ込む。

 だめだ。暗すぎる。まったく見えない。これじゃ進めない。

 このままここに隠れても、すぐに見つかるだろう。かといって、こんな暗闇で明かりもなく、道もわからない林を抜ける事など、出来るわけがない。

 でも、あきらめる訳にもいかない。

 ここで私が殺されたら、すぐに白鳥は紗奈子の追跡に入るだろう。私が時間を稼げば稼ぐほど、紗奈子の生存率が上がる。0.何パーセントかはわからないが。

 それでも、やれることをやろう。

 そう決意して、顔を上げた私は面食らった。

 女の子が立っていた。漆黒と言っていいほどの暗がりの中、その小柄な少女の白いワンピースは、まるで切り絵のように鮮やかに浮かんでいた。 

 彼女は私に背を向けていた。ショートカットの黒髪がすっと動いたかと思うと、少女は木々の間を縫うように進んでいった。そして、数メートル先で止まった。相変わらず背を向けてはいるが、まるで私を待っているかのようだった。

 ついてこいってこと? 

 私は恐る恐る、彼女の動きをトレースするように進んだ。ぶつからない。しかも歩きやすい地面だ。私には全く見えないが、小道でもあるのかもしれない。

 私が追いつくか追いつかないかのところで、彼女はまた滑るように移動する。その軌道を真似て、私も後を追う。初めは半信半疑で移動していたが、繰り返す内に、完全に彼女を信じることに決め、ほとんどかけ抜ける形で彼女を追った。彼女も私のスピードに合わせるように、動きを速める。

 そして、ふっと彼女の姿が消えた。

 そりゃないよ。と思ったと同時に、裸足の足がアスファルトを踏みしめた。雲から顔を出した満月が、車道を照らしている。

 林を抜けた。

 荒い息を整えながら車道を見回す。見覚えがある。キャンプ場に来るときに、ミニクーパで通り抜けた小道だ。なだらかな傾斜がある車道で、この道を下れば、山を下りられる。下りの方向を見ると、少し先に白いワンピース姿が見えた。まだ案内してくれるらしい。ありがたい。

 そう思って、走り出そうとした瞬間、彼女と私の間に人影が飛び出してきた。ヘッドライトが私を照らす。

「おや?」

 白鳥は月明かりの中、醜い笑みを浮かべた。

「先回りしたつもりでしたが、先を越されてしまいましたか」

 そう言って、白鳥は背負っていた日本刀を手に取った。するりと鞘から抜き、鞘はそのまま道に放った。鋼の刃が月明かりを反射させる。

 ラウンドスリーだ。



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