【第7章】 廃村キャンプ編 終話 願い
57 願い
増田幸太がコンビニを畳んで、十年近くが経った。
それから、いろいろなことがあった。
一番の驚きは、四十をとうに超えていた自分が伴侶を得て、そして、あろうことか、五十を超えてから子宝を授かったことである。
人生、なにが起こるかわからない。生きてみるもんだと、幸太はそんな月並みなことを還暦を前に思うのだった。
コンビニ店長でなくなった後、幸太は近所の居酒屋チェーンでバイトをしている。まさかバイトを顎で使っていた自分が使われる側になるとは。本当に何が起こるかわからないものだ。
「フランチャイズはくそだ」という口癖は「飲み放題はくそだ」に変わったが、すぐに言わなくなった。妻に子供が真似をすると叱られたのだ。幸太より一回り若く、収入も多い妻に、幸太は頭が上がらない。
でもまあ、幸せかそうでないかと聞かれると、幸せだろうと幸太は思っていた。
「ぱぱ。おでん? おでん?」
狭いキッチンで土鍋に出汁を仕込んでいると、四歳の息子が足に抱きついてきた。
「ああ。おでんだ」
「ぱぱのおでん、好き」
そうにんまりする息子が可愛くて、思わず抱き上げ、小脇に抱える。息子が嬉しそうにはしゃぐ。キッチンでこんなことをしたら、妻に怒られるのだが、妻はまだ仕事から帰ってきていない。
でも、今日はおでんだと言ってあるから、きっと早めに帰ってくるだろう。
出汁の中に、鰹節を入れると昆布も入れる。鰹節は一度熱して粉末状にするのがポイントだ。
「ぱぱのおでん、だしがすごいんでしょ」
幸太は笑った。ママに聞いたんだな。
「ああ。そうだ。昔、お友達に教えてもらったんだ」
そこで思いだし、「そのお友達も、妹に教わったと言っていたっけな」と付け加える。
「どんなひと?」
そう聞かれて、幸太は口を噤んだ。
どんな人か。
おっちょこちょいな子だった。
ミスの多い子だった。
言い訳の多い子だった。
後先考えず、万引き犯ごと、自動ドアを突き破ってしまうような子だった。
そして、その万引き犯を雇えと、店長に迫ってくるような子だった。
『あの子、お腹すかせて万引きしたんですよ! 助けてあげないと!』
自分はドアを壊した立場で何を言っているんだと、呆れたものだった。
だが、あの子がいるだけで、店が明るくなった。
暗い万引き少年だった中学生が、どんどん心を開いてしまう、そんな力を持った子だった。
だから、彼女の悲惨な死は、幸太にも、少年にも、あまりに深い傷を残した。
幸太はやりきれなかった。
あんな若い子が、子供が、当事者になっていいような話ではないと思った。
きっと少年も同じ思いだっただろう。
少年が黒髪の少女を姉呼ばわりして連れてきたときは、幸太も対応に困った。
その子は、あの子ではないんだと、言ってあげるべきだったのかもしれない。
だが、嬉しそうな少年の顔を見ると、何も言うことが出来ず、だまっておでんをよそうことしかできなかった。
黒髪の少女の皿に、いつも無意識にあの子の好物だった餅巾着を入れてしまった幸太自身も、もしかしたら、彼女にあの子を重ねてしまっていたのかもしれない。
彼女は元気だろうか。
少年は元気だろうか。
ちゃんと前を向けているだろうか。
「ぱぱ?」
「ああ。ごめんなあ」
幸太は我に返り、息子を片手に抱えたまま、出汁の仕込みを終え、土鍋に蓋をした。コンロの火を付ける。
「これが一煮立ちしたら、具をいれるぞー」
幸太の声に息子が意味もわからず「わーい」と歓声を上げる。
幸太はおもむろに、息子を床に降ろした。
息子はきょとんと幸太を見つめる。
幸太も息子の大きな瞳をじっと見つめた。
時代はめまぐるしく変わっていく。
この子は、どんな社会を生きていくんだろう。
きっと、楽しいことも便利なことも増えていくのだろう。
でも、その分、怖いことも、危険なことも、おぞましいことも、たくさん生まれてくるのだろう。
少し、道を踏み間違えるだけで、きっとそれらはすぐに息子の足につかみかかり、引きずり落とそうとするのだろう。
「パパの友達はな」
幸太は息子のサラサラとした髪をなでた。
「いつもじゃない、いつもじゃなかったけど、正しく生きようとしてた子だったんだ」
幸太は息子を抱きしめた。あまりに小さく、あまりに柔らかい。
「お前も、正しく生きるんだぞ」
それはもしかしたら、すごく難しいことなのかもしれないけれど。
社会はそうはさせてくれないかも知れないけれど。
でも、正しく生きてほしい。
息子はよくわからなかったのだろう。勢いよく「うん!」と頷いた。
幸太は強く息子を抱いた。
強く生きて欲しいと願いながら。
そして誓った。
この子を守るんだと。
どんな社会になっても。
どんな危険からも。
どんな誘惑からも。
相手が誰であろうと。
パパが、絶対、守ってやるからな。
くすぐったかったのか、息子が笑って身をよじる。
妻が帰ってきたのだろう。玄関が開き、「ただいまあ」と声がする。
土鍋が音を立て、優しい日常の香りがふわりと広がった。
【END】
これにて第7章完結となります。
26万字を超える大長編になってしまいました。最後まで読んでくださった皆様。本当にありがとうございます。執筆に半年もかかってしまい、何度も途中で諦めかけましたが、皆様に読んでいただけると思えば頑張れました。
去年10月に出版させていただいた書籍第1巻。たくさんの方にご購入いただいて本当に嬉しいです。お買い上げくださった方。応援コメントをくださった方。この場をお借りして心より感謝申し上げます。
皆様に支えていたお陰で、書籍の第2巻の発売も無事決定いたしました。雪中キャンプ編が縦書きの紙の本になります。やったあ! 感無量です。
改めまして、今回も私の小説を読んでくださり、本当にありがとうございます。
第8章でまた皆様とお会いできたら、とても嬉しいです。
夏人




