【第7章】 廃村キャンプ編 47 祈り
47 祈り
ひまわりを背負ったナツは、自身の傷が痛むのか、呻き声を上げた。
「無理するな。置いていけ」
「うるさい!」
ナツはひまわりを背負ったままヨタヨタと走り出した。
ひまわりはもう降ろせとは言わなかった。言ってもこの娘は聞かないだろうということはここ数時間の共闘を経てわかっていた。この娘は分からず屋なのだ。そして、あきらめが悪い。
水路はすでに氾濫を始めていた。地面を水が這うように流れ、ナツのくるぶしを濡らしている。
「ナツ。入り口の橋はもうダメじゃろう」
「で、でしょうね」
ナツが息を乱しながら答える。
「・・・・・・儂の、屋敷に向かえ」
村の最奥。ため池がある方角。水が流れてくる方向に進めと言われても、ナツはなんの反論もしなかった。
「わかった」
一本道に合流したナツは、背中のひまわりを揺らしながら廃村の奥に向けて走り出した。
その一本道すら、今は小川のようになっていた。この中州の地が水に飲み込まれようとしている。両側の水路から溢れた水だけではあるまい。そもそもひまわりの屋敷の背後にある分水嶺で水が二手に分かれきらず、分水堤を超えて流れ出て来ているのだろう。それを裏付けるように、進めば進むほど、道を覆う水のかさは増えていった。
流れに逆らって進むため、ナツはゼエゼエと苦しそうに息をする。
無理矢理降りようかと考えたが、すでにひまわりはナツの背中を押す力も出なかった。簡易的な止血帯をしているとはいえ、左の二の腕と右の太ももを撃ち抜かれているのだ。血を流しすぎた。
揺れる背の上で、朦朧とする視界の中、滅びていく村を眺める。
藁葺き屋根の古民家は残らず炎に包まれ、周りの木々の枝葉へも燃え移っていた。草むらや荒れ地のススキを舐め尽くした炎は、今はあふれ出た水とぶつかり、灰色の煙を出してくすぶっている。
おっかあ。ごめんな。
ひまわりは母を思い出した。父の作った堰堤を誇らしげに眺める横顔。自分が水源を守る武士の末裔であることを自慢げに語る笑顔。
儂が、全部、壊してしまったな。
ひまわりが父と、母と、松江と、陽向と過ごした屋敷が見えてくる。炎上するこの村で唯一、火の手が上がっていない。だが、ひまわりの予想通り、屋敷の背後から大量の水があふれ出て、まるで嵐の日の河川の中央に建っているかのような有様だった。膝ほどの高さにまでぶつかってくる水流の中をナツが唸りながら逆行する。
分水嶺の小山程度の堤防がまだぎりぎり機能しているのだろう。だが、もう限界だ。
屋敷の中に入った。屋敷の裏側の壁に穴でもあいたのか、土間も居間も水浸しだ。食器や小物が水面に浮かんで、次々と屋敷の外に流れ出ていく。屋敷全体がギシギシと悲鳴を上げていく。大黒柱が振動していた。この屋敷もじきに全て押し流される。
「い、井戸に・・・・・・」
水しぶきと、あらゆる物が流される騒音の中、ひまわりの呟きがナツに届いたとは思えない。だが、ナツはバシャバシャと半分泳ぐようにしながら、まっすぐに土間の奥にある井戸に向かった。丸い大きな井戸。とっくに枯れてしまった使われなくなった井戸。
ナツは井戸を覆う蓋を投げ飛ばすように開けると、その縁に登った。
堰堤がさらに崩れたのだろうか。山の方から轟音が響いた。
「いくわよ!」
ナツがかけ声と共に、井戸に飛び降りる。
数メートルの落下。ドシンとナツの両足が井戸の底に着地し、その細い脚で二人分の体重を受け止める。全身のあらゆる怪我が痛むのだろう。ナツは獣のような唸りを噛みしめた歯の間から漏らした。
直後、頭上でバキバキバキとあらゆる物がへし折られる壮絶な破壊音が通り過ぎた。
「走れ!」
ひまわりの振り絞った叫びと、涸れ井戸の底に作られた横穴にナツが走り込んだのはほぼ同時だった。紙一重のタイミングで上から振ってきた大量の土砂と瓦礫を含んだ泥水が背後にドパンと弾ける。走り続けるナツの背後で巨大な蛇口を限界まで捻ったような轟音が響き続ける。
その音から逃げるように、ナツは走る。
父が短い半生をかけて作った抜け穴を、ナツが走り抜ける。
真っ暗な通路を。ひまわりですら明かりがなければ進めないような広大な人工の洞窟を、ナツはなんの躊躇もなく走り続けた。
途中、何度も分かれ道がある。確実に脱出するためには正しい道順がある。ひまわりは何度も指示を出そうとした。だが、ナツはそれを聞くまでもなく、次々と正しいルートを即座に選択していく。
「ナツ。なぜ、道がわかる」
驚愕するひまわりの問いにナツは短く答えた。
「案内がいるから」
「案内?」
荒い息を吐きながらも走り続けるナツは前方に続く暗闇を見据えていた。
「村の途中から、ずっと案内してくれてるの。味方かもわかんなかったけど。信じるしかないから」
ナツの目線の先には、何もない。誰もいない。
ナツには儂が見えないものが見えているのか。
案内? 一体誰が。
この道を知っているものは、儂しかいない。
いや、もう一人いるとしたら。
それは、この洞窟を、この脱出口を作った人間だ。
「作業着で、頭に、はちまきを巻いた、男の人! ひまわり、知ってる?」
ひまわりは、荒い息をするナツの背中で、目を瞑った。
目頭が熱くなる。
「ああ。知っとるよ」
よく、知っとる。
その短い半生の全てを使ってこの道を作った男。
『俺には、もう、母さんとお前しかおらん』
ただ、家族のために。
村中から馬鹿にされようとも。見下されようとも。
千に一つ、万に一つのために。穴を掘り続けた馬鹿な男。
『お前らだけは助けるんじゃ』
おとう。
「あれ? おじさん、消えた?」
ナツがそう呟いてスピードを緩めた瞬間、ナツは壁に激突した。額を片手で押さえながらナツが「え、行き止まり?」と焦った声を出す。
背後からは通路に流れ込んでくる濁流の唸り声がすぐそこまで迫っている。
「上じゃ」
ひまわりは叫んだ。
「登るんじゃ!」
手探りで壁に打ち込まれた杭のハシゴをナツが見つけ、よじ登り始める。
そのナツの足下で、流れ込んできた水が壁にぶつかり、弾けた。
ひまわりは下からの飛沫を浴びながら、ナツの背にしがみついていた。
ナツの背に掴まりながら、父の背中を思い出していた。
暗い洞窟。ツルハシを振る上気した身体。そして、繰り返す祈り。
『つながってくれ』
登り続けたナツの頭頂部がまた壁にぶつかる。しかし、感触で気がついたのだろう。
その頭上にぶつかった石の蓋をナツは頭で押す。
ひまわりも片手を伸ばして渾身の力で押し上げた。
ボコリと鈍い音を立てて、石蓋がもち上がり、向こう側に転がった。
差し込んだ朝日が、二人を照らした。
それがあまりに眩しくて、ひまわりの目尻から涙が頬を伝った。
つながったぞ。おとう。




