【第2章】 湖畔キャンプ編 斉藤ナツ 10
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朦朧とした意識の中で、始めに目に入ったのは木目だった。床の木目。よくある木目調デザインのフローリングではなく、本物の木材を使用して作られた木製の床だ。視野が徐々に広がると、視界の床には暖かな光で照らされている箇所と薄暗く陰がさしている箇所があることがわかる。
ぼおっとした頭で、しばらく見つめ、それが自分の頭によってできた陰だと言うことがわかった。視線をわずかにずらすと視界の両脇に自分の靴を履いた両足が見える。この部屋は下足オッケーなのか。西洋風だなと気の抜けたことを思いながらしばらく視線だけを動かし、ようやく自分が椅子に後ろ手で縛られた状態でうなだれていたことを理解した。ゆっくりと顔を上げる。
「紗奈子さん、生ハム召し上がりますか」
「ごめんなさい。最近食欲なくて・・・・・・ すくときはすごくすくんですけど」
目の前には円形の大きなテーブルが置かれていた。色とりどりのオードブルが並べられている。ワインの瓶もいくつか。フルーツの盛り合わせまであった。奥のサイドテーブルに置いてあるのは生ハムの原木か? 豪勢なことだ。横には七輪まで用意してある。あぶりでもするのだろうか。
「じゃあ俺がおかわりもらうよ」
テーブルを挟んで私の左斜め向かいに座っている石田がワイングラスを掲げた。上機嫌に赤ら顔だ。結構飲んでいるのだろう。
「もちろんです。お気に召していただけたようで」
私の真向かいに座っていた白鳥が席を立つ。すぐ後ろに置いてある生ハムの原木に向かう。熟成された豚の足が一本丸まる専用の台座に鎮座している。白鳥が専用の大きなナイフを使い、慣れた手つきで生ハムを切り出していく。
周りを見回す。十畳ほどの部屋。いや、小屋だった。木材を組み合わせた壁で四方が囲まれている。キャンプ場特有のロッジだ。ただ、私が知っている宿泊用のロッジと比べると違和感がある。しばらく見渡して違和感の正体に気がついた。ベッドがないのだ。テーブルと椅子と奥のサイドテーブルと小さなゴミ箱以外、生活家具が置かれていない。
「あ、なっちゃんがおきた!」
右隣に座った紗奈子が私の顔をのぞき込んできた。紗奈子も少し飲んだのだろうか。顔に赤みが差している。服は相変わらず土汚れがついた赤いワンピースだが、肩には清潔そうなタオルがかかっており、髪も半分乾きかけているようだった。
それを見て、すとんと納得した。
こいつ、幽霊じゃないな。
ようやく自分の思い違いを認め、それと同時に意識がクリアになっていく。
紗奈子は生きた人間だ。よく考えれば幽霊が平手打ちを食らったり、唐揚げを食ったりするわけがない。前回の岸本あかりとの経験と、夜の湖というシュチュエーションで完全にまた無念の死者の亡霊が現れたのかと思い込んでしまった。
いや、でも、だとしたら、この子はあんなところにたった一人で何をしに来たんだ。
「起きましたか。ご気分はどうですか」
生ハムを皿に盛った白鳥が笑顔で振り向く。
「手荒な事をしてすみませんでした。ただ、山の中は結構音が響くんです。特に高所からだと」
白鳥は落ち着いた動作で皿を石田の前に置いた。
「ここは結構標高が高いので、叫ばれたりしたら下まで届くかもしれません。強引だとは思いましたが、対処させていただきました」
確かに、キャンプ場で上の方のサイトの話声がやけに大きく聞こえることもある。わかるわかる。だが、問題はそこではない。
「でも、このロッジは密閉しているので、音は漏れません。ご安心ください」
見ると、唯一向かいの壁にはめ込まれた小窓は、縁に隙間を防ぐようにテープがべっとりと貼り付けてあった。
ふざけるなと抗議の声をあげる。あげたつもりだった。しかし、私の口からはくぐもったうめき声が漏れただけだった。
「とは言いつつ、念のため、猿ぐつわはさせていただいておりますが」
舌で口内を探る。どうやらハンカチか何かを口に突っ込まれ、上から布で口かせをはめられているようだ。しばらくうめくだけうめいてみたが、何か意味がある言葉は発せられそうもない。気づくと石田が面白そうに私を観察していた。睨み付けると石田は鼻で笑って皿の生ハムに目線を戻した。
「あの、口のやつ、はずしてあげてもいいんじゃないですか? かわいそう・・・・・・」
紗奈子が同情のまなざしを向けてくる。
「そうしてあげたいのは山々なんですがね・・・・・・ あの状態になってしまった人は、もう気持ちを失ってしまっているので、あることないこと口走って、皆さんの決意をも崩そうとしてきます。こうするのが一番なんです」
何を言っているんだこいつは。
紗奈子は何か言いたそうに口を開きかけたが、自分を納得させるように頷いた。
「そうだよね。だれだって、怖いもんね・・・・・・」
「はい。無理もありませんよ」
白鳥がおもむろに立ち上がる。
「さて、なっちゃんさんも目を覚ましたことですし、最後のセレモニーに移りましょうか」
それを合図に、3人は部屋の配置替えを始めた。テーブルは隅に追いやられ、椅子が小屋の真ん中に円になるように並べられる。
私はその隙に自分の拘束状態を確認した。椅子の背もたれを挟み込むように後ろ手で拘束されている。感触からして結束バンドだろう。
椅子に直接縛り付けられている訳ではないようだが、背もたれの形状的に結束バンドを外さなければ、椅子から離れることは出来ない。足は拘束されていないが、この状態では立ち上がっても甲羅の大きすぎる亀のようになってしまうだろう。
後ろ手で尻ポケットを探ったが、どうやら折りたたみナイフは取り上げられている。丸腰だ。
そうやってごそごそしている私を、白鳥が椅子ごと引きずり、円に加える。
右に紗奈子、正面に白鳥、左に石田だ。石田はまだワイングラスを持ち、生ハムの皿を膝に乗せている。足下には小さなゴミ箱まで持ってきていた。
円が完成したところで、白鳥が話しはじめる。
「さて、皆さん、本日は私の主催するこの会にご参加いただきありがとうございます。」
白鳥の挨拶に、紗奈子が音の出ない拍手のまねごとをするのを視界の右端に捉える。
「改めまして、皆様の旅立ちをよりよいものにするためにサポートさせていただく救済サイト『Lake』の管理人、白鳥です」
白鳥は自分の椅子の前に立ち、紗奈子と石田の顔を順に見つめていく。
「皆様の言葉にし尽くしがたい苦しみを、これまでサイト上で伺うばかりでございましたが、こうして皆様のお顔を実際に拝見して言葉を交わし、また、大切な最後の旅立ちの日に立ち会えたこと、大変光栄に思います」
『最後の旅立ち』?
白鳥が穏やかに口にする言葉の意味を考え、自分の動悸が激しくなるのを感じる。
必死に周りを見渡す。逃げなければ。
私の目が隅に片付けられた生ハムセットの置かれたサイドテーブルで止まる。あの専用ナイフをなんとか手にすれば、手首の拘束を切れるかもしれない。仮に持てたところで、後ろで縛られた状態でうまく扱えるとは思えないが、所詮結束バンドだ。切り目さえつけられればなんとかなるかもしれない。
そこで、生ハムの台のすぐ側の七輪が目にとまり、息をのむ。
まだ火は着いていない。だからこそ中がよく見えた。中に入っているあれはただの炭ではない。
練炭だ。
「さらに、飛び入りではありますが、紗奈子さんのご友人も今回お招きすることになりました」
白鳥の優しい目が私に向けられる。
「もちろん歓迎したいと思います」
私は首を横に振る。
ちがう。私はちがう。人違いだ。
しかし、うめき声にしかならない。
「残念ながら、今は決意が揺らいでしまっているご様子です。しかし、問題ありません」
必死に首を振り続ける私を、白鳥が憐憫の情を浮かべた目で見る。
「サイトでご説明している通り、この会は、一人きりでは寂しくて行けないという方、自分ではいつも最後まで出来ないという方、自分一人ではどうしても旅立てない方、そういった方々をサポートする目的で開いております。途中で決意が揺らいでしまっても、大丈夫です」
白鳥がゆっくりと、しかし力強く言い切った。
「僕が、責任を持って、全員お送りいたします」
目を見開いた私を、白鳥はやさしく見つめ返す。
「この湖に来たということは、自分で覚悟を決められた後、ということですからね」
隣で紗奈子がウンウンと大きく頷く。
なんだそれ。聞いてないぞ。私は何も決めていない。勘違いするな。
私は、ただ、キャンプをしたかっただけだ。
「皆様の旅立ちの場についても再度ご説明させていただきますね。このキャンプ場は両親が経営していたものですが、今はもうとっくに閉業しております。しかし、僕が土地の所有権を引き継ぎ、今は、苦しむ人々のための最後の憩いの場として提供させていただいております。ごゆるりとお過ごしいただけましたでしょうか」
行きに使ったカーナビの画面を思い出す。あのカーナビは中古車に元々ついていた物のため、情報がかなり古い。廃業したキャンプ場が表示されてもおかしくはない。
そして、よく考えれば、美音が予約していたキャンプ場はネット決済にも対応している最新のキャンプ場だ。あの古いナビで出るはずがない。
ようやく理解した。彼らが勘違いしたんじゃない。
私がキャンプ場を間違えたのだ。
自分でこの地に入り、自分で受付をして、自分で人数追加を頼んだ。
「さあ、こんな苦しみにあふれた世界に耐えるのもあと少しです。」
そして自分から飛び込んだ。
「皆さん、素晴らしい旅立ちにしましょう」
集団自殺の場に。
あまりの状況にガクガクと膝が揺れ始めるのを感じた。冷たい汗が頬を伝う。その様子を見て取ったのだろう。紗奈子が身を寄せてきた。
「そうだよね・・・・・・ なっちゃんだって怖いにきまってるよね」
私は、この子は湖で死んだのだと勘違いしていた。だが違った。この子は死んだんじゃない。
今から死のうとしているのだ。
紗奈子は私の膝にやさしく手を置いた。
「大丈夫。一人じゃないからね。なっちゃん」
私と一緒に。




