【第7章】 廃村キャンプ編 46 因果
46 因果
卯月梅がその老人に話しかけられたのは、何でもない大衆居酒屋だった。
梅は失意のどん底にあった。キャリア組であったはずの自分が、地元の県警に出向させられ、将来は顎で使うはずだったノンキャリ達に囲まれながら興味のない職務につかされる日々に疲弊していた。
金もない。友人もいない。
梅は貧乏人の行くところと馬鹿にしていた大衆居酒屋に、仕事帰りによって安酒を呷るぐらいしか、気晴らしの選択肢がなかった。
「卯月梅さんですね」
店内だというのにフードを被った妙な老人に話しかけられたとき、梅は酩酊状態だった。老人がいつの間に隣に座ったのかもわからなかった。
「中高と名門校を出られ、有名大学を卒業後、国家公務員の試験にも一発合格。晴れてキャリア組として入庁。実に優秀であらせられる。合わせてお父上は警察官僚。しかもかなり上の方の。将来安泰。出世街道まっしぐら。いやあ、うらやましい」
唄うようにサラサラと言葉を並べた老人は、そこで言葉を切って不敵に笑った。
「ですが残念。あなたのお父上は失脚なされた」
梅は急速に酔いが覚めるのを感じた。
「立花元大臣とあなたの父上の癒着。暴かれた汚職の数々は警察組織全体の恥です。何がどう転んでも、その娘の梅が出世コースに戻れることなど万に一つも無いでしょう」
老人は皺だらけの顔の中でさらに目を細めた。
「心中、お察しします」
席を立とうとした梅の腕を老人が掴んだ。そのあまりに強い力に、梅はおののいた。
梅は警察官として一通りの体術は身につけている。
だが、この老人には勝てない。そう思わせる迫力をその男は持っていた。
「実は私、裏の方の何でも屋をしておりまして」
老人はフードを脱いだ。オールバックの白髪が露わになる。不自然に片方の目だけが小さいその老人がほくそ笑んだ。
「その仕事の一つに、とある『組織』の人材のスカウトもさせてもらってます」
その老人の悪魔の誘いに乗る形で、梅は汚職警官としての一歩を踏み出したのである。
「おい。ナツ。背中が燃えとるぞ」
「え、本当? 燃えにくいと言っても、不燃素材じゃないから。あ、消えた」
「急げ。ここも直に水に飲まれる。そんな奴ほっとけ」
「置いてくにしても、まだ息があったら背中を撃たれる。銃だけ回収しとくわ」
「胸に当たった。死んだじゃろ」
「よく当てたわね。最後の一発」
「お主が、絶対当てろというたんじゃろがい」
ナツとひまわりの会話が聞こえる。一瞬だけ意識が途絶えていたのか。
梅は自身の状況を確認した。
胸を撃たれた。
だが、問題ない。激痛は走っているが、死ぬことはない。
シャツの下に薄手の防弾チョッキを着込んでいたのだから。
裏社会を牛耳る「組織」。その幹部と交渉するため、梅は直々にこのキャンプ場に足を運んだ。まさか罠だとは思わなかったが、「組織」の奴らだってそもそも十分危ない。念には念を込めて佐藤に護身用の拳銃を用意させ、防弾チョッキを着込んで来た。それが功を奏した。
右手にはまだリボルバー拳銃が握られていた。あと一発残っているはず。
そして、もう一つ。奥の手もある。
梅は地面に倒れた体勢のまま、半目を開いた。ナツが近づいてくる。
水路の氾濫具合に目をやっているナツは気がつかない。
ひまわりが梅の動きに気がついたのだろう。「ナツ!」と叫び声を上げる。
ナツがこちらに振り向いたのと、梅がその頭に狙いを定め、「動くな!」と叫んだのはほぼ同時だった。
ナツが両手を挙げて固まる。
ひまわりがすぐさまジップガンを構えた。しかし、梅は焦らない。
「最後の一発、だったんでしょ」
あのジップガンはもう弾切れだ。
ひまわりが顔を憤怒で歪めた。
「お前だって、もう何発も……」
梅は腰の後ろから左手で9ミリ拳銃を引き抜いた。
屋敷のスーツケースに入っていた銃。秋人が回収して、その後、素直に梅に渡した自動拳銃。ブローニングハイパワー。兵隊達にも黙って隠し持っていた最後の奥の手。
ひまわりが固まる。梅はほくそ笑んだ。
秋人は一発も撃っていないと言っていた。つまり、この9ミリ拳銃には全弾残っている。十数発だ。貴様の子供の工作みたいな自作銃と一緒にするな。
梅は右手で構えたリボルバーをナツに。左手で構えた9ミリ拳銃をひまわりに向けた。
「さあ、どちらを先に撃とうかしら……」
そう言い終わらないうちに、ナツが突っ込んで来た。
は?
梅は面食らった。状況がわかっていないのか。こっちは銃をもってるんだぞ。
ナツがつかみかかってくる。梅は溜め息をついて、その左手にリボルバーの銃口を向け、引き金を引いた。
轟音と硝煙と共に、鮮血が散り、ナツがその場に崩れ落ちる。
「きさまあああ!」
今度はひまわりが突っ込んで来ようとする。やれやれ。全く馬鹿ばっかりだ。
梅はリボルバーを捨て、9ミリ拳銃を右手に持ち替え、梅の足にしがみついて呻いているナツの頭頂部に、銃口を突きつけた。
「動くな。ナツちゃんが死んじゃうよ」
ひまわりの動きがピタリと止まる。
梅は楽しくて仕方がなかった。すぐさま二人とも殺す事ができる状況でも、楽しむことを、いたぶることを止められなかった。今夜、ここまで煮え湯を飲まされ続けたのだ。二人とも、すぐに殺しなどするものか。
さて、次はナツちゃんのどこを撃とうかなー。
そんな梅の気配を感じたのだろうか。ナツが撃たれた手の平をかばいながら、ズリズリと這って梅から離れていく。
「あれれ? ナツちゃん? どこ行くの?」
梅はその敗走を見て、笑いが止まらなかった。なんて惨めな。
「そっちは水路だよー。危ないよナツちゃん」
銃口を向けながら、くすくすと笑う。
ひまわりが怒りの唸り声を上げるが、ナツが人質になっている以上動きようがないらしい。その悔しそうな表情がまた、梅の加虐欲を誘った。
だから、気がつかなかった。
血だらけの左手に気をとられるあまり、ナツが右手に黄色いパラコードを握っていたことを。
ナツが今にもあふれ出そうな水路の縁に、震えながら立ち上がった。撃たれた左手をかばいながら。
梅はその様子を半笑いのままいぶかしんだ。
「なに。ナツちゃん。飛び込むの? ここまで来て入水自殺?」
ナツは激痛に耐えているのだろう。顔を真っ青にしながら「それもいいかもね」と笑った。
「心中ってやつ?」
そこでようやく梅は気がついた。
ナツの右手から伸びたパラコードが、地面を伝っている。
そして、梅の左の足首に繋がっていた。
梅の左足首には、手錠が嵌められていた。あの姫宮を拘束していた銀の手錠。その手錠には黄色いパラコードが繋がれていた。梅自身が作った拘束具。自分と相手を繋ぐリード。
梅はぞっとする。こいつ、私を道連れに一緒に飛び込むつもりか。
梅は咄嗟にナツの眉間に銃口を向ける。
だが、ダメだ。今撃ったらナツは水路に転落する。そしたら、ロープに引っ張られ、私も濁流に引きずり込まれる。
ナツの背後で濁流が波立ち、大きく水しぶきが上がった。
引き金を引けない梅に、ナツが言い放つ。
「でも、落ちるのは。あんた一人よ」
ナツはおもむろに迷彩柄のマントを脱ぎ、血だらけの手の平で頭上に掲げた。一枚の大きな布が風になびく。
その布の隅。銀のハトメがあしらわれた小さな穴に、パラコードが結びつけられていた。
呆然と見つめる梅に、ナツは語った。
「この布ね、ただの布じゃないの。コットン生地。火に強くて、通気性もよくて、冬は暖かく、夏は涼しい」
何の話だ?
「ただね。欠点もあって」
ナツは額に脂汗をかきながらも、にやりと笑った。
「水に弱い。そして、超重くなる」
ナツの血が、じわじわとコットン布に染み込んでいく。
ナツの意図を理解した梅は叫んだ。
「ちょ、待って・・・・・・」
ナツが布から手を離した。
ふわりと風に漂った迷彩柄の布は、荒れ狂う濁流の中に、はらりと落ちた。
梅は呆気にとられて、「え?」と声を漏らすことしか出来なかった。
一瞬遅れて、凄まじい勢いで左足が引っ張られた。梅は何の抵抗も出来ず、地面に引きずり倒される。
「は!? はあ!?」
想像を絶する力でパラコードが引っ張られる。
梅は反射的に拳銃を放り出し、地面にしがみついた。だが、何の意味も無い。ズリズリと無情に身体が引きずられていく。
その後の展開が頭に浮かんだ梅は絶叫した。
「やだ! やだやだやだやだ!」
無様に地面を掻きむしりながらナツの前を通り過ぎる。
梅は恥も外聞も無く、叫んだ。
「ナツちゃん! 助けて!」
だが、ナツは冷淡な表情で梅を見下ろした。
必死の形相の梅に「卯月刑事」と呟く。
「ガールズトーク、楽しかったですね」
さらに梅は引きずられていく。丈夫さが売りのパラコードは切れることはない。
ついに梅の脚が泥流の飛沫を感じた。梅は悲鳴を上げながら、一つの路傍の石にしがみついた。
視界の先にひまわりが立っていた。だから梅は叫んだ。
「助けて! 助けてください!」
だが、ひまわりは悲しそうな目で梅を見つめるだけだった。
「助け・・・・・・助けろよ! 助けろおおお!」
ひまわりは言った。淡々と。
「そこは、松江が死んだ川だ」
ぼこりと、梅が掴まっていた石が地面から抜けた。
「しっかり、姉に謝って来い」
次の瞬間、卯月梅は濁流に引きずり込まれた。そして、瞬く間に下流へと押し流されていった。




