【第2章】 湖畔キャンプ編 閑話 有馬徹
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「人はね、都合のいいように、自分で思い込んじゃうものなんだよ。」
それが「彼」、有馬徹からの初めての言葉だった。
大学一回生だった私は、とりあえず大学の近場の喫茶店でバイトを始めたところだった。
私の大学生活初バイトの喫茶店は、ガーナだったか、コンゴだったか、とりあえずアフリカの国みたいな名前の店だった。コーヒー豆に力を入れていたらしいので、その産地からとったのかもしれない。
それなりの町中にひっそりと存在する薄暗い店で、繁盛しているとは言いづらいが、決して貸し切り状態にはならないといった常に絶妙な客入りをしている店であった。
私はいつもホールを担当させられ、時折、厨房の小窓から出されたコーヒーやら軽食やらを機械的にテーブルに運ぶだけの無為な時間を過ごしていた。しかも、一人ならまだ気楽でいいものを、こんなに仕事量が少ないのに、いつも隣にはもう一人バイトが待機させられており、暇なタイミングは何かしら会話をしなければ間が持たないという気まずい状況だった。
当時から人嫌いだった私は、この話しかけるべきかどうかといった状況が本当に苦痛だった。
ペアが男性だった場合は特に嫌だった。女子大生だからと、帰り際に「飲みにいこうよ」と誘われることもしばしばあった。まあ、「はあ。なんのためにですか?」とでも返せば、言葉を濁してすごすごあきらめてくれるのだが、次回またペアになったときにはより気まずくなった。
この日も、初めてシフトが被った同年代の青年とペアを組まされた。
テーブルにいる客への給仕が一通り終わり、例の沈黙の待機時間が訪れる。「やめるか、このバイト」と割とまじめに考えていた時、急に彼は話しかけてきた。
唐突な言葉に反応できずにいると、聞こえなかったと思ったのか、徹はもう一度小声で繰り返した。
「誰だって、自分の都合に良いように思い込もうとするんだ。自分では気がつかないけどね」
「はあ」と返して、徹を見る。徹は、私たちの待機場所のすぐ前にあるテーブルを見つめていた。そのテーブルには男性が2人座っており、ラフなスーツを着た男性が、私服の青年に向かって、熱心に語りかけている。
「あの人、マルチだよ」
徹は私にしか聞こえないぐらいの声量でつぶやいた。
「ああ、ねずみ講ですか」
徹はいたずらっぽく笑ってうなずいた。
「あのスーツ君、この時間帯は毎週のようにいるよ。相手は毎回違うけどね」
店の雰囲気なのか、立地のせいなのか、この店はねずみ講の巣になっていると他のバイトに聞いていた。つまり、詐欺まがいの勧誘の場によく使われているのだ。
確かに、この店は街中に珍しくいつまででも長居していい雰囲気があるし、奥まった席が多いから、勧誘される側も出にくい構造になっているといえる。店としては注文してくれるなら文句はないという経営方針なので、ねずみさんたちにとって都合がいい店なのだろう。
「まあ、あの人はマルチ商法というより、意識高い系の人だけどね」
「意識高い系?」
「情報商材とか、セミナーとか、投資とか」
「ああ」
改めてテーブルの二人を見る。ぺらぺらとしゃべるラフスーツの話を、青年は若干不安そうに、しかし、抵抗のそぶりもなく黙って聞いていた。時折、遠慮がちにうなずきもしている。
「聞いててごらん。絶対に都合の悪いことは自分から言わないから」
耳をそばだててみると、途切れ途切れではあるが、会話の断片が聞こえてきた。
「今、動くのがベスト」だとか、「メンバーは全力でサポートしてくれる」だとか、「リアルに成功した人を何人も知ってる」とか、「その人は今、会社を大きくして……」とかなんとか。
「うわあ。いかにもですね」
「ね、面白いでしょ」
徹は得意げに笑った。まるでカブトムシ捕まえてきた小学生の様な笑顔だった。
「でも、都合が悪いことを言わないのは、当然じゃないですか。だまそうとしてるんだから」
私がささやくと、徹は芝居がかったようにちっちっちと舌を鳴らした。
「そんなに単純じゃないよ。スーツ君がもし本気で騙そうとしているのであれば、青年は引っかからないよ」
「と、いうと?」
「スーツ君はね、100パーセントじゃないにせよ、いくらかは本当に善意で動いているんだよ」
私はスーツ男を見つめ、徹に視線を移した。
「まさか」
「そのまさかさ。多分ね」
彼は嬉しそうに語り出した。小声で。
「スーツ君はね、聞いていると、決して嘘はつかないんだ。彼の所属するセミナーか何かの中から、成功者が出ているのはおそらく本当なんだと思う。会員になれば、応援も実際にしてくれるんだろう。何円入会費にかかるかは知らないけどね」
そこで徹はちらりとスーツ男に目をやった。
「でもね、スーツ君は成功した人の話はたくさんするし、うまくいった場合の成功までの道のりをこれでもかとくわしく、そしてそれで得られるメリットも昏々と語るくせに、一番大事な、何人が成功したと同時に、何人が失敗したか、失敗した人がどうなるかを一切語らないんだよね」
徹は、今度はいつしか熱心に相槌を打っている青年に目を向けた。
「ぼくが見ただけでも、10人以上を勧誘して、サークルかセミナーかにすでに引き込んでいるはずだから、最終失敗した人はたくさん見ているはずなんだ。でも、それについては一切触れない。都合の悪いことは存在しなかったように無視して、成功した人のことだけを語る」
「それも一種の嘘では?」
「嘘っていうのは、思ったより難しいんだよ。普通の人は嘘をつくと、多少なりとも罪悪感を覚えるからね。下手な人だとぎこちなくなったり、リアリティがなくなったりして、すぐに気づかれて逃げられる。でも、都合のいいことを黙っている、というより、話さないというだけなら、嘘ではない。少なくとも隠す側は嘘だとは思わない。だから罪悪感がないから不自然にならない」
なんだか納得できるような、出来ないような話だった。
「僕が思うに、スーツ君は無意識に、都合が悪いことを避けてしゃべってしまってるんじゃないかな。下手すると、自分でもリスクゼロでメリットしかないと思い込んじゃってるのかも」
「……そんなことありえるんですか」
徹はいたずらっぽく笑った。
「ありえるさ。人を騙してやろうなんて心から開き直れる人はそう多くはないよ。大体は自分で信じちゃってるんじゃないかな。自分は本当に青年の未来のために、良かれと思ってアドバイスをしてあげているんだあって。自分の言葉で自分をごまかしちゃって、都合が悪いことは意識から追いやって、自分はいいことをしているんだって自分を信じこませちゃっているんじゃないかな」
徹は自分で納得したように頷いた。
「だから青年も気づかない。青年だって、都合のいいことだけを聞きたいと思っているからね。なぜか自分は成功する、なんだかんだうまくいくって思い込んでる。失敗したときの話なんて、彼にとっては何よりも大事な事のはずなのに」
徹が締めくくったのとほぼ同時に、青年が何やら書類にサインをし始めた。
「スーツ君も、青年も。外から見れば明らかな事でも、人は自分のことになると途端に気がつかなくなるんだね」
よくしゃべる人だなと思いながら、私も自然に、本音で言葉を返した。
「まあ、所詮は他人事ですし、興味ないです。ぶっちゃけどうでもいい」
徹は一瞬驚いたようにきょとんとし、すぐに、今日一番の笑顔を見せた。
「クールだね。かっこいい」
私のことを愛想がないという人はたくさん居たが、そんな風に表現したのは徹が初めてだった。
「そうですか?」
会話が途切れた。だが、今回の沈黙は、なんというか、嫌な感じではなかった。
しばらくして、徹が前を向いたまま口を開いた。
「斎藤さん」
「はい」
私も前を向いたまま答える。
「今度、僕とごはんいきませんか?」
「ふたりで?」
「ふたりで」
「何のために?」
断るつもりでにべもなく返した私に、徹は「それは……」と言葉を濁した。
そして、前を向いたままきっぱりと言った。
「自分の都合のいいように、解釈してください」
笑ってしまった。




