【第7章】 廃村キャンプ編 34 ひまわり3
34 ひまわり3
「すごい! リングだ! リング!」
井戸を見てはしゃぐ十歳の少女に、ひまわりは「りんぐ?」と首を傾げた。
「知らないの!? さだこが出てくるんだよ!」
「誰じゃそれは」
「髪が黒くて長い女の人!」
そんな女、世の中に腐るほどおるじゃろ。
「気にしないでください」と松江が微笑んだ。
「夫がホラー映画好きで、影響受けちゃったんです。自分は怖くて見れないくせに、変な知識だけついちゃったみたいで」
そこまで言って、松江は「あ、元、夫か」と苦笑した。
ひまわりは松江のこけた頬を見つめた。
初めて会ったときはこんな風ではなかった。
年上に見える夫と陽向と三人で、「キャンプ場を作りたいから、土地を譲って欲しい」と押しかけてきたときは、なんの冗談かと思った。無論、にべもなく断った。
村に空き家は溢れている。そこに住み着く分には文句はないが、儂の土地には近づくな。キャンプ場なんて論外じゃ。何度来てもそう言ったし、時には水をぶっかけたことさえある。それでも足繁く通う夫婦に閉口しながらも、次第にほだされて世間話をするぐらいの関係にはなってはいた。だが、ここ一年ほどパタリと姿を見なくなり、ようやく諦めたのかと思いきや。
「今日はご挨拶に来たんです。キャンプ場どころの話では無くなってしまいましたし、それに、麻原さんには大変良くしていただきましたから」
「水をぶっかけただけじゃろ」
「ああ。ありましたね」
松江は懐かしそうに微笑んだ。
「でも、帰り際にはいつもお野菜をくれましたよね。すごく美味しかったです」
「儂一人では食い切れんからな。捨てたようもんじゃ」
松江はまた微笑んだが、その目尻に日々の疲れと将来への不安がにじみ出ていた。
「行く当ては、あるのか」
水路に興味津々の陽向を引っ張りながら、庭先で別れを告げようとする松江に、ひまわりは尋ねた。
「……元夫は出て行ってしまいましたし、今のマンションにはもう住めません。実家も頼れないので、どこか不便でも安い土地に……」
「うちはどうじゃ」
松江が驚いたように目を見開く。
「え、でも」
「この家ならすぐに越してこれるぞ。儂と同居でよければな。一人では広すぎると常々、思っとったところだ」
「でも、本当にお金ありませんよ。家賃だって」
「山の中に畑があってな。最近、上り下りがきつくなってきた。そこを管理してくれ。もちろん、他の田畑の世話も頼むぞ。飼っとる鶏の世話もある。薪割りもしてもらおうかな。忙しくなるぞ」
ひまわりは鼻を鳴らした。
「それが家賃じゃ」
松江がボロボロと涙をこぼした。泣きながら、何度もひまわりに頭を下げる。
陽向が驚いて母を見上げ、ぎゅっと抱きしめると、ひまわりを睨み付けた。
「ママをいじめるな!」
「違うの。違うのよ。陽向。私たち、これからここに住むの」
「ここに! ほんと?」
陽向がぱっと笑顔になる。
「いいのか。不便という点では無類じゃぞ」
「いえ。嬉しいです。私も、陽向も、ここが、本当に大好きなので」
「ひまわりは? ねえ。ひまわりは?」
「麻原さんも、一緒に住むのよ」
陽向はそれを聞いた途端、ひまわりに向かってかけてきて、小豆色のモンペに抱きついた。
「じゃあ、じゃあ! 私がお姉ちゃんね! ひまわりは妹!」
なんでそうなる。
松江の田舎暮らしは苦難の連続だった。
自分でお嬢様育ちだったと言うだけあり、ヘビを見ただけで悲鳴を上げるし、鍬を振るうとへっぴり腰。川魚も捌けなければ、火起こしも満足に出来なかった。よくもまあ、これでキャンプ場を作ると息巻いていたものだと呆れるほどだった。
それでも、松江はよく働いた。ひまわりの言葉少ない説明を懸命に聞き、畑仕事も、薪割りも、鶏の世話にも懸命に打ち込んだ。
半年も経つ頃には、ひまわりの指示が無くてもほとんどのことを自身でこなせるようになっていた。
松江親子は瞬く間にひまわりの家に溶け込んだ。
特に嬉しそうだったのは陽向だった。
ことあるごとにひまわりを妹呼ばわりして、引っ張り回した。我が物顔で村を探検し、「山に行くわよ!」と叫んで山をかき分けていき、その度に道がわからなくなって泣いて、ひまわりにおぶられて下山することを繰り返した。
陽向は歴史が好きだそうで、「私、レキジョなの!」と叫んでは、姉ぶって、母に習った知識を得意げにひまわりに語った。そのほとんどがうろ覚えで、いい加減なものだったが、ひまわりは農作業の片手間に聞いてやった。
陽向は学校には行っていなかった。松江が毎日時間を作って勉強を教えていた。なぜ学校に行かないのかの事情を松江は語らなかったし、ひまわりも聞かなかった。
「なぜ、こいつは儂を妹呼ばわりするんじゃ」
ある日の夜。囲炉裏の前で母の膝枕の上で寝入った陽向の寝顔を見ながら、ひまわりはなんとなしに言った。答えを期待したわけではない。子供のやることに理由など無いだろうとひまわりも思っていたからだ。
だが、松江は陽向のサラサラとした黒髪を撫でる手を止めた。
「……私の、せいなんです」
首を捻るひまわりに松江は囲炉裏の火を見つめながら語った。
「実は、去年、私、妊娠してたんです。男の子か、女の子か」
ひまわりは火の光にオレンジに照らされた松江の細い腹を見た。
「妊娠がわかって、夫もすごく喜んで、意味がわかっていないひまわりに、言ったんです。私。もうすぐ、お姉ちゃんになるんだよって」
松江は再び陽向の髪を撫で始めた。
「この子、すごく喜ぶものだから。私も、夫も、ことあるごとにお姉ちゃん呼ばわりして」
そこで松江は言葉を切った。
「……無理して話さんでもええ」
老婆の言葉は、松江の耳には届かなかったようだ。
「わ、私が、悪かったんです。あの日、安定期に入ったからって。お外に行こうかなんて言ったから。三階建てのマンションで、玄関の前が階段で、危ないって、わかってたのに」
「松江。もうええ」
「わ、わ、わかってたのに。足がむくんでるから、靴をすぐに履けないことぐらい、わかってたのに。そんな中、ひ、陽向の手を握ってたら、陽向が、焦れったくなって、引っ張ることぐらい」
わかってたのに。
松江の嗚咽が収まるのを、ひまわりは囲炉裏の火が爆ぜるのを見ながら、じっと待った。
「……すみません」
「ええ」
ひまわりはスヤスヤと眠る陽向の天使のような寝顔をじっと見つめた。
「この子は、どこまで、理解しとるんじゃ」
松江は「わかりません」と首を振った。
「でも、妹か弟がいなくなってしまったことはわかってるんだと思います。そのせいで、パパがいなくなっちゃったのも」
ひまわりは前屈みに手を伸ばした。皺だらけの手で、少女のふわふわの頬を撫でる。
お姉ちゃんに、なりたかったんじゃな。
「ひまわり! すごいね! ダム?」
「まあ、そんなもんじゃな」
陽向を堰堤の整備に連れてきた。父達の腕が良かったのだろう。堰堤は昭和初期に作られたとは思えないほどに頑強だった。とはいえ、所々ガタは来ている。わずかな水漏れが致命傷になるため、ひまわりはわずかな損傷も見逃さず、すぐに補修を行う。
「ひまわりが一人で、ここを守ってるんでしょ。すごいね!」
「まあな」
一通りに作業が終わって、ひまわりは水路の縁に腰をかけた。
隣に陽向も座る。
「ひまわりは、ここが大好きなんだね!」
ひまわりは「嫌いじゃよ」と吐き捨てた。
そびえる堰堤を見上げる。木々の間から差し込む陽の光が白い線となって幾重もの模様を石造りの壁に浮かんでいた。
「大事にしておったのは、おっかあじゃ。儂は、どうでもええ」
こんなため池にこだわる、母をずっと愚かだと思っていた。
村人に文句こそ言われても、全く感謝などされないのに、日々水路を整備する母に哀れみを感じた。
ボロボロの身体に鞭を打って、茹だるような暑い日も、凍えるような寒い日も、この堰堤に足を運ぶ母を疎ましく思った。
なのに、母が死んだ後は、自分がそれをしている。
「どうしてじゃろうな。こんなもん、捨て置いたらええのに」
今は儂がこの堰堤に、囚われている。
「不思議じゃな。ほっとけんのじゃ」
苦々しい表情で堰堤を見上げるひまわりに、陽向は小首を傾げた。
「なにがおかしいの? ふつうじゃない?」
ひまわりは振り向いた。十歳の少女は、水路の上で髪をなびかせた。
「ひまわりは、お母さんが、大好きだったんでしょ」
思い出す。
青葉の影の下、母が呟く。
大好きよ。ひまわり。
「ああ。そうじゃな」
ひまわりはかさついた手で、皺だらけの顔を擦った。
「大好きじゃった」
陽向が微笑む。
「大好きな人の、大好きなものを、大切にするのは、ふつうだよ?」
ひまわりは手で顔を覆ったまま、頷いた。
「ああ。そうじゃな」
母を思い出す。父がいかにしてこの堰堤を作ったかを誇らしげに語る母の横顔。
おっかあは、おとうのことも大好きじゃったもんな。
だから、大切じゃったんだな。
そして、儂も。
おとうと、おっかあが、大好きじゃった。
ひまわりはパンッと膝を叩いて立ち上がった。
「ありがとうよ。ずっとモヤモヤしてたもんが、無くなった」
陽向を見て、鼻を鳴らす。
「流石、お姉ちゃんじゃ」
陽向はきょとんとしながらも、嬉しそうに笑った。
「遅いなあ。お母さん」
「もう、儂らだけで行ったらいいではないか」
「ダメ。お母さんと二人で見せるの」
鼻息を荒くする陽向にひまわりは苦笑した。
陽向は十三歳になっていた。本来なら中学生である。身長も随分伸びた。
二人は堰堤の前で松江を待っていた。木々の間から夏の日差しが鋭く差し込む。
陽に焼けた少女がにっこり笑う。
「楽しみにしてて。すっごく綺麗なんだから」
今年が始まってから、ひまわりは山の中の畑に立ち入っていなかった。陽向に近づくなと強く命じられていたのである。松江の申し訳なさそうな顔から、また陽向が何かしょうもないことを思いついたのだろうということぐらいはわかった。
松江が訳ありな表情で、植物の種がたくさん買える店を聞いてきたぐらいから、なんとなく予想はついていた。陽向の考えそうなことだ。
二人で懸命に頑張っているようなので、ひまわりは言いつけ通り、山の畑には近寄らず、知らぬ存ぜぬで通してきたのだが。
八月十九日。今日はひまわりの誕生日だ。ひまわり自身にとっては言われて初めて気づくようなただの日付の一つであったが、松江と陽向はこの日のために春から計画していたらしい。そして誕生日当日、ついにお披露目というわけらしかった。
「陽向。お主の誕生日は冬だったな」
「え? うん。十二月十日」
何か、お返しをせねばならんなあ。
「お母さん、ほんと遅いなあ。何してるんだろ」
陽向が焦れたように身体を揺する。
数ヶ月越しのサプライズのようだし、待ちきれないのだろう。日焼けた顔に怒りを浮かべていた。
「迎えに行ってみるか」
「そうする」
言うが早いか、陽向が山を駆け下りていく。まるで子鹿のようだと、ひまわりは微笑ましく思いながら、ゆっくり後を追った。
屋敷の中に、松江はいなかった。
畑にも、鶏小屋にも。
見つかったのは夕刻近くだった。
水路の下流で、息絶えていた。




