【第7章】 廃村キャンプ編 32 梅と松江
32 梅と松江
卯月梅には卯月松江という五歳上の姉がいた。聡明で、賢い姉であった。
梅と松江は警察官僚の父の元に生まれた。父は自分と同じ警察官僚の道を子供にも歩ませたいと常日頃から思っていたので、嫡男を切望していた。が、二人の子宝はどちらも女子であった。
かといって父がすることは変わらなかった。二人の娘に英才教育を叩き込み、読む本から食べるもの、筆箱の中の鉛筆一本まで完全に管理して、自分の地盤を継がせるために心血を注ぎ込んだ。
特に父が期待を寄せたのは姉の松江であった。知力、判断力、忍耐力、体力、運動神経、どれをとっても抜きん出ていた。
「松江と共に警察組織を刷新するのが楽しみだ」
酒の席で父は中学生の松江を隣に座らせて、いつもそう上機嫌に呟いていた。
対して、梅は隣の席で勉強机に座らされてひたすら問題集を解かされていた。姉より劣っている妹など、食卓に上げてもらえるはずがなかった。梅は松江を妬んだ。父の期待を一身に背負う姉をいつも恨みがましく睨んでいた。
松江自身は梅には優しかった。いつも親身になって勉強を教えてくれたし、父にバレないようにこっそりおやつを分けてくれたりもした。
だがその優しさすら、梅には優位にいることを鼻にかけた憐憫の施しにしか見えず、姉への黒い感情は胸の中で渦巻き続けていた。
だから、中学卒業を機に、姉が突然に父と袂を分けた時は飛び上がるほどに嬉しかった。
無論、父は激怒した。松江は当然、名門の高校に進学し、有名大学を卒業して、警察キャリアとしての道を歩むと信じていたからだ。だが、父が気づいた時には松江はすでに実家の自室を整理し、家を出ていた。姉は父の性格をわかっていたからこそ、ぎりぎりまで従順な振りをして、水面下で準備を進めていたのだ。聡明で、賢い姉であった。
梅からすると目の上のたんこぶが消えて清々した。もう、父の期待に応えられるのは自分しかいない。
だから、姉から「一緒に行こう」と誘われた時もにべもなく断った。
これからは自分の時代だとにやつきが止まらなかった。
だが、そんな都合のいい話ではあるはずが無かった。梅には物事の表層しか見えていなかったのである。
唯一残った娘に対する父の支配は苛烈を極めた。
これまで、梅は出来の悪い次女と見なされ、十分に愛されはしなかったものの、期待度が低かった分、ある程度の自由が認められていた。それは絶対的な跡継ぎである松江の存在があってこそだった。梅があずかり知らぬところで、実は松江は妹を守っていたのである。
だが、松江がいない今、父の期待は梅一人に全てのしかかる事となった。
梅にはもう自分の自由な時間など一切なくなった。父の期待に応えるために全ての青春を捧げた。
悲運だったのは、姉の松江が優秀過ぎた事である。決して梅も能力が低いわけではなかった。進学校の校内でも常に一桁の順位をキープし続けていた。それは梅の血の滲むような努力の賜だった。
だが、松江は常に校内一位であった。それが出来ない梅は父に罵倒され続けた。
「松江がいれば」
「松江は」
「松江なら」
「お前が、松江だったら」
そんな言葉を正座で浴びせられ続ける梅の毎日は地獄であったと言っても過言ではなかった。
私は松江じゃない。私は、お姉ちゃんになんかなれっこない。
その言葉を必死に飲み込めながら、梅は過酷な毎日を耐え忍んだ。
そんな思春期を終えた梅は無事、一流の国立大学に入学を果たした。姉には及ばなかったかもしれないが、なんだかんだ、梅は梅で秀才だったのだ。
父の溜飲も一旦降りはしたようで、梅への管理は比較的緩くなった。だが、成績を落とす訳にはいかない梅は日々、膨大な量の学業に打ち込む事となった。別にその頃には梅もなんとも思わなくなっていた。別に楽しいキャンパスライフが送りたかった訳ではないのだから。
私はキャリア組として警察「組織」に入り、父の権力で上に上り詰め、「組織」を刷新し、愚かな低脳たちを導いてやるのだ。父にはそう言われ続けていたし、梅もそのつもりだった。周りで色恋に浮かれている大学生を見ると侮蔑の念で反吐が出そうだった。
そんな時だった。梅のもとに姉の松江から連絡が来た。
梅は姉と十年越しに再会することになった。
「陽向っていうの。お日様のヒナタ。ほら。ご挨拶」
驚くべき事に、松江には娘がいた。それも赤ん坊ではない。どう見ても小学生だった。
「ヒナタです。十歳です。よろしくです」
そう言って人見知りせずに差し出された姪の手を梅は呆然としながら握った。
ヒナタはにっこりと笑った。まるで太陽のような笑顔だった。
十歳。つまり、姉は家を出た時点で妊娠していたことになる。
「えっと、父親は?」
驚きのあまり不躾に聞いてしまった梅は後悔したが、松江は快活に笑った。
「ちょっと前まではいたんだけどね。ケンカしちゃって。別れちゃった」
陽向が得意そうに叫ぶ。
「リコンだよ! リコン!」
「こら」と陽向を抱き上げながら松江は笑う。
「ねえ。この人、だあれ?」
そう言われて、名乗っていなかったことに気づく。
「え、っとね。梅です。お母さんの妹で……」
「いもうと!?」
陽向が顔を輝かした。
「じゃあ、私がお姉ちゃんね。ひな姉って呼んでいいよ」
「は?」
困惑する梅に、松江が「ごめんねえ」と申し訳なさそうな顔を作る。
「話、合わせてあげて」
「え、う、うん」
陽向は母の腕から飛び降りると、梅の手を握った。
「ヒナお姉ちゃんが、案内したげる」
ぐいっと腕が引っ張られる。
梅は無邪気な少女を複雑な思いで見つめた。
十歳。つまり、小学校中学年だ。それにしては、言動が幼すぎる。
「発達がね。ちょっとゆっくりみたいで」
松江がはしゃぐ我が子を見つめながら静かに言った。
陽向が案内しようとしているのは古びた古民家だった。
松江の親子は山奥の農村に引っ越してきたらしい。
松江はウェブデザイナーとしてリモートワークをこなし、わずかながらも収入を得ているらしい。だから住む場所は選ぶ必要は無かったそうだ。
だとしても、よりにもよってなんでこんなところにと言いたくなるような過疎化が進んだ限界集落に松江は住んでいた。見える古民家のほとんどが空き家らしい。
「陽向の父親とね、ここにキャンプ場を作ろうって話をしてたの。見ての通り、自然は豊かだし、土地も広いし。なんなら、この村ごとキャンプ場に出来ちゃいそう」
しかし、夫は出て行った。
「……街に戻ったら? 不便でしょ。こんなとこ」
陽向に屋敷の中に引き込まれながら、梅は言った。こんな水道が通っているかも疑わしい場所に身をやつす意味がわからなかった。
「それがねー。もともとは夫、いや、元夫か。元旦那の趣味ではあったんだけど。私もキャンプにはまっちゃってね」
松江はにやりと笑った。
「キャンプ場、作っちゃおうかなと」
「はあ?」
こんな辺鄙な場所に? 正気か。
「ウメちゃん! 見て見て! いろりだよ。いろり!」
梅は陽向の指し示す居間の囲炉裏を見て、開いた口が塞がらなかった。
江戸時代で時がとまっているのか。ここは。
「どまにはね、井戸もあるんだよ」
「す、すごいね。陽向ちゃん」
必死に笑顔で相づちを打つ。瞬間、べしっと脚を蹴られた。
「違うでしょ! ヒナお姉ちゃんでしょ!」
梅は困惑しながら、「ああ、ごめんね。ヒナお姉ちゃん」と言い直すと、陽向はにっこりと笑った。
「こら! 陽向! 今、ウメちゃんを蹴ったでしょ!」
松江が目をつり上げた。
「暴力は許しませんっていつも言ってるでしょ!」
母に両肩を掴まれ、叱りつけられた陽向は、一瞬表情を失い、数秒のタイムラグの後、火が点いたように泣き出した。
「うわああああん! ママなんて嫌いだあああああ!」
ばっと母の手を振り払って玄関に向かって走り出す。
「こら! 待ちなさい!」
「嫌いだあ! ママも! ウメちゃんも嫌いだああ!」
え、私も?
とばっちりで嫌われてしまった。
慌てて松江が追いかける。
「外には大きな水路もあるの。目を離したら危ない」
だから、なんでそんな危険な土地に住んでるんだと思いながら、一緒になって追いかける。
しかし、陽向は思ったより近く、庭先で止まっていた。
「ママがね! ママがいじめるの!」
「そうか」
まとわりつく少女を、腰の曲がった老婆が鬱陶しげに見つめていた。
「ヒナのことをね、叱りつけるんだよ」
「それはお前が悪いんじゃないのか」
陽向は塩対応の老婆に地団駄を踏む。
「お姉ちゃんがいじめられてるんだよ! かたきをとってよ! ママを叱って!」
「自分でなんとかせい」
松江が安堵したように息を吐く。
「すみません。麻原さん」
老婆は「おお」と返しながらも、じろりと梅を見る。
「麻原さん。この子は私の妹の梅です」
松江の紹介に、梅はぺこりと頭を下げる。老婆はしかめっ面で鼻を鳴らした。怒っているのだろうか。しかし、松江は気にすることなく、笑顔で老婆を梅に紹介した。
「こちら、麻原さん。この屋敷を貸してくださってる、大家さんよ」
老婆は野菜を採りに行っていただろう。長ネギが詰まったカゴを背負っていた。
「ひまわり!」
無視された陽向が涙目で老婆に叫んだ。
「お姉ちゃんの言うことが聞けないのか!」
ひまわりと呼ばれた老婆は再度、鼻を鳴らした。
「儂は、お前の妹ではない」




