【第2章】 湖畔キャンプ編 斉藤ナツ 9
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バジルをクーラーボックスから取り出し、葉から茎を取り除いて、一枚ずつトマトとチーズの間に挟んでいく。
紗奈子はしばらくその様を黙ってみていたが、バジルを全て挟み終えたぐらいのタイミングでふと口を開いた。
「なっちゃん、一人だけ?」
一瞬、恋人の有無かと思ったが、すぐに今日のキャンプについて言っているのだとわかった。同行者はいないのかという質問だ。無論、美音がいる。
「この後、一人来るよ」
そう答えると「だよね」と紗奈子はなぜか安心したように笑った。
「白鳥さんもそう言ってた」
白鳥? なぜ管理人が? 疑問が生まれ、紗奈子に聞こうとしたとき、
「あ、あれじゃない?」
と紗奈子がロッジの方を指さした。見ると、林の中をゆっくり近づいてくる光が見えた。懐中電灯だろう。光はどうやら二つ。恐らく美音と管理人だ。やっと来たか。
私はゆっくりと立ち上がり、なんとなく湖に体を向けた。もう、鳥の鳴き声はしない。さざ波の音がかすかに聞こえるだけだ。
夜の湖畔は肌寒くなってきていた。私はザックの底から上着を取り出し、羽織った。一応持ってきて正解だったな。
ふと思った。たき火の方に振り返ったら、もう紗奈子は消えているのではないかと。
しばらく湖の上の暗闇を見つめてからゆっくり振り返ると、紗奈子は相変わらず椅子の上に座っていた。 なんだかうれしそうに首を伸ばすように近づいてくる明かりを見ている。
空気の読めないやつだ。そろそろ消えてくれないと困るんだが。てか、他の人には見えるのだろうか。岸本あかりは私にしか見えないらしかったが。
その時、慣れしたしんだ振動が腹部から伝わってきた。バイブレーションだ。ぎょっとして上着のポケットを探る。
そこにはあれほど探した私のスマートフォンが当然のように収まっていた。
一瞬の混乱の後、事態を悟る。
今朝、まだ寒かった早朝、美音と電話をしていた私はこの上着を着ていた。
そして電話を切り、調べ物を終えた私は当然のように上着のポケットにこのスマホを入れ、その後、気温が高くなったからそのまま脱いだ。そして、夜は冷えるかもしれないとスマホを入れたままのその上着を適当に丸めてザックの底に押し込んだのだ。いざ、スマホを忘れたかもしれないと思い込んで探した時は、いつもしまう場所と違うから発見も出来ず、完全に家に忘れたものと勘違いして・・・・・・
今に至るのだ。
探し物とは、案外近くにあるものだ。
苦笑しながらスマホを取り出す。着信は美音からだった。あと少しで合流できるというのに、林を歩きながら掛けてきたらしい。まめなやつだ。順調に近づいてくる二つの光を見ながら画面をスワイプして通話に出る。
「ナツさん! 何度電話したと思ってるんですか!」
耳を当てた瞬間、美音の怒り声が飛び出した。
「ごめんごめん・・・・・・」
ちょっと説明が難しいかなと思ったが、言葉にすると実にシンプルだった。
「スマホなくしてて、今見つけた」
「めちゃくちゃ心配したんですよ!」
「ごめんて」
美音が怒ったり、不機嫌になるのを見たことがなかったので、ああ、この子、こんな風に怒るんだ・・・・・・ と少し新鮮だった。
「仕事終わって、すぐメッセージ送ったのに、全然既読にならないし! 電話も全く出てくれないし!」
すごい剣幕だなと苦笑しながら、近づいてくる二人を見る。先頭の陰が比較的大柄なので、あれが管理人だろう。後ろからついてくる人影が美音か。
しかし、こんな勢いで話しているのに、全然二人の方からは声が聞こえない。結構近くまで近づいてきているので、そろそろあっちからもこの怒り声が生で漏れてきていいはずだが。
「仕方ないから、とりあえずキャンプ場に行ったら、ナツさんまだ来てないし!」
「・・・・・・は?」
管理人に事情を聞いていないのか?
「いや、とっくにいるよ。設営もして、美音が来るのを・・・・・・」
「はい?」
電話の向こうの美音がいぶかしげな声を出す。
「私が6時頃にキャンプ場に着いた時、受付で確認したら、まだナツさんは来てないって言われましたよ。そもそも人数変更の連絡もされてないって。ナツさん、やってくれるって言いましたよね!」
6時? 反射的に腕時計を見る。午後9時。3時間前じゃないか。そんな前からこのキャンプ場にいたのか。
「私、ご飯も食べずに、ずっとロッジで待ってるんですけど!」
ずっとロッジにいたのか? なぜ管理人は教えてくれなかったんだ。
「管理人の白鳥って人が私のこと言ってなかった?」
「だから、管理人さんは誰も来てないとしか・・・・・・」
というか、今、その管理人に私の所に案内してもらっているじゃないか。もう数十秒でサイトに着きそうだ。
「いま、一緒に歩いてるでしょ。メガネの男の人だよ」
「へ?」
電話の向こうで、美音が気の抜けた声を出す。
「だから、私、今ロッジにいるんですって。」
じゃあ、今、サイトに入ってきた二人は誰だ。
混乱する私は、次の美音の一言で戦慄した。
「そもそもこのキャンプ場、女性スタッフしかいませんよ」
突っ立って固まった私と、にこにこしながら座っている紗奈子の前に、二人の人間が到着した。
一人は管理人白鳥だ。相変わらず人なつっこい笑顔を浮かべている。
そしてその後ろ、ジーンズにTシャツの、三十代後半、顔もどこにでもいるような顔つき。
石田だ。あの湖畔で会った男。
管理人はすっと紗奈子の方を数秒見つめた。そして、なぜか安心したように笑った。
「よかった。到着されてたんですね。受付に来られなかったから、まだ来られていないのかと心配していたんですよ」
管理人はすっと体をかがませ、紗奈子と目線の高さを合わせた。
「初めまして。管理人の白鳥です」
紗奈子はそれを受けて、うれしそうに頭を下げた。
「どうも白鳥さん。私、紗奈子です。ごめんなさい。遅くなって。道に迷ったあげく、スマホの充電も切れちゃってて・・・・・・」
「おや、すみません。あなたが紗奈子さんでしたか。ぼくはずっとお連れ様のことを紗奈子さんだと思っていました。道理でイメージが違うはずですね」
そう言って管理人白鳥は私に目配せをした。意味がわからない。
「あ、あの人はなっちゃんです」
「そうでしたか。すみません。なっちゃんさん。失礼しました」
石田はずっと黙っている。めんどうくさそうに白鳥のやりとりを見つめ、私のキャンプ道具や料理をさもくだらないといった感じで眺めていた。
スマホから、「ナツさん? どうしました? 今どこですか?」と美音のあせった声が聞こえる。私は反射的に通話を切ってスマホを握っている左手を後ろに隠した。
3人の異様な空気に背筋からつめたい汗が流れるのを感じた。
「さて、なっちゃんさん。お邪魔ではあるとは思ったのですが、お時間になったのでお迎えに上がりました」
お時間?
その瞬間、今日の管理人との会話が頭を駆け巡る。
『お時間まで自由に楽しんでください。』
『ありがとうございます。十時でしたっけ?』
『いえ、九時ですよ。お時間になりましたら、お声がけしますね』
『では、お時間までどうぞゆっくりお過ごしください』
私は、てっきりチェックアウトが明朝9時なのかと思っていた。だが、管理人の言っていたのは朝のことではない。そして、どうやらチェックアウトのことでもない。
「最後の時間は、ゆっくり過ごせましたか?」
白鳥がとびきりの笑顔で近づいてくる。手を差し伸べるように私に向けながら。
後ずさりしようとした足が、湖に落ちそうになる。だめだ。さがれない。
「よかったね。なっちゃん」
白鳥の横で、紗奈子も満面の笑みを浮かべていた。
「やっと死ねるんだよ」
私は恐怖のあまり、叫び声を上げながら白鳥の顔面に向かって拳を突き出した。倒さなければならない。全く状況が理解できなかったが、本能でそれだけはわかった。同時に、その勢いのまま、回し蹴りの体勢に入る。下から蹴り上げれば、白鳥の急所に直撃させられる。この距離なら外さない。
しかし、白鳥は格闘技の有段者であった。
私の突きをいとも簡単に片手ではじき、続いて繰り出した股間をめがけた蹴りも片足を上げる事でレジストした。
私は白鳥に背中を向けて体勢を崩す。
無理だ。勝てない。
いっそこのまま湖に飛び込んで、泳いで逃げようと覚悟を決める一瞬前に、蛇のようなものが背後から私の首に巻き付いた。それが白鳥の屈強な二の腕であるということに気がついた時には、私の頭部への酸素の循環が止められていた。一瞬で意識が遠のいていく。
私はとっさに左手のスマホを遠くに投げる。ガコンとかすかにスマホが転がる音がした。ボートの上だろうか。
次の瞬間、私の意識は完全に喪失した。




