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キャンプをしたいだけなのに【2巻発売中】  作者: 夏人
第7章 人は誰にもなり得ない
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【第7章】 廃村キャンプ編 12 疑問


 12 体温


 玄関先にしゃがみ込んでいた私は、自分の両手が小刻みに震えている事に気がついて我に返った。

短時間でのあまりの体調の変化に恐れおののく。だが、考えれば当然のことだった。気候は良いといえ、十二月上旬。川の水に浸かって平気なはずが無い。

 アウトドア本で読んだことがある。濡れた衣服を着ていた場合、体温が奪われる速度は通常時の約二十五倍になると。

 それなのに私は全身ずぶ濡れ状態で屋外に座り込んでしまっている。

 私は何分呆けていた? 数分か? 数十分か?

 動かないと。

 川の水の生臭さを熱いシャワーで洗い流したいのは山々だが、屋敷に入れないのであれば仕方がない。せめて、キャンピングカーの中に入ろう。そして着替えよう。すぐに体温を回復させなければ。

 私は急いで立ち上がった。いや、立ち上がろうとして失敗した。

足に力が入らず、腰が上がりきる前に重力に引き戻されて地面に尻餅をつき、背中を玄関扉に打ち付けた。何が起こったのかわからずに困惑して足を見ると、膝が痙攣していることに気づき、ぞっとした。


 洒落にならない。このままでは低体温症で死んでしまう。

 だが、四肢に力が入らなかった。もたれさせた背中が玄関扉に接着されたようだった。

いつの間にかあれだけ燦々としていた陽が陰り始めていた。冬の風が山の木々を揺らす音が私を取り囲む。

 ただでさえ極限に冷えた背中に冷たいものが走る。

 え、もしかして私、このまま死ぬの?

 カチカチと小刻みな音が耳についた。程なくしてその乾いた音が自分の口の中から発せられていることに気がつく。歯の根が合っていないのだ。

 これは、まずい。

 自分の死が脳内に垣間見えた瞬間だった。ガチャリと金属音がしたかと思うと、背後の引き戸がすっと開いた。

 密着していた背もたれが突如消失し、ただでさえ身体の自由が利かない私は首の据わっていない赤ん坊のようにそのまま背後に倒れ込んだ。玄関土間に仰向けに転がった体勢で、呆然と上を見上げる。

 ぬっと老婆のしかめっ面が現れる。

「今度はなにをしとるんじゃ。ヒッピー娘」

 は? なんでばあさんが?

 玄関土間に転がったまま混乱して口をパクパクさせている私はそれこそ打ち上げられた川魚のようであっただろう。流石の老婆も反応に困ったのか、ぽりぽりと皺だらけの頬を掻いた。

「そんな恰好で外におったら死ぬぞ。なぜ中に入らん」

 私は必死に言葉を捻り出した。しかし、舌がかじかんで上手く動かない。

「か、カギ、失くしちゃって……」

 ようやく唇から漏れ出た言葉はそれだけだった。この揺れる程度にしか動かない唇だって見事に紫色になっているに違いないと、どこか他人事のように思った。

 老婆はじいっと私の顔をのぞき込んだかと思うと、次の瞬間、私の上着のフードをむんずと掴んだ。

「来い」

「へ?」

 ぐいっとフードが引っ張られる。

 手足をばたつかせながらも立ち上がれない私は、なすがままに老婆に引きずられた。土間と敷居の間の高い段差、所謂、上がり(がまち)を無理矢理に引き上げられた。年季が入った床板の上をズルズルと背中で移動する。

 なんて力だ。見た目からは想像し得ない筋力に驚愕する。私は大柄な方では無いが、女性の平均身長はある。そう簡単に引きずれるものでは無いはずだ。なんなんだこのばあさん。

 木製の床は張り替えられてはいないらしい。住人の歩みを支え続け、磨き上げられたのだろう。年月を感じさせる黒々とした光沢を放っていた。その滑らかな床の上を濡れそぼった私の身体が滑っていく。

 屋敷の奥まで私を引きずった老婆は、この日本家屋にはどうにも不自然な西洋風のドアを開け放った。ちょっとした小部屋を通り、その奥にあるこれまた不似合いな曇りガラスの押し戸を老婆は勢いよく押し開けた。床に這いつくばるようにして老婆の足の間から室内をのぞき込んだ私は急に出現した近代的な白一色の空間に面食らった。白い大きな円形の浴槽に、全身が映りそうなほどの姿見と銀色に輝くシャワーノズル。

バスルームだ。

「入れ」

 老婆は呆けている私をまた力尽くで引きずり、シャワーノズルの真下に放り出すように移動させると、小洒落たガラスのノブを捻った。冷水が私の頭に降りかかり、悲鳴を上げる。

「じきに熱くなる。我慢せえ」

 そう老婆が言放った直後だった。瞬く間に冷水が温水に変わった。私の半身が湯気に包まれる。

「ほお。湯が沸くのが早いな。良い給湯器を使っとるようじゃ」

 老婆が愉快そうに笑ったが、私は自然と漏れ出た安堵の溜め息をつく以外の事は出来なかった。凍死寸前まで冷え切った身体を打つ温水は一気に私の全身を脱力させ、浴室の大理石の床の上に崩れ落ちる。

 老婆はそんな私を鼻で笑うと、壁に設置されているタッチパネルを操作して、バスタブに湯を張り始めた。

「もともとは五右衛門風呂じゃった。薪で湯を沸かしての。風呂一つも一苦労じゃったんじゃが。今はボタン一つ。ハイテクじゃの」

 そう独りごちた老婆の顔を見上げる。機嫌よさげな声色ではあったが、タッチパネルを見つめる表情は硬かった。睨め付けていると言ってもよかった。

 老婆はすっとタッチパネルから目を離すと私を見下ろした。

「着替えは玄関にあったリュックの中か? 脱衣所に置いといてやる」

 ようやくコントロールが戻り始めた舌で「ありがとうございます」をなんとか声にする。蚊の鳴くような声量ではあったが。

 老婆は手で虫を払うような動作ともに背を向け、「ゆっくり入れ」とだけ残して浴室を出た。


 徐々に動き始めた両手で服を脱ぎ捨て、最低限身体を流すと、私は這うようにしてバスタブに移動した。半分転がり込む形で湯船に身を沈める。急激な温度変化に一瞬息が詰まり、数秒後、人生で一番長い息を吐いた。


 た、助かったあああ。


 私はバスタブの縁に後頭部をゴツンと乗せ、目を閉じた。全身の収縮した毛細血管に熱い血が循環していくのを感じ、再度うなり声を漏らす。

 死の淵まで冷え切った四肢が急速に体温を取り戻すのがわかる。

 すごいな風呂って。

 熱い湯に身を沈める。単純だがこれ以上の身体の暖め方は世界中探してもない気がする。私は普段面倒だからとシャワーで済ますことも多いのだが、ここにきて湯船のありがたみが文字通り身に染みた。命の湯である。これからはもっと入ろう。毎日入ろう。日に数度入ったっていい。今日から私はしずかちゃんだ。

 手で湯をすくい、顔にかけ、そのまま指で目もとを揉んだ。

 やれやれ。服が濡れただけでここまで急速に体温が持って行かれるとは。冬場もキャンプをする身として寒さ管理には人一倍敏感なつもりだったし、理屈としては勿論知っていたが、いざ自分がその身に置かれた際に実践できるかは全く別問題であるようだ。危うく「キャンプワイチューバーが凍死。冬の川で魚を捕ろうとした模様」とこの上なく間抜けなネットニュースを生み出すところだった。末代までの恥とはこのことであろう。最近キャンプ慣れしてきたせいか気が緩みがちである。今一度安全管理を徹底しよう。

 身体が体温を取り戻したのを感じたところで、私は湯気の中で目を開けた。

改めて見ると随分豪勢な造りの浴室だった。大理石の床。磨き上げられた銀のシャワーノズル。浴槽の側にもタッチパネルが設置されており、水流マッサージ機能までついていた。ジェットバスというやつか。試しに肩と腰のマッサージを稼働させてみる。バスタブの側面から気泡が勢いよく排出され、私の背を心地よく打った。

 浴室の片面はガラス張りになっており、景色を楽しめる仕様になっていた。私は背中にぶつかり弾ける気泡の感触を堪能しながらガラス越しに山肌を眺めた。

 この「1」の屋敷は麻心村の最奥、突き当たりに位置する。そしてこの先に集落や田畑は無いようで、行き止まりのごとく山肌で視界は埋め尽くされていた。屋敷のすぐ真後ろが山というわけでは無く、山の始まりの林まで数十メートルの距離がある。畑でもあるのかと首を伸ばすと石造りの水路が見え、一人納得した。キャンプ場を囲む水路の分水嶺がここなのだ。山から流れてきた水流がこの屋敷を避ける形で二つの水路に別れ、キャンプ場を囲う形で村の中を流れている。

 よく見ると水路の分かれ目は土がうずたかく盛られ、小山のようになっていた。その延長線上にこの屋敷は建っているのだ。道理でここまで来る道のりは登り坂が続いていたはずだ。川の流れを分ける堤防、分流堤にあたる場所なのだろう。

 私は泳いだばかりの水路の様子を思い出した。水路の壁は随分と高く感じた。数メートルはあっただろう。流されている視点から見ればそれはもう絶望的にそびえ立つ壁に見えた。あの壁を越える水量など想像がつかないが、先人も無用なものを作ったりはしないだろう。水害の脅威が確実にあり、その備えにはきっとこれだけの規模のものが必要だったのだ。

 水路は山の奥に続いており、山肌に生い茂る木で始まりは見えなかった。水路の水量を考えると、きっと巨大なため池でもあるのではないかと勝手に想像する。

それを裏付けるように車も通れそうな幅のある道が水路に沿うように伸びていた。山に入るための道なのだろう。分流堤の脇にこれまた車が一台ぎりぎり通れそうな幅の石橋がかかっており、村と山をつないでいる形だ。

 先ほど見た地図によると、水路に挟まれて中州状態になっているキャンプ場の出入り口は、キャンプ場入り口の橋だけ。今見ている石橋は、出入り口と言うより、山に行くためだけの橋なのだろう。

 湯船に浸りながらなんとなく山を眺める。完全に身体が温まり、半分のぼせてしまいそうになった時、今さらながらの一つの当然の疑問がふと頭をもたげてきた。

生命の危機に瀕していて、それどころではなかったのもあるが、老婆の所作があまりに自然で堂々としていたため、違和感を感じなかった。だが、おかしいではないか。

 私は川でこの屋敷の鍵を落とした。だからこそ玄関前に座り込む羽目になった。鍵が開けられないのだから当然だ。


 では、老婆はどうやってこの屋敷に入ったんだ。


 眺めていた木々の間に潜んでいた暗闇が、その領分を広げようとでもするように徐々に山肌を侵食していく。

 陽が傾こうとしていた。





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