【第6章】 花火キャンプ編 9
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午後八時
マンションの駐車場に降り立った春香は車のドアを閉めながら息を吐いた。
いやはや。疲れた。明日の有給取得のために、二日分の仕事を終わらせなければいけなかったので、今日一日は多忙を極めた。恵子さんが見かねて手伝ってくれなければもっと遅くなっていただろう。休みを取るために前日に二倍働く羽目になるのであれば本末転倒ではないだろうか。
カツカツとマンションの階段を上がる。どこからか香しい匂いが漂ってくる。炊き込みご飯だろうか。いいなあ。
自分の部屋の前につく。鍵でドアを開け、室内に入る。後ろ手でドアを閉めて施錠し、そして春香は言った。
「ただいま」
室内は電気が点いている。
そしてリビングのキッチンから、黒髪をポニーテールにしたエプロン姿の美女がひょっこりと顔を出した。
「お帰り! ごはんできてるよ」
「やったあ」
春香はよろよろとリビングに向かう。美女はさっと玄関口に来て、春香が脱ぎ散らかした靴を揃えた。そのまま春香に追いついて来て、春香の肩に掛かっていたバッグをすっと抜き取り、鞄かけに移した。
春香はドサリとリビングテーブルの椅子に座った。目の前には出来立ての夕食が並べられている。
疲れ果てて帰ってきたら手料理が用意されている。それがどれほど幸せなことか。日常幸せランキング(春香調べ)堂々の一位である。
今日のメニューはぶり大根とお味噌汁、ほうれん草のおひたしに、鶏胸肉が添えられたサラダ。
「今日は炊き込みご飯だよー」
「まじで。最高か」
美女は炊飯器からご飯をよそい、「ほい」と春香に手渡す。春香はその熱々のお茶碗を受け取ってつやつやの米粒に感嘆した。
日常幸せランキング第二位。帰りに美味しい匂いが漂ってきて、「え、これどの家から? いいなあ」と思ったら自分の家からでした。ひゃっほーい。
美女は自分の分をよそうと、麦茶も二人分注いでテーブルに置く。エプロンをとると春香の向かいに座った。
「それでは」
二人して手を合わせる。
「いただきます」
まずは味噌汁を一口。疲れた身体にほどよい塩味がたまらなかった。
「出汁を煮干しにしてみたの。どうかな」
「最高です」
次にぶり大根。大根はしみしみ。ぶりは身がホロホロである。口のなかで溶けていく。
そして炊き込みご飯。くどすぎず程よい味付けがぶり大根と相性抜群だ。春香はぶりと炊き込みご飯を同時に口に頬張った。鼻から息を吐いて。目をつぶった。
こたえられん。感無量である。
「ハルちゃん。お仕事お疲れ様」
春香は至福の一口をごくりと飲み込み、美女を見つめた。
「ナオちゃんも、いつもご飯ありがと」
清水奈緒は犬歯を覗かせてにっこり笑った。
今年、正確には去年の十二月、春香は指名手配犯、清水奈緒を自宅に連れ帰った。
奈緒は凍死寸前であり、数日の間、高熱を出した。凍傷を起している箇所はなかったので、病院に担ぎ込む必要は無かったのが幸いだった。
奈緒は熱にうなされながらも、事の顛末を春香に語ってくれた。
小学六年生の冬、奈緒の人生の唯一の光だった斉藤ナツと絶交せざるをえなくなったこと。
その後、狂った母親の元で地獄のような日々が彼女を待ち受けていたこと。
大人になってからも自暴自棄な生活をしていたこと。
ナツと再び友人になるために、人気キャンプYtuberのレイジに取り入ろうとし、本気で恋をしてしまったこと。
その恋が最悪の形で実らなかったこと。
そしてそのレイジの想い人が、奈緒の人生を狂わせた元凶である「メイちゃん」であることを知り、逆上のあまり殺してしまったこと。
そしてそのことを知ったナツと、殺し合いになったこと。
奈緒が淡々と語るその話の一つ一つに、春香の心は引き裂かれそうになった。
この子は、いつのタイミングからおかしくなってしまったのだろう。
十二歳の清水奈緒を思い出す。明るい少女が時折見せる、瞳の奥の奥に渦巻く深い闇。
もうあの段階から、彼女は不可逆的に壊れていたのかもしれない。
春香も幼少期に悲惨な過去を持つ。それは人生全てを壊してしまうような体験だったが、それはあくまでも記憶であり、「過去」だ。春香は美和子さんに引き取られ、少しずつ傷を癒やしてもらった。奈緒やナツや岸本あかりに出会い、その過去と向き合うことだってできた。
だが、奈緒にはずっと「現在」だったのだ。あの十二歳の少女だったときから、さらに十年近くの間、ずっと悲惨な「現在」の中を彼女は生きてきた。
今、この子を離してはいけない。そう思った。
清水奈緒が犯した殺人はどう聞いても許されるものではなかった。レイジにはなんの罪もなかったと奈緒自身が言った。どう考えても自分の逆恨みだと。自分は裁かれなければならないと。彼女自身がそう言ったし、春香も全くの同意見だった。
だが、今はダメだ。
それは児童相談所職員としての判断なのか、美和子さんが助けてきた人々をたくさん見てきた経験則なのか、それとも、自身の体験に基づくものなのかはわからないが、直感的に春香は思ったのだ。
今、この子の側を離れたら、この子は死んでしまう。
奈緒を警察署に出頭させるのは簡単だろう。きっと奈緒も抵抗するまい。
だが、きっと奈緒は裁判を待つことなく死を選ぶ。拘置所の中で死んでしまう。たとえ自殺防止の仕組みがいくつあろうが、本気で死を選ぶ人間を止める事など出来ない。彼女はやろうと思えばズボン一枚で自らの首を絞めるだろう。それをやり遂げてしまうだろう。
だから、今はダメなのだ。今、彼女は本当の意味で自分の罪と向き合える精神状態にない。それが児童相談所職員としての、清水奈緒の友人としての、壮絶な過去を生き抜いた立花春香としての判断だった。
せめて彼女が自らの人生に冷静に向き合うことができるその時まで、側にいよう。春香はそう心に決めた。
十二歳の自分にはそれが出来なかった。半狂乱の母親とともに去って行く奈緒の泣きそうな顔を黙って見送ることしか出来なかった。
でも、今なら。今の自分なら、彼女の側にいることが出来る。
犯人蔵匿罪。発覚すれば三年以下の懲役または三十万円以下の罰金。少なくとも今の職は失うことになるだろう。
だが、そんなことは春香には問題では無かった。奈緒とナツがいなければ、春香は確実に生きていない。あの夏休みのキャンプを生き残れなかったという意味ではない。たとえあの事件がなくとも、自分はいずれ生きる意味を見いだすことが出来ずに緩やかに死を迎えていただろう。
だから、春香は人生をかけて奈緒を守ろうと思った。
きっと誰にも理解してもらえないだろうけど。
それが正しいことかはわからないけれど。きっと間違っているのだろうけれど。
それだけの恩があると言い切れるから。
そしてなにより、私は彼女の友達なのだから。
とまあ、自分の人生をなげうつ、一世一代の覚悟で殺人犯を匿い始めた春香であったが、事態は予想外の展開を見せた。
てっきりすぐに奈緒と一緒に悲壮な逃亡生活に身をやつすと思っていた春香だったが、奈緒の居候は全く誰にもバレる兆しがなかった。そう。奈緒はかくれんぼガチ勢だったのだ。奈緒が本気で隠れようと思えば、春香ですらたとえ自室の中でも探し出すのは困難である。一度など、前触れなく突然に美和子さんが訪問してきて一泊していった事があったが、奈緒は部屋を出ることもなく二日間もの間、隠れ抜いた。170センチを超える身体をどこに収納していたのか。もう才能というよりかは特殊能力に近い。
また、例の夏休みキャンプの一件は、元大臣が関わっていた闇の深い事件であったため、情報制限がかかっていたらしい。警察が奈緒と春香の関係を洗い出すことはなかったようだ。春香にはなんの調査の手も及ぶことがなかった。
そして、さらにである。体力的に全快し、精神的にもある程度落ちついた奈緒は、想像以上の家事スキルを遺憾なく発揮し始めたのだ。
今では春香が毎日仕事から帰ってくると、部屋は完璧に片付けられ、床も壁もピカピカ。健康に気を遣った温かいご馳走が用意されていて、布団も陽に干されて毎晩ふかふかである。
児童相談所の仕事は正直、肉体的にも精神的にも負担が大きい。業務内容を考えれば当然だ。春香は毎日、身も心もボロボロになりながら毎日をこなしていた。
それがどうだ。奈緒が我が家に来たとたん、みるみるうちに春香は心身ともに健康を取り戻していった。毎日の家事のストレスがなくなったせいで気持ちに余裕が出来たし、栄養バランスが整った健康的な生活のせいで明らかに体調がよくなった。夜はよく眠れるし、朝はすっきりと目が覚める。
紛れもない事実として、犯罪者をかくまう前よりも圧倒的に生活の質が上がっている。QOLが爆上がりである。なんと皮肉なことだ。
もし殺人鬼でなければ正式に嫁に来て欲しいと本気で思ってしまうほどである。
「今日はお仕事どうだった?」
奈緒が笑顔で聞いてくる。
「聞いてよ。大変だったのよ」
ご飯を頬張りながら春香がこぼす職場の愚痴を、奈緒はうんうんと頷いて興味深そうに聞いてくれる。決して下手なアドバイスや助言や正論をぶつけることなく、ただ共感してくれる。時には励ましてくれるし、慰めてもくれる。「がんばったね」と言ってくれる。メンタルケアまでしてくれるなんて。
奈緒の心の助けになるつもりで彼女を家に匿い始めたのに、これではどっちが面倒をみているのかわからない。
こんな時、ふと、思ってしまう。考えたところで何の意味も無いとはわかりながらも、どうしても想像してしまう。
奈緒の人生が、あと少しだけどこかで上手くいけば、あとわずかでも何かがましな方向に転んでいれば。
彼女は今頃、自分が愛する人と、愛すことが出来る誰かと、こんな風に幸せな家庭を築くことが出来たのだろうと。
それがどうしようもなく、悲しかった。




