【第4章】 星空キャンプ編 45
45
春香はすとんとその場に尻餅をついた。
すずはバタバタと抵抗しているが、それが何の意味も成してないことは春香の目からも明らかだった。
熊は鋭い爪ですずをひっかき、胴体に噛みつき、放り投げるように転がし、また上にのしかかる。
野生の恐ろしさをまざまざと見せつけられていた。
こんなの、人間が敵うはずがない。
逃げなきゃ。
すずが動かなくなったら、きっと、次は自分の番だ。
春香は震える足にむち打って、立ち上がった。
その時、熊の背後に、白い人影が見えた。
あの女だ。あの、幽霊の女。
女は泣いていた。
泣きながら、熊の背中をポカポカと殴っていた。
熊を引き離そうとしたり、すずとの間に入ろうとしたり。
だが、その手は熊をすり抜けてしまう。熊もすずを蹂躙する動きを一切止めようとしない。
それでも、女は泣き叫びながら、すずから熊を引き離そうとしていた。
その姿を見て、春香は悟った。
確証はなかった。でも、直感で、確信を持った。
そうか。この人、すずのママだったんだ。
なっちゃんが言っていたじゃないか。
『あいつらはどうせ何も出来ないわ。ただそこにいるだけ。なかには怖がらせようとしてくるやつもいるけど』
考えて見れば、始めに出会ったサービスエリアのトイレ。あからさまに春香を怖がらせようとしていた。カレー作りの時も森から語りかけてきたときもそうだ。「帰れ」「出て行け」「近づくな」なんてあからさまじゃないか。この人は春香をすずから引き離したかったんだ。
それが春香の身を案じてというだけだったのかはわからない。もしかしたら、すずに人殺しをさせたくなかったのかもしれない。
きっと、この人は死んでからもずっと、すずの側にいたのだろう。
ずっと、誰にも気づかれずに、娘を見守ってきたのだろう。
まるで、春香にとってのシズカのように。
でも、なっちゃんの言うとおり、この幽霊にはもうなにも出来ない。泣いても叫んでも、熊は止まらない。きっと、母の声は娘にも届いていない。
きっと、それが、死ぬということなんだろうと思う。
春香は立ち上がった。
ゆっくりとすずと熊と女に背を向ける。
体の節々が痛んだ。殴られた頭がズキズキと痛み、ふらついてしまう。
春香は足を引きずりながら、小道を引き返した。
すずの悲鳴は、いつの間にか途絶えていた。
すず、本名、玉城ベルは考えていた。
あまりの激痛に、もう痛みも麻痺していくなか、地面をいいように転がされながら、考えていた。
どこで間違ったんだろうと。
銃とUSBを田代から奪った段階で軽トラで遠くに逃げればよかったのではないか。そのまますぐさま海外に逃げれば助かったかも知れない。着の身着のままでも、元ホストファミリーの牧場はかくまってくれたかもしれない。
いや、この仕事を引き受けたこと自体がいけなかったのではないか。人生逆転を夢見て、田代の口車に乗せられて。もっと考えるべきだった。
なんなら、そもそも田代の下に付いたのが間違いだったのか。
わかってる。全部間違ってた。そんなことは自分でもわかってるんだ。
だから、今、こういう最後を迎えているんだ。
視線を自分の腹部に向ける。熊が囓り付いている。
田代から奪い取った防弾チョッキを着込んでおいた事で、内臓を食い破られる心配はないが、顔や首筋を狙った攻撃を下手に防ごうとしたために、両手はズタボロだ。もう動かせそうもない。
このまま熊は、そのうち無防備になった首や、防弾チョッキの隙間や、下半身を狙い始めるだろう。
とんだ最後だ。
また、負けた。
ベルはもう寝返りすら打てそうになかった。
すごいなあ。あの子は。
自分の死を悟ったベルは、なんの気負いもなく、そう思えた。
ただ、生きる。
それがどれだけ難しいか、ベルはよく知っていた。
多くの人間が漫然と日々をこなしている。ベルもそうだった。みんなそうだろう。
だが、あの少女は確固とした意志をもって今日から生きていくのだ。
すごいなあ。
まぶしいなあ。
うらやましいなあ。
ベルは母の死の時ですら、涙を流さなかった。
そんな瞳からポロリとひと滴、涙がこぼれ落ちた。口に伝い、しょっぱい味が口の中に広がる。
頑張って欲しい。
自分が殺そうとした相手に、ベルは思った。
自分より一回りも幼い少女に、我ながら身勝手だと思いながらも願いを込めた。
頑張って。
私はできなかったから。
環境のせいにして。
母のせいにして。
まわりのせいにして。
ちゃんと出来なかったから。
あなたは、ちゃんと生きて。
熊の大きな顔が、ベルの顔を見下ろした。生臭い息がベルの頬を撫でる。
首筋を噛むつもりだろう。
これでとうとう終わりだ。
最後に浮かんだのは、もう忘れかけていた母の顔だった。
ごめんね。私、ちゃんとできなかった。
ママ、ごめんなさい。
熊の顔が、ゆっくりと近づいてきた。
夜の森は、不気味なほどに、静かだった。
バーーーーン!
その、静寂を、耳をつんざく轟音が切り裂いた。
熊が弾かれたように後ろを見る。
思わず、ベルもその視線を追った。
立花春香が立っていた。
両手で握りしめた45口径の拳銃を空に向け、震えながらも立っている。銃口からは白く細い煙が出ていた。
なんで。
すずは愕然とした。
なんで逃げなかったんだ。生きるんじゃないのか。
春香は、「ふー」と息を吐きながら、ゆっくりとした動作で、熊に銃口を向けた。
そして深い悲しみをこめて、静かに言った。
「お願い。私に撃たせないで」




