もしかして、持っておいてほしい?
当然の話ではあるが、それがダンジョンであれ、遺跡であれ、探索が進むほどに奥地へと向かうことになる。そして、奥へと進むほどに1度帰還して再出発するときに往復する距離は長くなるものだ。
これは悪意のダンジョンで活動するショウゴとクィンシーにも当てはまった。2人は現在地下5層で活動しているのだが、ダンジョンに入ってから活動地域にたどり着くまで丸1日かかる。もちろん何とかできるものならしたいと2人も常々思っているが、できないからこそ黙々と歩いているのだ。
町から出発する都合で地下3層にある下へと降りる階段近辺で1泊した2人は、その後一気に地下5層まで降りる予定だった。しかし、とある理由で足を止める。
地下5層へ続く階段のある部屋に入った2人は階段の側で黒猫がちょこんと座っているのを見かけた。
先に気付いたショウゴが意外そうにつぶやく。
「あれ? 1度姿を見かけた階段では出てこないんじゃなかったのか?」
「オレに言われても知らん。案外、前にお前が言ってたように、また水晶をくれるために待ってたんじゃないか? 現にあの黒猫、何かくわえてるぞ」
黒猫の意外な行動に目を奪われていたショウゴはその口元へ目を向けた。クィンシーの言う通り、透明な玉らしき物をくわえている。
開け放った扉の内で立っていた2人は階段の側で座っている黒猫をじっと見つめた。しかし、動く気配がない。
初めて水晶をもらったときのことを思い返したショウゴは部屋の半ばまで進んだ。すると、今度は黒猫が近づいて来る。
「やっぱり。ある程度近づかないと寄ってこないんだ」
「警戒してるみたいだな。野生の猫なら当然だが」
「でも、野生の猫というより、上品な飼い猫っていう印象が強いんだよな」
「それは同感だ。そうなると、捨てられたのか、それとも買い主がまだいるのかが気になるが。ああ、やっぱりお前に渡そうとするのか」
ゆっくりと歩いてくる黒猫について2人は意見を交わした。悪意のダンジョンから生まれた魔物の可能性もあるが、一方で本物の猫である可能性もある。未だにその正体は不明なままだ。
自分自身へ向けられている興味を気にすることなく、黒猫は微妙な表情を浮かべるショウゴの前までやって来た。そして、その場で腰を下ろす。
その様子を見ていたショウゴは片膝を付いた。すると、じっと見つめていた黒猫が口にくわえていた物を床に置く。それから再び顔を上げた。
床に置かれた物をショウゴは右手で拾い上げる。
「前と同じ水晶か。古代文字で『ta』って書いてあるんだよな」
「にゃぁ」
可愛らしい鳴き声を上げると、その黒猫は背を向けて階段に向かって歩き始めた。そして、そのまま歩みを止めずに階段を降りていく。後には2人だけが室内に残された。
2人は階段に近づく。他と同じ石造りで寸分の狂いなく正確に積み上げられた階段の階下を覗いが、黒猫の姿は見えない。
「やっぱりいないな」
「そうだな。相変わらず不思議な猫だ」
階段の奥を見つめていた2人はショウゴの持つ水晶へと目を移した。前回のものと寸分と違わないように見える。一体どんな意味があるのか何もわからない。
しばらく眺めていたクィンシーが口を開く。
「前と同じようだな。オレがなくしたからもう1度渡しに来たのか。いや待て。どうしてオレが前の水晶をなくしたと知ってるんだ?」
「え? そういえば、クィンシーがあれをなくしたのに気付いたのは町の宿でだったか。それ以外で水晶をなくしたとは言っていないんだよな?」
「お前と話をしたとき以外に水晶の話はしていない。何か感知する方法でもあるのか?」
「さすがにそれはわからないな。そもそも魔法は専門外だし」
「あの黒猫に何らかの特殊な能力があるのか、それとも別の存在がいてそいつが黒猫を動かしているのか」
「これ以上は考えてもわかりそうにないと思うぞ」
「そうだな。ショウゴ、言いにくいんだが、その水晶をもう1度貸してくれないか? こんなことがあるとますます興味が湧いてきた」
「今度はなくすなよ」
「わかってる。お前の見てる前で貴重品を入れてる袋の中に入れてやるさ」
おどけて見せるクィンシーにそこまで言うのならとショウゴはうなずいた。持っていた水晶を雇い主に手渡そうとする。
「にゃぁ」
正にそのとき、可愛らしい鳴き声が階段の奥から聞こえてきた。手を止めた2人はそちらへと顔を向ける。しかし、何もいない。
沈黙と静寂が2人の周囲に満ちた。今の猫の声がどんな意味で発せられたのか正確なところはわからない。だが、前回と同じ行動を諫められたことだけはどちらもはっきりと理解した。
水晶を手渡そうとしていたショウゴはそれを取りやめる。
「どうもクィンシーには手渡してほしくないようだな。やっぱり1度なくしたからか?」
「ちっ、事実だから何も言い返せん。必要になったときに借りる。それまでは持っておけ」
「どっちが持ち主かわからない言い方だな」
小さく笑ったショウゴは水晶を懐にしまった。実際、調査はクィンシーにしてもらわないといけないので、詳しいことを知りたいのならばいつかは預ける必要がある。雇い主の言い方はともかく、その言い分には何もおかしいところはないのだ。
水晶の件の話が一応の決着を見せると、2人は階下へと降りた。
地下5層に降りたショウゴとクィンシーは早速探索を始めた。既に調査済みの地域は通り過ぎて未踏地域へと踏み込む。
すると、早速魔物が現われた豚鬼4匹だ。地下4層の同種よりも強化されているので同じ感覚で戦うと痛い目に遭う。
一団となってこちらへと駆けてくるその姿はなかなか恐ろしいが、まとめて攻撃できる魔法があるとそうでもない。クィンシーが呪文を唱える。
「我が下に集いし魔力よ、強き風となり、刃の嵐を巻き起こせ、嵐刃! なんだと?」
詠唱を終えたクィンシーが長杖を前に突き出した。いつもならばここで何かしらの魔法的な現象が発生するのだが、今回は何も起きない。当の本人は目を見開いて固まった。
最初は訝しんでいたショウゴだったが、まずい事態に陥ったことを悟る。魔法での攻撃に備えて雇い主と魔物の間から横に避難していたが急いで割って入った。そうして豚鬼と交戦する。先頭の2匹はショウゴに引きつけられた。しかし、残り2匹は更に奥へと進む。
「クィンシー!」
「くそ、魔法が使えん! 発動できない? 無魔法空間か!」
今の自分の状態からクィンシーが原因を推測した。無魔法空間とは一定の範囲内の部屋や通路内で魔法が使えなくなる空間のことだ。魔法が一切使えなくなるため、魔法を扱う者からはことさら嫌われている。この空間が厄介なのは見た目が通常の空間と一切変わらない点で、実際に魔法を使うまで気付けずにいることがほとんどだ。このため、魔法に頼った戦い方をしているパーティは総崩れを起こして全滅することもある。
そんな厄介な空間に入ったショウゴとクィンシーはそれぞれ1人2匹の豚鬼と対峙することになった。ショウゴの方はいつものことなので問題ないが、魔法が使えないクィンシーは普段と勝手がまったく違う。ひたすら逃げに徹していた。
すぐに1匹を片付けたショウゴに対してクィンシーが叫ぶ。
「早くこっちに来てくれ!」
「わかってる! ちょっと待ってくれ!」
もう1匹の豚鬼を倒すべくショウゴが奮闘した。その間、近くでクィンシーが逃げ回っている。
どうせ逃げるなら無魔法空間の範囲外へ逃げるというのが基本的な対策なのだが、ここで厄介なのが罠の存在である。通路や部屋に仕掛けられた罠は普段なら慎重に探して回避あるいは解除できるが、急いでいるときにそんな余裕はない。未踏地ならば罠が発動しないことを祈りながら逃げることになり、調査済みの場所でも急いでいるときに罠が設置された場所を正確に避けることは難しいのだ。
罠が本当に牙を剥くのは実はこういうときである。逃げるときに意識して足が鈍り、それを振り切って逃げると本当に襲いかかってくるのだ。
目の前の豚鬼を倒したショウゴは急いでクィンシーの元へと駆けた。そこでは雇い主が必死になって2匹から逃げ回っている。それを1匹ずつ斬り殺していった。その作業自体はいつものことなので短時間で終わる。
すべてが終わったとき、クィンシーは疲れ果てていた。そんな雇い主にショウゴが声をかける。
「大丈夫か?」
「怪我はない。ただ、魔法が使えなくて焦っただけだ」
「厄介なもんだな」
「まったくだ。オレたち魔術使いにとってはろくでもない場所だ」
荒い息を整えつつもクィンシーが返答した。いつもは簡単に蹴散らしている相手に追いかけ回されただけにその表情は忌々しげだ。
同情したショウゴは黙ってうなずいた。




