九 そして別離の時
「新しい世界との繋がりを持とうと英雄を目指すのは構いません。しかし、安易に前世の記憶や目覚めた異能に手を出してしまうと、世界が違うことを嫌でも感じてしまうのです。新しい世界にいながら旧い世界に思いを馳せるようになってしまう」
矛盾を抱え、旧い世界を忘れられない場合は自ら命を絶ったり、異世界への門を開こうと怪しげな術に没頭したりしてしまうことが多い。
新しい世界に軸足を移したつもりでも順風満帆とはいかない。なぜなら英雄であることでしか世界との繋がる方法を知らないからだ。より強い力を求めて求道者になるならまだ良い方で、権力を得て侵略行為に邁進するようなケースも少なくないのであった。
「これが今の彼が抱えている毒です」
「……まるで性質の悪い罠のよう」
リンの例えは言い得て妙だ。過去の知識や経験を利用しようとするのは生き物にとって当たり前の事なのだから。それをすることで世界から孤立していくなどとはなかなか予測できるものではないだろう。
しかし、キーシアスは節子の無謀ともとれる行動の結果、それに気付くことができる機会を得ることになった。
「願わくば節子さんのためにも気付いて頂きたいものですが……」
「あの調子では難しいのではないかしら……」
はあ、と揃って大きなため息を吐く二人の視線の先では、キーシアスが節子をなじり続けていたのだった。
「そろそろ本当に時間切れになる頃合いではなくて?」
「ええ。……ですがこのままでは節子さんに未練が残ったままになってしまいそうです。……あまりやりたくはないのですが、一芝居打つので手伝ってもらえますか?」
「ここまで手間を掛けさせられたのに、不幸な結末になるなんて業腹ものだわ。いいから何でも言いなさい」
力強い賛同の言葉も頂けたことで、さっそくイヅミは何やら画策し始めた。
それにしてもゴーストを延々となじる男性の側で、しゃがみ込んでぶつぶつと誰かに話しかけている黒づくめの男と、怪しいことこの上ない状態である。町から離れていたことで、他人の目がないのは幸いだったと言えよう。
「――もう俺にはあんたは必要ないんだよ!」
「はい、そのくらいにしてください」
キーシアスの怒声が途切れるタイミングを見計らい、イヅミは体ごと二人の間に割って入った。
「節子さん、時間切れです」
「ま、待って!まだ――」
そしてそれだけを告げると、彼女が何か言うのを遮っていずこかの言葉でこの世界をも形作っている断りに働きかける。すると、節子の姿はかき消すように消えてしまったのだった。
「再び廻るその時まで、安らかなる休息を……」
祈りの文句を捧げてからキーシアスへと向き直る。
「お、お前……、な、なにをした……?」
「何って『魂の休息所』、いわゆるあの世へと彼女を送っただけですが」
事態の変化に付いて行けずに混乱したように尋ねてきたキーシアスに、さも当然のことのように答えるイヅミ。
「なんだと!?」
「ああ、ご心配なく。ゴーストはあなたが倒したということにしておきますので」
「そんなことはどうでもいい!俺が聞きたいのはどうして勝手にそんなことをしたのかということだ!俺にはまだ言いたいことが山のようにあったんだぞ!」
「それは申し訳ないことをしました。しかしもう彼女の魂が保たなくなっていたのです」
これは本当のことだ。度重なる無茶のせいで節子の魂は擦り切れて消滅し始めていた。
「だが……、だが、そんな……」
「あのですね、時間がないことは最初から何度もお伝えしていました。それを無視してどうでもいいことを言い募っていたのはあなたではありませんか」
「それは……、しかし……」
その点については自覚があったので、キーシアスは言葉に詰まってしまった。しかし内心では、会えるはずがないと思っていた相手なのだからそうなっても仕方がないではないか、と不満に感じていた。
「まあ、節子さんの方も言い返そうともせずに受け入れていた訳ですし、これで心残りも消えた事でしょう」
「ふざけるな!母さんは「待って」と言っていた!それなのに終わりにされて満足なんてできているはずがない!」
激昂して掴みかかってきたキーシアスの反応を見て、イヅミはニヤリと笑った。
「やっと彼女が母親だと認めましたね」
「……なんだと?」
ふと視線を感じて顔を上げると、イヅミの肩越しに消えたはずの節子が立っているのが見えた。実はリンの協力によって、節子を彼女の指輪の中へと引き込んでいたのである。
世界を渡るための話し合いが思わぬところで役に立ったのだった。
「嵌めやがったな……!」
「どう思おうがあなたの自由ですが、こうしていられる時間がないのは紛れもない事実です。先ほどのようなことを繰り返すのか、それとも長年秘めていた胸の内を伝えるのか、きちんと考えた上で行動してください」
そう言うと、イヅミは自分の出番は終わったとばかりに数歩後ろに下がる。そのあまりにも鮮やかな身の引き方から、キーシアスは彼の胸ぐらを掴んでいたはずの手が外されていることにしばらくの間、気が付くことができないでいたのだった。
「季士――」
「待ってくれ。あんたの言いたいことは分かっている。俺のことが心配だっていうんだろう」
沈黙に耐えかねたように口を開いた節子を押し留めてキーシアスが言葉を発していく。
「仲間の親父さんやお袋さんも皆、言っていたよ。いくつになっても子どもは子どもなんだって。ついつい心配してしまうものなんだって」
だがそれは先ほどまでの感情に任せたものではなく、丁寧に自分の想いを語っていくようだった。
「だけどさ、見てくれよ。俺はもうこんなにも大きくなったんだ」
果たして彼女の目に移っていたのはいつの頃の姿だったのか。両腕を広げて笑って見せると、節子は大粒の涙を浮かべたのだった。
「もう少しだけ俺のことを信頼してくれないか?もう少しだけ黙って見守っていてもらえないだろうか?」
「ごめんなさい。ごめんなさい……。私はあなたに苦労を掛けさせたくないと思って……」
「それもちゃんと分かっているつもりだ。でも、それだけじゃダメなんだよ」
人間には想像力というものがあり、それを駆使することで様々な事柄に対処することができる。しかし、完全に未知のことに対してはその想像力も無力となってしまう。例えば極論ではあるが、痛みを全く知らない人間に他人の痛みを推し量ることはできないのである。
「俺はもう、大丈夫だから」
万感を込めて伝えると、節子もようやく涙を止めたのだった。
「そうね。あなたはきっと大丈夫。一生懸命においきなさい」
まったくもってこれだから死者は油断ならない。そんなことを言われては自堕落に生きることもできない。
「ああ。頑張るから。さようなら……、お母さん」
キーシアスの言葉に一瞬目を見開いたものの、とびっきりの笑顔を残して節子は光の中へと消えていった。
「再び廻るその時まで、安らかなる休息を……」
後にはイヅミの祈りの文句だけが残されていた。
辺境の丘の上にあるヒルンの町といえば頑丈な防壁に守られた鉄壁の都市として有名である。
しかしそれ以上に有名なのが、その町を守る自警団の存在である。公明正大を身上とする彼らは時に騎士よりも騎士らしい、貴族よりも貴族らしいと称えられていた。
そんな自警団を作り上げた初代団長であるキーシアスについては、たった一人で魔物の大群を追い払っただとか、繁栄を聞きつけてやってきたどこかの国の軍隊を手玉に取っただとか、恐ろしいゴーストと魔法使いを倒したなどなど、英雄的な逸話がいくつも残されている。
ただし、それらは全て年若い頃の話だとされており、歴史学者たちや吟遊詩人たちの関心を引く一つの要素となっている。
また、たいへんな子煩悩、孫煩悩だったとも伝えられており、子どもたちや孫たちを甘やかしては、妻や娘から叱られるという姿が町ではよく目撃されていたそうである。




