第30話「嵐と太陽」
早坂君は眼鏡を私の顔からどけると、再び唇を重ねてきた。
最初は優しく触れ合う程度だったものが、だんだんと貪るような激しい口付けに変化していく。
「んゃあっ……早坂く……っ」
体重がかかってるわけじゃないのに、体を真上から押さえつけられているせいで身動きすら出来なかった。
それでも何とかして早坂君の胸を両手で押して逃れようと試みるが、そんな私の様子に全く構うことなく早坂君は唇を押しつけてくる。かちこちに固まっていたはずの体から徐々に力が抜けていき、抵抗していたはずの腕の力も弱々しいものになってしまう。
だ、だめっ……!
こんなの……っ!!
恥ずかしさのあまり本気で死にそうだった。体は異常なほど熱いのに、妙にこの事態を頭の片隅で客観的に捉えている自分がいて、こんな自分が〈キス〉というものをしているという事実に唖然とした。
わけの分からない感情に呑み込まれていく自分が怖くて、ぎゅっと目を瞑る。
「……目、開けろよ」
唇がやっと離れたと思った瞬間、上から低い声が降ってきた。
私はその言葉に抵抗するように小さく首を何度も振った。顔を両手で覆うようにして横にそむける。
こんな自分が嫌で恥ずかしくてたまらなかった。
早坂君はきっといつもの様に平然としているのだろう。顔色一つ変えず何事もなかったかのように。
なのに、それに比べて自分は今絶対にみっともない顔をしているのだ……
早坂君にそんな自分を見られたくなかった。自然と瞼の裏に涙が浮かんでくる。
「葵衣!」
苛立った声で名前を呼ばれ、仕方なく私は目を開けた。
もうやだぁ……
なんでこんな事に……
早坂君の顔が思った以上に近かったことに驚き、思わず体をビクリと震わせる。
う、うわあああ
ちっちち近いっ……!!
一気に顔が熱くなっていく。
冷静さを完全に失った私は、もちろんパニックに陥った。
とんでもない現実に瞼に溜まっていた涙が溢れてきそうになる。
「くそっ……」
早坂君の吐き捨てるような呟きに、反射的に早坂君の顔に視線を向ける。
し、しまったあ……!!
目を合わせないようにしていた努力も虚しく消え去り、早坂君と視線がばっちりと合ってしまった。一度目が合ってしまったら終わりだと経験から何度も学んできたはずなのに……
だがなぜか早坂君は視線を合わせたまま動きを止めている。
あ、あれ……?
早坂くん?
「どうし―――……んっ!」
言葉を最後まで言えずに、なぜかまた唇を塞がれる。
突然のことに体が再び固まった。
えええええっっ!!!!?
なっなんで!?
し、しかもさっきよりスゴい気が……
目を見開いたまま対処することができずにあたふたしていると、ふと異変を体に感じた。
え………?
疑問に思って自分の体に目を向けた瞬間、体内から血の気が一気に引いていく。
自分の胸に添えられているのは―――……早坂君の手?
……………。
「ぅぎゃ―――――っっ!!!」
思いっきり早坂君の体を押し退け、その反動で私はベッドの脇にへと転がり落ちる。
―――と同時に、
〈ドドドドド…ガタンッバタッ、ガコッ、ダダダダダダ……ドンッッ!!!!!〉
「健人ぉぉぉ――――!!!!!」
勢いよく部屋のドアが開かれ、誰かが部屋の中へドスドスと猛突進してきた。
そして早坂君の胸倉をつかむと、大声で怒鳴りつける。
「てめぇ――っ!!お前、なに他人様のお嬢さんを襲ってやがるっっ!!!ふざけんじゃねぇぞ!!!」
「っ!?なんでお袋がここにいんだよ!?」
「バーカ!んなの小百合に聞いたに決まってんだろーが!すべててめぇの思い通りに事が運ぶと思うなんて大間違いなんだからな!!」
ふんっと鼻を鳴らして、その人は勝ち誇ったように笑う。
私は転げ落ちた無様な姿のまま、目をしばたたかせた。驚きすぎてぽかんと口を開けたまま閉ざすことが出来ない。
おふくろ……?
い、今、お袋って言った……?
……ということは、この人はつまり早坂君のお母さんで……………って、ええ!?つまり、女のひとっ!?
―――かなり失礼な発言のようだが、実際、早坂君のお母さんはまるで男性のような容姿をしていたのだ。
黒いショートのストレートヘアで身長は早坂君よりちょっと低いぐらい。現代の日本男子の平均身長よりは明らかに上回っているように思える。
スラッと伸びた長くて細い手足にピンと張った背筋。そして顔はというと―――予想を超えた代物だったわけで。あまりの美しさに言葉を失ってしまった。
背も高いし髪も短いし言葉遣いも男性っぽかったから、まず初対面の人は男性だと信じて疑わないだろう。だが、よくよく見ると相当な美人であることが分かる。
ひゃあぁ〜〜!
さすが早坂君のお母さん……!!
早坂君にそっくり………
呆然として早坂君のお母さんに目が釘付けになっていると、ふと早坂君のお母さんと目があった。
私はハッと我に返って自分の惨状に気が付き、慌てて体勢を立て直した。
「アンタが葵衣か?」
「はっ…はい!」
そう言ってこくこくと頷いてみせる。
直視できないほど眩い姿に目がくらみそうだった。
「おい……なんで呼び捨てにしてんだよ」
不機嫌マックスの早坂君の声……
早坂君のお母さんは早坂君に目を向けて微笑む。
「あーあー。男の焼きもちほど見苦しいものはねーなぁ?しかも女に焼くなんて馬鹿じゃないのか?」
「……男みたいなもんだろ」
早坂君がぼそっと呟く。
「なんか言ったか?」
「言ってない」
うわわわ…………
な、なんか冷戦なみに激化しているよーな……
小百合さんとのやり取りに比べて、はるかに凄まじくピリピリとした雰囲気に息が詰まりそうだった。
「大体話によれば今日は勉強会なんだよな?なのに何で教科書もノートも開かれてないんだろうなぁ?いやぁ、実に不思議だなー」
早坂君のお母さんは腕を組んで首を傾げるようにしてみせた。
途端に早坂君を取り巻く空気が、恐ろしいほど怒りに満ちていく。
「しかも部屋から悲鳴は聞こえてくるは、部屋に入ればベッドが乱れているは……てめぇはこの純粋なお嬢さんに一体なんの勉強を教えようとしてたんだ?」
「お袋っ!」
早坂君が怒りを表情に露わにして怒鳴った。
見たことのない早坂君の姿に吃驚していると、早坂君のお母さんは早坂君を無視して私の方にに向き直った。そして苦笑しながら早坂君のお母さんは困ったように頭をポリポリとかいている。
「―――とまぁ、うちのバカ息子は…あっ、どっかのバカが変な嫉妬してるから葵衣ちゃんって呼ばせてもらうな?んで、とにかくこの通り葵衣ちゃんに本気みてぇだから、今日のことは大目にみてやってな?」
「…へ?」
「おいっ!!」
ほ、本気って……
一体何のこと…??
「だいじょーぶダイジョーブ!アタシがいる限り明日から手は出させないようにするから。どーせ明日もやんだろ?勉強会」
や、やるのか…?
訴えるように早坂君を見つめると、早坂君はそっぽを向いたまま不機嫌そうに頷く。
や、やるのか……
がっかりしたような嬉しいような変な気分になる。
って、あ、あれ…?
なんか早坂君の顔がちょっと赤くなってるような気が…ってそんなわけないか……あの早坂君だもん。きっと光の加減でそう見えちゃっただけだよね。
クスクスと忍び笑いが聞こえてくる。
「あーウケる!こりゃ噂通り鈍感!我が息子の恋路も前途多難だな、オイ。せいぜい頑張れよー健人!!まぁ精一杯邪魔してやるけど」
「……煩い」
早坂君がお母さんを鋭く睨みつけるが、早坂君のお母さんはそれに動じることもなく、なぜか笑い続けている。
やっぱりさすが早坂君のお母さん……!!あの睨みを笑い飛ばすなんて……
小百合さんも彰さんもだけど、早坂家は並みの心臓の持ち主じゃないことは確かなようだ。
「おっと……!すっかり忘れてたけどアタシの名前は羽織。一応こいつらの母親やってんだよなー。あっ、アタシのこと全然呼び捨てにしちゃって構わねーから!よろしくな、葵衣ちゃん!」
この人が早坂君のお母さん……
―――それはまるで太陽のように眩しすぎる笑顔で。
羽織さんはそう言ってニカっと嬉しそうに笑った。




