第89話 みなさん、たいへんなのだ その五
……これは、なんだろう。ちょっと息苦しい気がしてきたぞ。
というか、気がするどころじゃない。絶対に、これは息が苦しい。
うおー、なんとかしないと、このままじゃ窒息しちゃう。
雨の中、魔力で作った全身タイツ……、じゃなかったレインコートもどきを装備して、元気よく歩き始めて程なく。
謎の呼吸困難に襲われたわたしは、慌てて辺りを見回す。
この辺りまで来ると、周りは倉庫風のすとーんとした建物ばかりで、普通のお店や民家のように、軒が張り出している建物が見当たらない。
でも、どこか早く雨宿りするところを見つけて、雨避けシールドを解除しないと息が保たない。
顔の部分だけをピンポイントで、シールドを解除すればいいんだけれど、慌てているせいか、うまく魔力のコントロールができないよ。
いっそのこと、一気に全体オフにしてもいいんだけれど、今オフにしたら身体がびしょびしょになっちゃう。
せっかく、ここまで濡れずに来たのに、それはもったいない。
なんてケチなことを考えなければ良いものを、性格的にそれができないわたし。
だけど、背に腹は代えられない。
切り替えが早いのも、またわたしの良いところなのだ。
全身の雨避けシールドを一気に解除。
これは魔力の調節なんていらない。
オンか、オフか、それだけだから簡単。
——ふえー。
途端に雨が、しとしとと降り掛かる。
けれど、大きく一息ついたら呼吸は楽になった。
やっぱり、どこかで雨宿りをしなくちゃ。
ウル翁のお店までは、あと一息なんだけど。
もう雨に濡れるに任せて、落ち着いて周りを見回す。
おや? あそこはなんの建物だ? 雑居ビル?
この世界に雑居ビルなんてないけれど、平屋か、せいぜいが二階建てが多いこの地区には珍しい、三階建てと思わしき建物。
その建物の一階部分、通りに面したところに、他の倉庫風の建物と同じように大きな出入り口が設けてある。
ほかの建物と違うのは、その出入り口が開け放たれていること。
わたしは神の助けとばかりに、その建物に駆け込んだ。
「こんにちは。突然ごめんなさい。少し雨宿りさせてくださいな」
返事はない。誰もいないみたい。
出入り口付近は、辛うじて外からの光が入ってくるお陰で、ほんのりと明るい。
けれど奥の方は光が届かないせいか、ぼんやりと暗くて、どうなっているのか分からない。
こういう建物の場合、元の世界だったら出入り口付近に蛍光灯のスイッチがあると思うんだけど、ここにはそれらしきものは見当たらない。
雨の日の夕暮れ。少しずつ暗くなってゆく。
出入り口からの明かりも、少しずつ弱くなる。
——くしゅん。
少しばかり寂しい気分になっていたわたしは、小さなくしゃみと一緒に、自分がすっかり雨に濡れていたことを思い出す。
早いとこ着替えないと、風邪ひいちゃう。
現代っぽい医療があるのかないのか、良く分からないこの世界で風邪をひくのは不安だ。
幸い、いつも持ち歩いているなんでもバッグの中には、お部屋着のジャージも入っている。
ここの持ち主には悪いけれど、ちょいと失礼して着替えさせてもらおう。
とはいえ、こんな出入り口の真ん前じゃ着替えるのは恥ずかしい。
唯一の明るいところなんだけど、外から丸見えじゃないか。
わたしだって乙女の端くれ。着替えを見られるのは恥ずかしいのだ。
それが、たとえ人通りの全くなさそうな雨の日の通りの前であっても。
どのくらいの広さのあるフロアかなんて分からないけど、頑張って奥の方へ目を凝らせば、何が入っているのか大きめな木箱らしきものが幾つか積んであるのが伺えた。
——良し、あの箱の影を、お着替え処とする。
念のため、きょろきょろと辺りを見回して、誰もいないのを確認すると、わたしはそそくさと箱の影へと移動する。
しっとりと濡れてしまったメイド服を脱ぎ捨て、ジャージに着替える。下着までは濡れてなかったのは幸い。
何枚か持っているタオルを取り出して、顔やら髪やらをごしごしと拭く。
脱いだメイド服を、ぶんぶんと振り回して、水気を切って丁寧に畳めんでバッグにしまえば、ようやく一心地。
さて、とそろそろお暇するとしようかな。
どこの誰かは存じ上げませんが、どうもありがとうございました。
すっかりお世話になりました。おかげ様で、とっても助かりました。
奥の方へ頭を下げて、出入り口に向かうと、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
とっさに回れ右して、もといた箱の影へ隠れてしまったわたし。
しまった。わたしのバカ。
これじゃあ、まるで忍び込んで見つかりそうになったんで、慌てて隠れたみたいじゃないか。
いえ半分くらいは、それで当たっていますけれど。
いや、当たってないよ。一応、声は掛けましたし。
果たして、その足音を響かせた主は、この建物に入ってきたのだ。
今からでも出ていって、正直に謝ろうかな。
だけど警察みたいなとこに、突き出されたらどうしよう。
事情を話して、謝ればなんとかなるだろうか。
身分を証明しろと言われたら、おっちゃんは身元引き受け人になってくれるかな。
おそるおそる、顔を半分だけ覗かせて、入ってきた人物を観察する。
こちらからだと逆光になるので、顔は良く見えはしないけれど、その雰囲気はどうやら女性の方らしい。
シンプルだけど、お高そうな装い。背筋がピッと伸びていて、その立ち振る舞いは気品に溢れていた。
商家のおかみさんには見えないから、事業に出資している貴族の方だろうか。
実は、この建物のオーナーだってことも有り得る。とにかく、この辺り下町の住人とは思えない。
こんな暗がりの中、遠目から見ていても、そのただ者じゃない美人オーラは少しも損なわれることはなかったのだ。
正直に今出てゆくか、やり過ごしちゃって、こっそりとあとで出てゆくか。
自分と同じような背格好ながら、まったく別の種族のような女性の姿を物陰から眺めながら、揺れるわたしの心。
あー、わたしって小心者だ。
いや、負けない。負けないよ。
しばし考えて、やっぱり名乗りを上げようと一歩踏み出したところで、かの女性のようすがおかしいことに気付く。
入り口付近から、それ以上は奥へとは進まずに、誰かの名前を呼びながら、そわそわと辺りを伺っているのだ。
「——様、いらっしゃいますか。マチルダが参りました」
わたしは出てゆきかけた足を止め、もう一度、箱の影へと身を潜めるのでした。




