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第84話 カフェ『炎の剣亭』、ただ今絶賛営業中? なのか その六

 お湯を沸かしていたケトルが、シューシューと言い始めた。元いた世界で使っていた、ピーッとなるタイプじゃなくて、もっけの幸い。このシリアスな雰囲気を壊さなくて良かったよ。

 コーヒーに注ぐための細口になった専用ポットに、お湯を移し替えながら、わたしは再びおっちゃんの話に、そっと耳を傾けるのでした。


 ……だから、盗み聞きじゃないってば。聞こえちゃっただけなんだから。


 護身術の腕を上げた姫は、自信をつけたのか、王都の中だけでは飽き足らず近隣の町へとお忍びで出掛け始めたんだ。

 通常であれば、お忍びというのは名目上のもので、侍従から護衛騎士までぞろぞろとついていくものだが、姫の場合は本当に周囲の者を撒いて城から抜け出すんだよ。

 当たり前だが、オレたち護衛騎士は出し抜かれたことなど一度たりともないぞ。私服着用の上、簡素な武装をして、姫に気付かれぬよう密かに護衛の任務をしたものさ。


 ある時などは、隣国との交渉事で国交に緊張が溢れている状況にも関わらず、どこ吹く風で国境の町へと出掛けたがってな。

 なんでも隣の国で流行り始めた、ナントカってやつが食えるのが、この国の中じゃ、その町だけだとかで、どうしても行きたかったらしい。

 その時は、まるまる町中の住人を騎士団関係の者と入れ替えて対応することで事なきを得たんだが、あれには参ったぜ。


 ふと見ると、ルドルフさんもマティアスくんも、顔を見合わせて苦笑いを浮かべている。

 きっとお二人も、その時に駆り出されたメンバーなのでしょう。お疲れ様でした。


「しかし、それも今となってみれば良い思い出だ。本当に大変だったのは、そのあとさ」


 隣国との関係が良好になった頃、前々からその文化に興味があったらしい姫は、月が変わるごとに出掛けたがるんだ。

 国の中ならともかく、隣国へとなると話はそう簡単なものじゃない。あちらさんにも、しっかり話を通さないといけないしな。


 面倒だと言い張る姫を、オレはなんとか説得したんだ。それもまた、オレの役目の一つだったんだが。

 姫は、ある一つの条件と引き換えに、厄介な手続きを踏んで上での隣国へのお忍びを承諾してくれたよ。


 ほほう。マチルダ姫ときたら、このおっちゃんを振り回すなんてやるな。

 いったい、どんな条件を出したのかな。続きがあるなら、早く早く。


「姫の出した条件っていうのは、隣の国に入ってから出るまでの間、オレに婚約者の振りをしろ、ということだったんだ」


 なんと、マチルダ姫様は、そんな大胆な提案を?!

 で、どうなったんだ、おっちゃん?

 あ、受けたって、さっき言ってたね。


「振りだけとは言え、婚約者だからな。隣国にいる間、オレは姫の傍らにずっといたさ。姫は姫で、オレにべったり引っ付いてきたしな」


 これもまた姫の要望で、従者は付けず傍目には二人きりな体で、隣国の都の中をあちこち巡った……、というか引っぱり回されたと言った方が良いか。

 もちろん、姫には気付かれないように周りは護衛の者だらけだったんだが、オレとしても間近にいた方が警護しやすいからな。むしろ、ありがたかったかもしれない。


 姫とは、いろいろなところを尋ねて、いろいろなものを食べたな。

 隣の国で流行っていた、ナントカっていう、要するに薄切りにしたパンの間に具材を挟んだやつとか、飲んだあと、口の中がじゃりじゃりするコーヒーとか。

 しかし、あれはあれで、隣国で採れた野菜や魚の薫製なんかが、ふんだんに挟んであって、正直美味かった。姫が夢中になるのも分かる気がしたよ。

 職務中なんで、隣国産のエールや果実酒を口にできなかったのは残念だったが、あの日々もまた、今となってみれば良い思い出さ。


 なんだか食べ物の話ばかりだね。

 もっと、こうロマンティックな話はないのかな。


 わたしは、コーヒーを淹れかけた手を止めて、おっちゃんを見た。

 おっちゃんの目は、まるで何かを追っているように、相変わらず宙を見上げている。


「その後だな、街道上にあの怪物が現れたのは。だが、その直前に思い出深いことがあったんだ」


 ある晩の隣国からの帰り道だ。

 月と星がきれいな夜だった。

 オレたちは馬車に揺られながら、その日見たものや、食べたものについて語り合っていた。


 その日に限って、ということでもないよ。

 姫は帰りの馬車の中では、いつもその日の感想を話して聞かせてくれるのさ。

 だから語り合うと言っても、オレは姫の言葉にただ頷くだけだったんだが。


 ただ、違っていたのは、最後に頷くだけでは済まない質問をされたからなんだ。


 ——また、連れていってくれる?


 その問いに、連れて行かれているのはオレの方なんだが……、と思いつつも答えたさ。


 ——もちろんです、マチルダ姫。あなたが望むなら、どこへでも。自分は姫様の騎士でもあり、師匠ですから。


 答えを聞いた姫は、しばらく黙ってオレの顔を見つめていたんだが、ふいににっこりと笑ったんだ。

 その時の笑顔といったら、ちょっと言葉にできないな。

 オレも、騎士という立場を忘れて、こう……。


 こう……、なんなんだ? はっきり言いたまえ。


 わたしは淹れ終えたコーヒーを、お三方の前へと恭しく運びながら、やはり心の中でツッコミを入れるのでした。

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