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最後の刻

「義母様! 無理はしないでください」


 アルルの嫁が慌てて家の中に入ってきました。機織り機の前に座るアルルは優しく微笑んでいます。アルルの隣には孫娘のノンナが立っていました。


「ノンナにね、機織りを教えてあげていたのよ。私の機織りや、刺繍や、裁縫の技を教えてあげたいの。この子が立派な花嫁衣装を作れるようにしてあげないとね」

「ノンナには私が教えますから。義母様は横になってください。昨日も熱を出したばかりでしょう。無理してはいけません」


 嫁は優しくアルルの肩を貸し、ベットへと運んで行きました。

 アルルはもう自力では歩く事もできません。耳も少し遠くなって、目もかすんできました。すぐに熱を出して倒れる事も多く、アルル自身も命が尽きるのはそう遠くないのだと自覚していました。


 アルルはその後、高熱にうなされて一週間も寝たきりになりました。やっと目が覚めたと思って目を開けたら真っ暗です。


「おばあちゃん!」


 可愛い孫娘の声は聞こえますが、顔を見る事が出来ません。


「ノンナ……どこにいるの?」


 アルルは目の前にいるノンナの顔を見る事が出来ませんでした。完全に視力を失っていたのです。アルルは悟りました。もう自分は死ぬのだと。最後くらい夫の思い出に浸りたい。そう願ったアルルはノンナに頼みました。

 カイにもらった指輪を左手につけ、カイにもらった香水を枕元に振りかけました。指輪のひんやりとした感触が、香水の甘い香りが、アルルに色んな事を思い出させてくれました。



 カイが旅立つ時に、何度引き止めたかったか。その言葉を飲み込んで笑う事がどれだけ辛かったか。きっと優しいカイなら、アルルが引き止めたら側にいてくれただろう。

 カイが側にいて、アルルが笑顔でいられる代わりに、世界のどこかで多くの人が泣く事になる。人を犠牲にして、幸せでいられる程、アルルは強くはありません。

 だからひたすら待つしかなかった。世界が平和になって、勇者が必要なくなって、ただの夫婦に戻って幸せな日々を過ごす時を。

 残念ながらほとんどそんな時間はなかったけれど、それでもつかの間の幸せな日々を思い出し、アルルは人生を終えようとしていた。


「勇者様! 寄り道をしている場合ではありません。今にも邪神の魔の手が世界中を襲っているのですよ。さあ、引き返しましょう」

「うるさい! うるさい!! 俺の女房が死ぬ間際に側にいられなくて、何が勇者だ!」


 夢ではないかとアルルは我が耳を疑いました。愛するカイの怒鳴る声が聞こえるのです。


「アルル!」


 大きな声でアルルの名を呼ぶ。温かく、傷だらけの大きな手がアルルの手を握る。すすり泣くような声が聞こえて、アルルの頬に雫が降り注いだ。


「カイ……泣いているの? どうしてここに……」

「天使様と約束したんだ。アルルの最後のひとときだけは、村に帰ってアルルの側にいさせて欲しいとね」


 アルルはカイの言葉を聞いて、嬉しくて涙があふれました。


「じゃあ……私が眠りにつくその時まで、私の手を握っていてね」

「もちろんだ。今の俺は勇者じゃない。アルルの夫だ。旅にでてる間も、ずっと心の中にアルルがいたんだよ。アルルが待っていてくれる。そう思ったら必死に頑張れた。絶対生きて帰るんだそう思えたんだよ。俺を支えてくれてありがとう」


 初めてカイを引きとめた。今は勇者でなく、ただの夫としてアルルの側にいてくれる。それだけでアルルは最高に幸せだったのです。

 それからしばらく他愛のない昔話をしました。一生の中で二人でいられた時間は少なかったけど、確かに幸せだった時の思い出話をしながら。

 こうして二人が幸せな一時を過ごしている間に、どれだけの人が死に、泣いている事だろう。それでもアルルは最後のわがままで、引き止めたかった。ほんのひととき……最後だからと。

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