「その他大勢」の一人で構いませんので
マグダレーナは今日も一人だった。
王侯貴族の集うきらびやかな夜会にて、いつものごとく壁を背に気配を消していた。
ひっそりとたたずむマグダレーナに気づくことなく、豪奢なドレスに身を包んだ令嬢たちが熱心にささやき合う。
「エリアス様がいらしたわ!」
「ねえ、誰から行く?」
「抜け駆けは禁止よ。行くのならみんな一緒によ!」
彼女たちは互いに牽制しながら、一目散に(けれども表面上はしとやかに)一人の青年のもとを目指していく。
ドレスのフリルが揺れ、宝石のアクセサリーがシャンデリアの光を弾いて美しく輝いた。マグダレーナは恍惚の表情でそれを見物する。
「ごきげんよう、エリアス様っ」
「今日も素敵ですのね」
「わたくしたちとお話なさいませんこと?」
エリアス、と呼ばれた青年が控えめな微笑を浮かべて振り返る。令嬢たちがきゃあっと華やいだ声を上げた。
色味の薄いやわらかそうな金髪に、エメラルドグリーンの透き通るように美しい瞳。
青年は一見すると儚げなのに、礼服の下の体は鍛え上げられていると有名だった。何せ武の一族であるダウエル伯爵家に、剣術の才を見出され養子に迎え入れられたほどの逸材なのだ。
「グッフフフフフ……」
マグダレーナの前を通過した給仕役の使用人が、ギクリと肩を跳ねさせた。マグダレーナを薄気味悪そうに眺め、逃げるように去っていった。
修行が足らない。この程度のことで動揺を見せるようでは、貴族の使用人に向いているとはとても言えないだろう。マグダレーナはしたり顔で頷いた。
「……ありがたいお誘いなれど、生憎わたしは無骨者ですので。これほどお美しいご令嬢方を前にして、気の利いた言葉ひとつ言えやしません」
遠慮がちに断るエリアスに、令嬢たちは俄然闘志をかき立てられたようだった。
完璧に整った容姿、武術の達人、そしてそれを鼻にかけない高潔な人柄。養子といえど家督を約束された伯爵家嫡男。
――間違いない。優良物件である。
「グッフフフフフ……」
壁に張りついたマグダレーナが、壁に張りついたまま横滑りに移動する。エリアスの姿を正面から眺められる、個人的最高の位置で徘徊を止めた。
「ねえエリアス様、そろそろ伯爵家にも馴染まれた頃合いでしょう?」
「そうですわよ。後継者としてのご準備も始めるべきではございませんこと?」
「そうそう、たとえば婚約者をお決めになられたりとか」
少々あからさまではあるものの、攻めの姿勢自体は素晴らしい。
マグダレーナはにんまりと笑みを浮かべた。さてさて、これではさすがの彼も逃げられまい。
逸る気持ちを抑えて見守っていたら、エリアスは困ったような笑みを浮かべた。
「婚約者、ですか……。実は養父と義母からも、意中の相手がいるのなら早めに申し込めとせっつかれておりまして……」
「んまぁあっ!」
まるで「意中の相手」が己のことであるかのように、令嬢たちは目を血走らせた。
互いを押しのけ合いながら、我先にとエリアスに群がっていく。
(おお。エリアス様に意中の相手だと……!?)
いるわけがない。
マグダレーナは即座に心の中できっぱりと否定した。
何せマグダレーナは筋金入りのエリアス観察者。
一見すると非の打ち所のない完璧な彼であるが、実は高くそびえ立つ壁で常に己を覆い隠している。人当たりの良い笑顔でごまかして、決して他人に本心を覗かせることはない。
本当は小うるさいご令嬢たちを追い払いたいくせに、伯爵家養子という立場が邪魔をして無下にもできない。夜会に出席するたび、エリアスは毎回多種多様なご令嬢たちから擦り寄られている。
ああもう、うんざりだ。最近の彼の笑顔からは、そんな感情がありありと透けて見える。
(あの爽やかな笑顔、そしてそれに反して全くもって笑っていない冷たい目。最高だ……!)
「グフッ、グッフフフフフ……!」
喜びを抑えきれず、マグダレーナがひときわ高い笑い声を上げたその瞬間。
エリアスが弾かれたようにマグダレーナを見つめる。
――バチッ
音がしそうなほどはっきりと二人の視線が絡み合った。
けれどマグダレーナは慌てず騒がず、ハンカチで顔を隠して再び壁を横滑りする。美しいエリアスの視界に入ることなど、マグダレーナは別に望んではいないのだ。
(壁のマンドラゴラは、壁のマンドラゴラらしく……だな)
『壁の花』ならぬ『壁のマンドラゴラ』。
それは社交界でのマグダレーナの通り名だった。
マグダレーナは由緒あるブラッドリー伯爵家の令嬢にして、唯一の趣味が人間観察という変人だった。
華奢な体に抜けるように白い肌、灰色にくすんだ地味な髪色。ドレスもまた容姿に合わせて淡い色のものを好んで身につける。
華やかさの欠片もなく目立たないのをいいことに、マグダレーナは夜会ではいつも壁の花に徹していた。
欲望に愛憎、嫉妬のうずまく社交界はマグダレーナにとっては最高の狩場。いつも壁を這うように移動しては、誰に気づかれることなく趣味に勤しんでいた。
……などと信じていたのは、当のマグダレーナばかりで。
誰もいないと思っていた背後の壁から、突然奇っ怪な笑い声が響いてくる恐怖。ぎょっとして振り返ればいつもそこには、にやにやと笑み崩れる気味の悪い令嬢の姿があった。
夜会の参加者たちは戦々恐々と噂した。あれは『壁の花』なんて上等なもんじゃない、『壁のマンドラゴラ』である、と。
初めにそう言い出したのは誰だったろう。
それはわからないが、二つ名は今ではもうすっかり社交界に定着してしまった。
しかしマグダレーナは気にしない。
壁のマンドラゴラ、なかなかどうして結構じゃないか。マグダレーナとマンドラゴラ、どちらもマから始まって語感が良い。
(さて、もう充分か)
壁伝いにかなり移動したはずだ。
マグダレーナは逃げるのを止め、広げたハンカチを顔からはずす。
「――こんばんは。ブラッドリー伯爵令嬢」
「ん゛ん゛ッ!?」
おっさんの咳払いみたいな声が出た。
周囲の令嬢たちが悲鳴を上げる。
壁のマンドラゴラだわ。なんでエリアス様ともあろうお方があんな子に。そんな悲痛な叫びがマグダレーナの耳に入ってくる。
が、エリアスは何も気づいていないように、にっこりとやわらかな笑みを浮かべた。
「不躾に申し訳ありません。ですがよろしければ、二人だけでお話いたしませんか?」
「んッ……いや、結構だ。お断りする」
マグダレーナはきっぱりと拒絶の言葉を口にする。
エリアスが意外そうに目をみはるが、マグダレーナは本気だった。マグダレーナはあくまで観察者であり、その目的はエリアスの美を愛でることにあり、別に彼個人と親しくなりたいわけではないのだ。
(さて、これで彼はどう出るか?)
なんて、考えるまでもなくわかりきっている。
いつも周囲の目を気にして『相応しく』振る舞おうとする彼ならば、あっさりと身を引くはず。
そう予想して余裕で構えるマグダレーナだったが、エリアスはなぜか一歩距離を詰めてきた。優雅にひざまずき、マグダレーナの華奢な手を握る。
「ん゛ぉわァッ!?」
「そのようにつれないことはおっしゃらず。バルコニーに出て、夜風に当たりませんか?」
濡れた美しい瞳で、熱くマグダレーナを見つめてきた。
マグダレーナは声もなく、うっとりしてその瞳を覗き込む。周囲の令嬢たちはもう失神寸前だ。
「いかがです?」
「……いく」
こっくりと頷けば、エリアスの顔がぱあっと輝いた。
気が変わる前にと思ったのだろう、マグダレーナの手を引いて早歩きにバルコニーへと出た。エリアスは片っ端から全ての窓を閉めると、窓に張りつく野次馬たちから隠れるように広間に背を向けた。
「美しい夜ですね」
「夜よりもあなたが美しく、そしてそれよりもあなたの内面に興味がある」
マグダレーナは早口に告げると、握ったままだったエリアスの手に目を落とした。
さすが武人だけあって無骨な手だ。剣ダコは硬く、指先はかさかさと荒れている。舐めるように見つめ、エリアスの手を無遠慮に撫でまわした。
完璧だったエリアスの笑みに、ビキッとヒビが入る。
「……内面に興味がある、とおっしゃるわりに、僕の手に少々構いすぎではありませんか?」
「顔ならば普段から充分に堪能させていただいている。が、手はさすがにこんな至近距離から眺めたことは無い。まして触れるなど初めてだ。実に興味深い」
しげしげと眺め、感嘆の息をついた。
完全に腰が引けているエリアスに、マグダレーナはぐいっと詰め寄る。
「実はだな、エリアス様。わたしはあなたの服の下の筋肉も愛でてみたいと常々考えていた。良い機会だ、よければ胸元を少しはだけてはいただけまいか?」
「いいわけねぇだろ! お前痴女かよ!?」
エリアスが勢いよくマグダレーナの手を振り払った。
うん、実に良い。マグダレーナがにやりと口の端を上げる。
「ようやく地を見せてくれたな。それが本当のあなたか? エリアス様」
しまった、と言いたげにエリアスが顔をしかめた。
汚いものを払うように己の手を拭き、先ほどまでとは打って変わった冷たい目をマグダレーナに向ける。
「……そう。これが本当の俺だよ」
ぶすりとして告げた。
「剣術だけしか取りえのない、単なる田舎貴族の三男坊だ。子宝に恵まれなかった親戚の伯爵家に望まれて、俺の意思とは無関係にトントン拍子に話が進んでしまった。そして今は、馬鹿みたいに着飾ってこんな場所に立っている」
マグダレーナはにやにやして話に耳を傾ける。
エリアスを観察し始めて半年あまり。
初めてエリアスが型に嵌まった行動をやめ、貴公子の仮面を脱ぎ捨てている。実に面白い。マグダレーナは笑み崩れた。
「そのきっかけを与えたのが、まさか『壁のマンドラゴラ』たるわたしとはな。理由を聞かせてもらっても構わないか?」
「理由だと? ハッ」
エリアスが失笑する。
憎々しげにマグダレーナを見つめ、肩をすくめた。
「こっちはなぁ、愛想笑いを貼りつけて、したくもない社交に必死なんだよ。それを何だ? お前は毎回毎回俺が移動するたびに後を付いてきて、グフグフグフグフ気持ち悪りぃ笑い声を漏らしやがって」
「ふむ」
「なんっで俺はこんなに苦労してるのに、気味悪がられて遠巻きにされてるお前の方が楽しそうなんだよ! 生き生きしてんだよ! でもな、覚えてろよ。これで今日からお前も当事者だからな!」
エリアスが胸を張って勝ち誇る。
マグダレーナはうっとりして彼を見上げた。顔が良い。声も良い。そして威勢も良い。
「ご令嬢たちの嫉妬はすさまじいと聞くからな。そんなふうに余裕ぶってられるのも今日で最後だぞ。明日からのお前はドレスにワインをかけられて、足を引っかけられて、パイを顔に投げつけられるんだ! どうだ、もう笑ってはいられないだろう!」
「ふむ。嫌がらせの手法が少々古典的過ぎやしないかね?」
「う、うるせぇっ! 学がなくて悪かったな!」
決してそういう意味で言ったのではないのだが。
地団駄を踏んで悔しがるエリアスを、マグダレーナは微笑ましい気持ちで眺めた。実に可愛らしい。
やがて充分に満ち足りると、「それでは失礼」とくるりと踵を返した。
エリアスがぎょっとして目を剥く。
「ちょっ……! まだ俺と話している最中だろう!?」
「残念だが、わたしはあなたと特別な関係になりたいわけでは無い」
きっぱりと告げ、マグダレーナはちらりとエリアスを振り返った。
「わたしはあくまでも『観察者』。あなたを一方的に愛でる有象無象、『その他大勢』の一人で構わないのだ」
エリアスが絶句して立ち尽くす。
呼び止めようとした手が宙に浮いていて、マグダレーナは名残惜しくその手を眺めた。
「今までの仮面を被ったあなたも楽しかったが、本当のあなたはそれ以上に興味深かった。あなたは嫌がるかもしれないが、わたしはとても愛らしくて素敵だと思う」
「……っ」
息を呑むエリアスに、マグダレーナはにっこりと笑いかける。
「率直に言うならば、すごく好きだ」
「……はッ、はあぁッ!?」
奇声を上げるエリアスにひらりと手を振って、マグダレーナは夜会の会場へと戻っていった。
令嬢たちの嫉妬の視線を跳ね返し、心落ち着く壁に背中を預けて『壁のマンドラゴラ』業を再開する。しかしどうにもいけない。心が沸き立ち、観察に集中できそうもない。
「……帰るか」
あっさりあきらめ、夜会の会場を後にした。
――数日後。
ブラッドリー伯爵家に激震が走った。
「マ、マママママグダレーナに婚姻の申し込みだとぉぉぉっ!?」
「嘘でしょう父上! 実の兄としてとても信じられませんっ」
「し、しかもお相手は今話題のエリアス様ですって……? じ、実の母としても、あり得ないとしか申し上げられませんわ!」
「ふむ。みな少々騒ぎすぎではないかね?」
マグダレーナは慌てず騒がず、紅茶のカップを傾ける。
目の前に座る兄の妻、つまりはマグダレーナの義姉が青ざめた顔で手を伸ばす。
「マ、マグダレーナさま……? およめに、およめにいってしまわれるのですか……?」
「ふふ。可愛い義姉上。心配せずとも大丈夫だとも」
まだ騒いでいる家族を置いて、マグダレーナはお腹の大きな義姉を部屋の外へとエスコートする。
「今はとにかく心穏やかに。健やかな子を産むことだけをお考えください」
「は、はい……でも」
涙ぐむ義姉を慰めて、彼女の部屋へと送っていった。
マグダレーナも自室に戻り、「ふぅむ」と声を漏らして考え込む。しかし真剣な表情は長続きせず、すぐにデレッと相好を崩した。
「さてさて。愛しいエリアス様は、一体何を企んでおいでなのかな……?」
その答えは案外早くわかった。
次に参加した夜会で、正装したエリアスが張り切ってマグダレーナを迎えに来たのだ。
「こんばんは、マグダレーナ嬢。今宵の夜会、よろしければ僕にエスコートさせていただけませんか?」
「ふふ、ごきげんようエリアス様。もちろんだとも、喜んで」
二人は手を取り合って馬車に乗り込んだ。マグダレーナの家族は失神寸前だった。
その夜の会で、マグダレーナとエリアスは全ての話題をかっさらった。
まさかあのエリアスの選んだ相手が、よりにもよって『壁のマンドラゴラ』だとは。しかもすでに求婚中で、色よい返事をもらえず焦らされているとは。
「ゆ、許せませんわ……!」
「『壁のマンドラゴラ』の分際で!」
嫉妬の視線も小気味良い。
マグダレーナにとっては初めての事態だが、これはこれで悪くなかった。妬み嫉み、おおいに結構。
「で、どういうつもりかね?」
二人きりになったバルコニーで、マグダレーナがいたずらっぽく尋ねる。
エリアスは周囲に人の気配がないのを確認すると、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「俺はお前に嫌がらせがしたいんだ。『その他大勢』の一人をお前が望むなら、その逆を行ってやろうと思っただけさ」
「随分と壮大な嫌がらせだな。人生の伴侶をそんなことで決めてしまうとは」
マグダレーナはまじまじとエリアスの顔を覗き込んだ。鼻先が触れ合うほど近づけば、エリアスがみるみる真っ赤になる。
「かっ、勘違いするなよ? 別に家格さえ釣り合えば、相手なんか誰でもよかったんだからな!」
「ほうほう」
「生返事するな!」
わめくエリアスも愛らしい。マグダレーナは上機嫌だった。
それからもエリアスの求婚は続いていく。
夜会のたびに甲斐甲斐しくマグダレーナを迎えに行って、隙あらば壁に張りつこうとする彼女を夜会の中心に引っぱっていく。
令嬢たちがマグダレーナにワインをかけようとすればすかさず庇い、足を引っかけられそうになったら素早く支え、宙を飛んだパイはエリアスがその端正な顔で受け止めた。
「髪の先までベトベトだな」
「いいんだよ。これで帰る口実になる」
夜会の主催者が急遽用意してくれた客室で、エリアスが顔を拭いて澄ましてみせる。
マグダレーナはそんな彼を楽しい気持ちで眺めた。指を伸ばして頬に残ったクリームをすくい、ぺろりとひと舐めする。
「甘い」
「……っ。ま、またお前はそういうっ」
エリアスが真っ赤になって怒った。
勢いよく顔を背け、「手洗いに行ってくるっ」と宣言して出ていってしまう。
マグダレーナが含み笑いしていると、客室に控えめなノックの音が響いた。
「マグダレーナ様。ブラッドリー伯爵様より至急の知らせが届いております」
マグダレーナは手紙を受け取って、素早く文面に目を走らせる。みるみる表情が引き締まり、手紙を届けてくれた使用人に厳しい目を投げかけた。
「すまないが、エリアス様が戻られたらわたしは先に帰ったと伝えてもらえないか? 火急の用件ができたから、と」
「承りました」
マグダレーナはドレスの裾を払うと、足早に出口を目指した。ブラッドリー伯爵家の馬車が待機しているはずだ。逸る気持ちを抑えて廊下を突き進む。
「――待ちなさいよっ!」
「っ!?」
突然背後から突き飛ばされ、壁に全身を打ちつけた。
痛みに息を止めるマグダレーナを、見慣れたエリアスの取り巻きたちが憎々しげに取り囲んでいた。
「どうやってエリアス様を騙したの?」
「単なる政略結婚なんじゃない?」
「お可哀想なエリアス様。義理のご両親に逆らえず、こんな女と結婚しなくてはならないなんて」
マグダレーナは無言で彼女たちを見つめる。
ため息をつき、やれやれと肩をすくめた。
「……的外れな苦情なら後日にしてくれないか。生憎とわたしはとても急いでいるんだ」
「な……っ何よ、『壁のマンドラゴラ』のクセして!」
手を振り上げる令嬢を、マグダレーナは鋭く見据える。
「バーンズ子爵家ご令嬢ッ!!」
「はっはいっ!?」
腹の底から声を出せば、バーンズ子爵家令嬢と呼ばれた彼女が固まった。
マグダレーナはビシッと彼女の鼻先に指を突きつける。
「あなたはエリアス様に夢中なあまり、あなたを愛おしく思う別の殿方の視線に全く気づいていない。それこそ可哀想だとは思わないのか?」
『えええッ!?』
声をそろえて驚愕する令嬢たちを、マグダレーナはゆっくりと見回した。
「それからそちらの、フラー家ご令嬢。あなたもだ。あなたの従者の切ない片思いに、あなたはどうして少しも気づかない?」
「えッうそ!?」
フラー家の令嬢が真っ赤になって頬を押さえる。
おろおろと顔を見合わせる彼女たちに、マグダレーナはいかめしく頷きかけた。
「もっと周りをよく見ることだ。よければわたしがコツを伝授しよう。というわけで、次の夜会では共に壁に張りつかないか?」
「いや……それはちょっと」
「遠慮するけど」
困ったみたいに身を引く彼女たちに、「では失敬」と颯爽と手を振って歩き出した。しかしすぐに背後から肩をつかまれる。
「ちょっと、待ちなさいよっ! わたくしは!? わたくしには何かないのっ!」
マグダレーナは仕方なく振り返った。
頬を上気させてマグダレーナを睨むご令嬢から、気まずく目を逸らす。
「……その、すまないモリスン家ご令嬢。あなたには、特にその、誰も……」
「なっ何よぉぉぉっ! 馬鹿にしてっ!」
マグダレーナの灰色の髪を引っ張る令嬢の腕を、横合いから伸びてきた手がつかんだ。
「何をする! マグダレーナから離れろっ!」
「エ、エリアス様!?」
悲鳴を上げる彼女たちに向かって、エリアスがすうっと目を細めた。いつもの優しい彼とは全く違う、その殺気立った目に彼女たちは震え上がる。
「エリアス様。わたしなら大事無い、心配しないでくれ」
泣き出しそうな彼女たちをかばうように、マグダレーナが前に立った。
怒りの炎を燃やすエリアスを、優しく叩いてなだめる。
「そんなことより、わたしと一緒に来てくれないか? 義姉が産気づいたんだ。初産だしきっと心細がっている。わたしが側についていてあげたい」
エリアスが意外そうに瞬きした。
素直に頷くと、当然のようにマグダレーナの手を取る。
「わかった。急ごう」
「ありがとう。……それでは君たちも、帰り道に気をつけて」
まだ茫然としている令嬢たちに、マグダレーナは別れを告げた。
お産は結局翌日の午後までかかり、義姉は元気な男の子を出産した。
ぐったりと疲れきりながらも、涙ながらにマグダレーナの手を握って礼を言う。
「ありがとうございました、マグダレーナ様……。こんなにもお待たせしてしまって、エリアス様にも本当に申し訳ありませんでした」
「ふふ、気にしないでくれ義姉上。あれはあれで、楽しい時間を過ごさせてもらって感謝しているよ」
意味不明な会話に、エリアスは怪訝そうに眉根を寄せる。
答えを求めるようにブラッドリー伯爵家の面々を見回すが、皆それどころではなかった。マグダレーナの兄は我が子の誕生にむせび泣き、両親は初孫に歓喜していた。
お祭り騒ぎの部屋を抜け出して、マグダレーナはエリアスを自室まで引っ張っていく。
「マグダレーナ?」
「乾杯しないか、エリアス様。泊まり込みで付き合ってくれて、本当にありがとう」
戸棚から美しいグラスを二つ取り出し、ワインを注いだ。
「さっきの義姉上殿の言葉は、何に対する謝罪だったんだ?」
エリアスの問いにマグダレーナは答えない。
戸惑うエリアスを振り返り、ドレスを払ってうやうやしくひざまずいた。
「……っ、マグダレーナ!?」
「エリアス様。あなたからわたしへの求婚は、まだ有効だろうか?」
真剣な表情で見上げるマグダレーナに、エリアスはごくんと唾を飲み込んだ。
みるみる熱くなっていく頬をこすり、無言のまま何度も頷いた。よかった、とマグダレーナが心から嬉しそうに笑う。
「ならば、エリアス様。わたしはあなたの求婚を喜んで受け入れよう」
「マグダレーナ……っ」
「ふふ。相手がエリアス様ならば、『その他大勢』ではなく『唯一』も悪くない」
エリアスは手を貸してマグダレーナを立たせると、彼女をきつく抱き締めた。
マグダレーナが「グッフフ」とくすぐったそうに笑う。
「……さっきの義姉の言葉はな、エリアス様」
エリアスの胸から顔を上げ、マグダレーナがささやきかける。
「わたしがあなたの求婚を断った原因が、他でもない義姉の願いにあるからだ。どうかわたしにはずっとブラッドリー伯爵家にいてほしいと、義姉から頼まれていたのだよ」
「はああッ?」
目を剥くエリアスに、マグダレーナは含み笑いしながら説明をした。
つまりはこういうことだった。
マグダレーナの悪評が立ちすぎて、兄は適齢期を過ぎてもなかなか縁談をまとめられずにいた。
無理もない。
ブラッドリー伯爵家に嫁ぐということは、すなわち『壁のマンドラゴラ』も付いてくるということ。普通ならば貴族の令嬢は他家に嫁ぐものだが、生憎とマグダレーナは全然全く普通ではない。
「わたしは一生ブラッドリー伯爵家の壁に寄生すると思われていたんだ。そんな小姑のいる家など冗談ではないと、貴族のご令嬢たちから兄は敬遠されていた」
そんな兄が恋をした。
相手は身分違いの男爵家の娘で、普通ならば成就するはずのない恋だった。けれどくどいようだが、マグダレーナのいるブラッドリー伯爵家は普通の貴族とは違うわけで。
「わたしの悪評のお陰で二人は無事に結婚できたわけだが、義姉はなかなか身籠らなくてね。いつか自分は離縁され、兄は別の令嬢と再婚してしまうのではないか、とあるはずもない未来に怯え続けた」
兄やマグダレーナ、そして両親が何度「そんなことはない」となだめても無駄だった。
だからせめて跡継ぎが生まれるまでは、マグダレーナはブラッドリー伯爵家に留まろうと決めていた。マグダレーナが伯爵家に居座り続ける限りは、兄の再婚相手など見つかるはずがなく、義姉は心穏やかでいられる。
「だがそれも、今日で終わりだ。さっきの義姉の顔を見たろう? 自信と幸福に満ちあふれていたよ」
「なるほど……話はわかったが……」
エリアスが嫌そうに顔をしかめる。
どうやら気づいてしまったらしい。マグダレーナは「グッフフフ」と笑い声を漏らした。
「お前なぁ、それをもっと早く俺に言ってくれてもよかったんじゃないか? 求婚を断られ続けて、俺がどれだけじれったい思いをしていたと」
「だが、お陰でやる気が出たろう? 絶対にわたしを振り向かせてやると、あなたからは強い決意を感じたし、愛が育っていくのもひしひしと感じていたよ」
「あ、愛って!!」
エリアスが真っ赤になって崩れ落ちた。やはり可愛い。最高だ。
マグダレーナもしゃがみ込み、エリアスの顔をしげしげと覗き込む。
遠い壁から一方的に眺めていた時とは全く違い、今は手を伸ばせば届く距離にいられる。これこそ彼の『唯一』たる特権なのだ。
マグダレーナはうきうきと腰を上げ、グラスを手に取った。片方を差し出せば、エリアスもよろめきながらもなんとか立ち上がる。
「つまりは俺は、お前の手のひらの上でコロコロと転がされていたわけだな?」
「ふむ。そうとも言うね」
澄まして肯定すると、エリアスが頭を抱え込んだ。
にんまりするマグダレーナからグラスを奪い取り、やけっぱちのように高く掲げる。
「『壁のマンドラゴラ』に乾杯――……いや、完敗!」
お読みいただきありがとうございました!
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