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誓いのその後4

時間は、晩餐会が始まる前に遡る。ルトヴィアスが女官を怯えさせながらも衣装を整えていた、丁度その頃。

いつも柔らかな微笑みを絶やさないリオハーシュ夫人の珍しい困り顔を前に、アデラインは申し訳なくて俯き気味に謝った。

「あ、あの……お呼びだてして申し訳ありません。リオハーシュ夫人」

舞踏会に出席するため王宮にやって来たリオハーシュ夫人を、アデラインはミレーに頼んで部屋まで連れてきてもらった。ミレー達女官には廊下に待機してもらい、部屋にはアデラインとリオハーシュ夫人の二人だけだ。

リオハーシュ夫人は、ゆるゆると首を振る。

「とんでもございません。お顔の色がよくて安心いたしまた……ですが、あの……」

リオハーシュ夫人の目線が、アデラインの頭から足の先までを何度か往復した。

アデラインも、自らの姿を見下ろす。

「えっと、我ながら似合っていると思うのですが」

「ですが、お嬢様のご衣装として相応しいものではありませんわ」

リオハーシュ夫人は『似合わない』とは言わない。彼女のそう言うところが、アデラインは好きだった。

苦笑いしながら、アデラインは頷く。

「そうですね。宰相令嬢としてもルトの……王太子殿下の婚約者としても、相応しいとは私も思いません」

濃緑のドレスは皺を寄せて膨らませた肩先から、袖口が広い長袖が垂れた優雅なものだった。花帽からは、ドレスと同じ濃緑の長い垂布が下がっている。そして白いレースで縁取られた絹の前掛け。

動きやすさより人の目を楽しませることを重視した高位女官の制服。

昨日の早朝、青つぐみの巣を見に行った時に着たものだ。

ミレーがそれを衣装部屋に吊るしているのをアデラインは覚えていて、そしてそれを今、身に付けている。

アデラインは両手の指を胸の前で絡ませ、リオハーシュ夫人に一歩近付いた。

「お願いがあるのです、夫人」

「それは出来ません、お嬢様」

リオハーシュ夫人が首を振る。すると耳飾りがキラキラ揺れて、うっとりするほど綺麗だった。

アデラインは、目を瞬かせる。

「まだ何も言っていません」

「女官に扮したお嬢様を舞踏会へお連れする、というお話でしょう?」

「…………」

御名答である。

舞踏会などの際、高位の女官は多くが会場で給仕をしたり、招待客の話し相手として傍に控えたりする。

女官のふりをしたアデラインが一人潜り込んだところで、そうそう露見することはないだろう。

けれど万が一の時に、助けてくれる人が必要だ。リオハーシュ夫人の傍にいさせてもらえば、その点安心と言うわけだ。

アデラインはばつが悪くなり、首をすくめた。

「……だ、駄目ですか?」

「駄目です」

ふわふわした独特の言動が多く周囲を唖然とさせることが多いリオハーシュ夫人だが、今日はすこしばかり様子が違った。

「アデラインお嬢様の頼みなら、私も叶えて差し上げたいとは思います。ですが、もしお嬢様に誰かが気付いたらどうなさいます?婚礼を延期せざるを得ないほど重篤な流行病で臥せっているはずのあなた様が女官姿でウロウロしていたら」

「わかっています!わかっています。……でも」

アデラインは手を握り締めた。

「き、気になるんです。どうしても……ハーミオーネ嬢がどんな方か」

「……ハーミオーネ嬢を見て、お心が安らかになりますか?」

「え?」

「王太子殿下とハーミオーネ嬢が踊っている姿を見て、余計にお心が乱れるのでは?」

「それは……」

アデラインは困ってしまった。

ハーミオーネ嬢を見れば、胸に抱える不安が消えるとばかり思っていたが、よく考えればそうとも限らないのだ。

もしかしたら、ルトヴィアスがハーミオーネ嬢に心を奪われるその瞬間を見てしまうことになるかもしれない。

自分は一体どういうつもりだったのだろう。

(私……)

安心、したかった。

ルトヴィアスが他の女性に目移りしないと、確かめたかった。ハーミオーネ嬢を見て、安心できると思った。

では、何故ハーミオーネ嬢を見て安心出来ると思ったのだろう。

自らの心の内を覗きこみアデラインは愕然とした。

(私……見下そうと、した)

多分、自分はハーミオーネ嬢を見下そうとしたのだ。

その容姿や振る舞いを見て、自分より劣る何かを探して、これなら大丈夫、ルトヴィアスがこんな(ひと)を気に入るはずないと、安心したかったのだ。

何て卑劣なんだろう。

あれほど見下され、侮られ、その悲しさも悔しさも、誰よりも知っているはずなのに。

アデラインを蔑み、笑い者にした人々と、今のアデラインの何が違うというのだ。

「……リオハーシュ夫人、ごめんなさい。忘れてください。私何て……」

「お嬢様」

「私……きっとルトを信じていないんです。信じると決めたくせに、こんなに大切にされて、なのに私……信じていないんだわ」

欲深く、疑い深い自らの醜さに、アデラインは恥じ入って両手で顔を覆った。

ルトヴィアスは、こんなに醜い自分のどこが良いのだろう。ルトヴィアスは、アデラインを良い方に誤解しているのだ。本当のアデラインを知れば、きっとすぐに彼の心は離れていってしまうに違いない。

「私……」

「……信じる信じないは関係ありません。恋をすれば、誰だって嫉妬します」

「え?」

「アデラインお嬢様。お化粧をいたしましょう」

「リオハーシュ夫人?」

「白粉でその痣を隠しましょう。完全には無理でも、せめてもう少し目立たないふうに」

「あ、あの?」

「やはり、ご協力いたします」

アデラインは驚いて、夜色の目を見開く。

「で、でも」

「お嬢様のそんなお顔を見ては、じっとしていられません。意地悪を言った私を許してくださいますか?」

「意地悪だなんて!」

勢いよく首を振る。リオハーシュ夫人の言葉に、傷ついたことなど一度もない。

リオハーシュ夫人は、優しげな笑みを深くした。

「お嬢様を思い止まらせるべきなのでしょうけれど……でも、そうですね。安心なさるかもしれません。ハーミオーネ嬢を見て、と言うよりはルトヴィアス王太子殿下を見れば、きっと不安になったことすら馬鹿馬鹿しくお思いになられるのではないかしら」

「どういうことです?」

アデラインは首を傾げることしかできない。

「夫人は、ハーミオーネ嬢をご存じなのですか?」

「いいえ」

リオハーシュ夫人は、くすりと笑った。

「でも、相手が誰であれ関係ありませんわ。お嬢様がお考えになっていらっしゃるよりもずっと、王太子殿下はお嬢様にベタ惚れですから」




やがて日が暮れ、舞踏会が始まることを知らせるビョードルが鳴り響いた。

円卓には花が飾られ、硝子玉で装飾された燭台には煌々とあかりが灯る。

華やかに着飾った人々の談笑が、大広間の空気を震わせた。

「御機嫌よう、大使夫人」

「まぁ、素敵なお召し物ですこと」

人々は知己と挨拶を交わし、朗らかに笑う。

夢のように美しく和やかな舞踏会は、けれどその実、諸外国の大使達が牽制しあう戦いの場でもあった。

いまだ復興途中にあるルードサクシードにおいて、どのような利権を自国が得られるか。彼らは笑いながら、互いの腹の内を探り合っているのだ。

その華やかな戦場の壁際で、アデラインは俯き、息を殺した。

もうすぐ、ルトヴィアスがハーミオーネ嬢を伴ってやってくる。

――……やっぱり、やめればよかった。

自分から言い出した事だというのに、アデラインは早くも後悔していた。

リオハーシュ夫人は『不安になったことすら馬鹿馬鹿しくお思いになられる』と言ったけれど、本当だろうか。

――……どうしよう。ルトがハーミオーネ嬢を好きになってしまったら。

嫌な想像ばかりが頭を過る。

そんなことは絶対にありえない、とはどうしても思えなかった。

――……ルトを信じていないというよりは……私は私を信じられないのだわ。

自分に自信がない。だから、ルトがアデラインを好きだと言うその言葉が、いまいち現実感を伴わない。ふわふわとした、自分に都合の良い夢のように感じてしまうのだ。

情けない、とアデラインは項垂れた。

自分を好きになる為に、立派な王太子妃になろうと思った。努力はしてきたつもりだ。

けれど結局は、何も成長していないのかもしれない。

「なかなかお似合いですよ」

アデラインを隠すようにして立つリオハーシュ夫人が、くすくす笑う。アデラインの両脇に立つ、ライルとデオに言ったのだ。

「恐縮です」

「ど、どうも……」

二人はいつもの制服ではなく、侍官の制服を着こみ、髪を後ろに撫でつけていた。長剣も、長衣の中に隠しており、一見して騎士とは分からない。

実は今回の舞踏会への潜入計画についてミレーにうちあけたところ、予想通り彼女は大反対だったのだ。『とんでもない!』と青ざめるミレーをリオハーシュ夫人が宥め、結果としてミレーはライルとデオがすぐ近くに控えるという条件で、渋々ながら頷いてくれた。

だが、騎士が護衛していては、アデラインが女官の恰好をしていてもすぐに正体がばれてしまう。そんな事情から、ライルとデオには侍官に扮してもらうことになった。

ライルとデオの二人は、どうやら居心地の悪さを感じているようだった。

通常、騎士は貴人の目に入らぬところで警備にあたる。その為、こういった華やかな雰囲気には慣れていないのだろう。

「あの、ごめんね。ライル。デオ」

我儘に付き合せてしまったことが申し訳ない。

小声で謝ったアデラインに、ライルもデオも神妙な面持ちでそれぞれ首を振った。

「いいえ。また護衛の任を頂けたこと、光栄です」

「先日のようなことがないように、しっかり務めさせていただきます――ミレーさんにもくれぐれもと頼まれましたし!」

やけに凛々しい表情をつくるデオに、ライルが呆れたように目を細める。

「お前もめげないな」

「めげてたまるか。“丁寧に誠実に、粘り強く”!!」

「……それ、何かの呪文?」

不思議に思ってアデラインが尋ねると、リオハーシュ夫人がまたクスクスと楽しげに笑った。

その時、音楽が止み、人々が大広間の中央扉に注目する。

「ああ、いらっしゃるようですよ」

リオハーシュ夫人の言葉に、アデラインはギクリと体を固くした。

――……ど、どうしよう。

この場から逃げ出してしまいたいが、足が動かない。

そうこうするうちに、ぎぃ、と微かに軋みながら、重厚な両開きの扉が開いた。

そこから現れたのは、深緑の正装に身を包んだルトヴィアスと――……。

「え?あれ?」

声を上げたのは、デオだけではなかった。

戸惑うようなざわめきが、大広間に広がっていく。

「あれは宰相令嬢か?」

「そんなはずは……令嬢は流行病で寝込んでおられるのしょう?」

「じゃあ、あれは誰だ?」

アデラインは何も言えぬまま、ルトヴィアスの隣を歩くその女性を凝視した。

――……私?

そっくりだ、と思った。

栗色の髪も、小さな口も鼻も、まるで鏡を見ているようだった。

――……あれが、ハーミオーネ嬢?

ざわめきがやまぬ中、ルトヴィアスとアデラインにそっくりなその人、ハーミオーネ嬢は、大広間の中央で向き合った。

止まっていた音楽が、再び流れ始める。

それにあわせて、ルトヴィアスがハーミオーネ嬢に手を差し出した。

その美術品のように美しく長い指を、ハーミオーネ嬢がとる。

心臓が、ドクンと大きく一つ鳴った。

――……やだ。

アデラインは目を逸らそうとした。でも、できない。目が、勝手にルトヴィアスを追ってしまう。

弦楽器が奏でる美しいその調べに、ルトヴィアスとハーミオーネが踊り始めた。

緊張しているのか、ハーミオーネ嬢は時折足の運びを間違えて躓き、その度にルトヴィアスがよろめくハーミオーネ嬢の身体を支えた。

その瞳は、まるで今にも溶けだしてしまいそうに優しい。

心の中で、黒い靄が渦まいた。その靄は徐々に色濃く、重くなっていく。

――……気持ち……悪い……。

アデラインは、胸を抑えた。

胸の奥で、様々な感情がぐるぐるする。

怒り、悲しみ、不安……。

「どうして俯いておられるんですか?お嬢様、よくご覧になってください」

「そんな……」

一瞬、今度こそ意地悪を言われているのかとアデラインは思った。

ルトヴィアスが自分以外の女性に――しかも自分とそっくりの女性に、優しく微笑みかけている光景など、もうこれ以上見たくない。

けれどリオハーシュ夫人は、悪戯っぽく笑った。

「何か誤解なさっているようですが、お嬢様。殿下は今、お嬢様を見てらっしゃるんですよ」

「……え?」

「ほら」

壁際にいたアデラインの手を優しく引き、自らの横に立たせると、リオハーシュ夫人はアデラインの目を見て、それからその目を今度はルトヴィアスに向けた。

「目は口ほどにものを言うと申しますけれど、殿下はそれが顕著な方です。お嬢様の前では特に。――――いつも、ああいうふうに、殿下はお嬢様を見ておられます」

「……」

そう言われて、アデラインは改めてルトヴィアスを見た。

よくよく見れば、ハーミオーネ嬢が躓くごとに、彼が噴き出すのを堪えているのがわかる。

――……ちょっと。

思わず、アデラインは心の内でルトヴィアスを叱責した。ダンスに不慣れ――にしか見えない――な相手を笑うなんて、失礼ではないか。

けれどルトヴィアスがハーミオーネ嬢を嘲っているわけではないことも、一目瞭然だった。

愛しい、と言わんばかりの目。

愛しくて愛しくて堪らないと、そんな想いがこちらにまで伝わってくる。

ミレーの言葉をかりるなら『だだ漏れ』というやつだ。

「……」

「婚約者であるお嬢様を差し置いて他の方にあんな眼差しを向けるなんて、本来ならお仕置きが必要ですけれど、今回は許して差し上げましょう?だって、あんなにそっくりな方を目の前にして、お嬢様のことを思い出すなという方が無理ですもの」

リオハーシュ夫人は楽しげだ。

――……つまり、今私は……。

アデラインは理解した。

つまり、今アデラインは、第三者としてルトヴィアスと自分が踊っているのを見ていることになるのだ。

じわじわと、体温が上がっていくのを感じた。

「……あの、リオハーシュ夫人」

「はい?」

「その……いつもですか?」

いつもあんな目で、彼はアデラインを見ているのだろうか。

リオハーシュ夫人はにっこりと笑った。

「ええ。いつもです」

「……」

端から見ないとわからない、ということもあるが、逆に言えば端から見るとこんなに分かりやすいのか。

「ね?不安になったことが馬鹿馬鹿しくお思いになられたでしょう?」

「……ば、馬鹿馬鹿しいというか……」

熱い顔を両手で覆う。

――……恥ずかしい。

あんなに不安になって、周りを巻き込んで女官に変装までして、挙句の果てに自分自身に嫉妬していたなんて。

音楽が終わり、拍手の中でルトヴィアスとハーミオーネ嬢が頭を下げる。

彼らが階上の席にそれぞれ座ると音楽が変わり、何組かの男女が手をとって踊り始めた。

遠目に、ルトヴィアスがハーミオーネ嬢に話しかけているのが見える。何を話しているのだろうか。

「お嬢様」

リオハーシュ夫人が、密やかに言った。

「私、そろそろ夫の元に行かなければならないのですが」

「あ、はい。わかりました」

アデラインは背筋を伸ばし、リオハーシュ夫人に向き直る。

「我儘をきいて下さってありがとうございました。私も部屋に戻ります」

「私も楽しい時間を頂きました。では、また後日」

アデラインが女官に扮している為、リオハーシュ夫人は頭を下げはしなかった。その代わりにとびっきり美しく微笑んでくれた。

優雅な足取りで去って行く背中に、アデラインは膝を折って頭を下げる。

「ライルとデオもありがとう。行きましょう」

「かしこまりました」

壁際を沿って、アデラインは歩き始めた。

何人か見知った人も見かけたが、女官の姿をしたアデラインに気付く者は誰もいない。驚くほどすんなりと、アデラインは扉の前に辿り着いた。

そっと、大広間を振り返る。

美しい音楽。輝く燭台の灯。優雅に踊りを楽しむ人々。

本当なら、今日ルトヴィアスの妃としてこの舞踏会に出席するはずだった。

純白のドレスを着て、人々に祝福されて……。

それができなかったことが残念だと、この時アデラインはようやく思った。

――……十分だって、思っていたはずなのに。

命が助かって、ルトヴィアスと想いが通じた。彼が求婚の靴をくれて、傍にいてくれる。

十分だと、そう思ったのは嘘ではない。

けれど落胆していることも、また事実だった。

ルトヴィアスの隣で祝福される未来の自分を思い浮かべながら、アデラインは大広間に背を向けた。

「あー……緊張したぁ」

デオが大きく息を吐き出す。

アデラインは肩ごしに振り向いた。

「大広間に入ったのは初めて?」

「はい。天上が馬鹿高くて、びっくりしました」

「お前、任務中にどこ見てたんだよ」

「いいだろ。騎士団長にでもならない限り、二度と入れないかもしれないんだから」

ライルとデオのやりとりを聞きながら、音楽が反響する廊下を部屋へと歩く。その足取りは、驚くほど軽かった。不安だった気持ちが、綺麗さっぱり消えたからだろうか。

「おい、ちょっと」

声をかけられたのは、階段を登ろうとした時だった。


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