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誓いのその後1


俺が愛してるのはお前だ、と彼は声を荒げた。

「……お前だ。アデライン」

痛みの中から絞り出したような真摯な声。

そんな馬鹿な、とアデラインは思った。

彼は恋人を――ビアンカを忘れられないのではなかったのか。

いいや、それよりも、彼が自分のような平凡な容姿の、しかも卑屈な小娘を愛してくれるなど有り得ない。

けれどルトヴィアスの美しい碧の双眸は、一瞬もよそ見をすることなど有り得ないというようにアデラインを見つめ続けている。

「…俺はお前を振り回して、傷つけた。お前が俺の言葉を信じられないのは当たり前だ。無理に信じろとは言わない。それでも…俺は言い続ける。お前を愛してると。お前が信じるまで」

アデラインの心を射抜くその眼差しに、力が籠る。

「一生かかっても、お前に信じさせてみせる」




「ーーーーっっっ……ーーッッッ!!」

長椅子の上で身体を折りたたんだアデラインは、その場で声にならない悲鳴を上げながらじたばたした。

次期王位継承者であるルトヴィアスと婚約したのは八歳の時。

品行方正、才気煥発。神童とまで謳われた美貌の王子に、幼いアデラインは一目で恋をした。

そして、約十年。

幼い恋は、ルトヴィアスが猫を飼っていると判明したことにより音をたてて砕け散り、代わりにアデラインは新しい恋をした。

短気で、人嫌いで、気難しくて、けれど誰より優しくてまっすぐで、木漏れ日のように笑うその人に。

本当の意味で実ることなく終わるだろうと思われていたその恋は、けれど先日、アデラインの予想を盛大に裏切ってくれた。

――……まさか、ルトも私のことを想ってくれていたなんて。

顔を上げて視線を向けた円卓の上には、花の彫刻が施された黒紅色の木箱があった。

中には、クリスタルのビーズが縫い付けられた若葉色の靴がはいっている。求婚の品としてルトヴィアスが贈ってくれたものだ。

『愛してる』

『俺と結婚してくれ』

低くて、真摯な声。

その記憶をなぞるだけで、アデラインは奇声をあげて床の上をゴロゴロ転がりたい衝動にかられてしまう。

――…ダメダメ。私は王太子の婚約者なのよ。

やがては王妃にもなろうという王太子の婚約者が床を転がるなんて、ルードサクシートの品性を疑われてしまう。

必死に衝動を抑えるも、少し油断するだけで口許はだらしなく緩んでしまった。

――……ああ、もうダメ!我慢できない!!

にやける顔を両手で覆い、アデラインは長椅子に突っ伏す。

「――……夢みたい」

幸せで、不安になる。

――本当に夢だったらどうしよう……。

あまりにも自分の都合にいいように世界が動いてくれて、現実感が希薄だ。

もし全て夢だったと言われたとしても、やっぱりなと納得してしまう気がする。

「……お気持ちは分かりますが、少し落ち着かれませ。お嬢様」

苦笑交じりに、ミレーが言った。

「ミ、ミレー……っ」

侍女の存在を失念していたアデラインは顔を真っ赤にして、慌てて居ずまいを正す。

花帽はかぶっていない。身に着けているのも簡素な部屋着で、髪も緩く編んで胸の前に垂らしているだけだ。

恐ろしい事件から生還し、いまだ多くの時はたっていなかった。体調も本調子とは言い難く、今日も少し出歩いただけで疲れ果ててしまって、先程まで仮眠をとっていたところだ。

――……素敵だったな。

フフ、とアデラインは唇を綻ばす。

今日はルードサクシードにとって特別な日だった。ルトヴィアスが遂に立太子したのだ。

王太子として正装したルトヴィアスは神々しいばかりで、大聖堂の屋根裏から彼の肩に聖布がかけられるのを密かに見守っていたアデラインは、感極まって感動しきりだった。

「もう始まる頃合いでございますね」

アデラインの前に紅茶を出しながら、ミレーが言った。

いつの間にか薄暗くなっている窓の外を見て、アデラインも頷く。

「ええ、そうね」

立太子に関わる諸々の儀式が無事終わり、残すは祝賀の晩餐会を残すのみ。

本来であれば王太子の婚約者であるアデラインは今日の日の為に用意した衣装を身につけ、丹念に化粧をほどこし、今頃ルトヴィアスの迎えを待っているはずだった。もしかしたらアデラインの髪型に命をかけているミレーが、最後の仕上げに奮闘していたかもしれない。彼女のことだから、きっとまた芸術的な出来映えだっただろう。

けれどアデラインは晩餐会に出席することは叶わない。

誘拐されたということを隠す為にアデラインは『流行り病で寝込んでいる』とされ、今も世間的にはその流行病から回復しないと思われているからだ。

花嫁が急病とあって明日行われるはずだった婚礼は延期。それに伴い様々な行事が取り止めや延期となっている。

これを自分の責任だと感じたアデラインは見舞いに来てくれた父の宰相に申し訳ないと謝ったのだが、日頃厳しい父は一言もアデラインを責めることなく、それどころか『余計なことは考えず、ゆっくり養生しなさい』と労わってくれた。

――……何だか、変な気分だわ。

ずっと婚礼の準備や公務、茶会などの社交に忙しい毎日をおくっていたというのに、突然何もせずにゆっくりしていろと言われても、どうすればいいのかわからない。

ミレーの淹れてくれたお茶を、アデラインは口元に運んだ。

――……いい香り。

趣味という趣味もないので時間をもて余しているというのが正直なところだったが、いい機会だ。この際ゆっくりとさせてもらおう。

「折角のお祝いの席ですのに、部屋に籠っていなければいけないなんてお可哀想なお嬢様。それに……本当でしたら明日は婚礼のはずでしたのに」

肩を落とすミレーに、アデラインは笑いかけた。

「仕方ないわ。この顔だもの」

アデラインの顔には口許から頬にかけて化粧では誤魔化しようもない青痣がひろがっている。この痣のせいで、アデラインとルトヴィアスの婚礼は延期せざるをえなかったのだ。

ルトヴィアスやミレーは不満気だが、アデラインとしてはルトヴィアスの婚約者という立場でいられるだけでも幸運だと思っている。もしかしたらもっと酷い目にあって、自ら命を絶っていたかもしれないのだから。

「私はルトが傍にいてくれるだけで十分幸せよ」

ルトヴィアスからの思いがけない求婚で、つらい片想いから解放されたアデラインは、控えめに言って天にも昇る心地なのだ。

するとミレーは、やれやれと言うふうに言った。

「ええ、勿論。ご様子を見ていればお嬢様が今お幸せであることは十分わかっております。だだ漏れてらっしゃいますからね。ですが、それでは足りません。沢山つらい想いをされたぶん、お嬢様にはもっともっと、とびっきり幸せになっていただかなくては!」

この言葉にアデラインはまず唖然とし、そして笑った。

「ミレーったら……」

胸にジワリと温かいものが広がる。ミレーの思いやりが嬉しくて、少しくすぐったい。

それにしても、とアデラインは頬に手をあてた。

――私って、そんなにだだ漏れ?

その時、廊下へつづく扉が、トントン、と叩かれた。

(わたくし)です。よろしいでしょうか」

オーリオの声だ。

ミレーが、アデラインを見る。アデラインが頷いてみせると、ミレーは「少々お待ちください」と小走りで扉へ向かい、オーリオを迎え入れた。

「急に申し訳ありません。お加減はいかがですか?」

畏まるオーリオに、アデラインはにこやかに話しかける。

「私は大丈夫です。それより、どうかしたんです?」

もうすぐ祝賀の晩餐会が始まる。秘書官であるオーリオはルトヴィアスの傍に控えるべきであって、こんなところにいる暇はないはずだ。

「実は……お願いがあって参りました」

どこか気まずげなオーリオに、アデラインは首を傾げた。




「今、何と言った?オーリオ」

低い声で、ルトヴィアスは聞き返した。

もはや凶器と言っても過言ではない鋭利な視線に、周囲にいた侍官や女官は青い顔をして竦み上がる。

それがまた、ルトヴィアスの癇に障った。

――……別に、当たり散らしてるわけじゃないだろ。

気分屋で周囲に感情をぶつけることを躊躇わなかった祖父と、同じようにはなりたくない。だからルトヴィアスは、機嫌が悪いことを理由に仕えてくれる人間を痛めつけるようなことは絶対にしてこなかったつもりだ。

猫を脱いだ今後も、その主義を違えるつもりはなかった。

けれど侍官達仕える側にとっては、主君が不機嫌であることがすでに怯えるに値する事柄なのかもしれない。ましてや、これまで猫をかぶったルトヴィアスにしか接して来なかった彼らにしてみれば、豹変したルトヴィアスは恐怖の対象なのだろう。アデラインすらも、猫を脱いだルトヴィアスには当初及び腰だったのだから。

けれどオーリオは、そんな誰もが恐れる不機嫌なルトヴィアスにも一切怯むことなく淡々と答えた。

「明日の舞踏会の件ですが、殿下にはニールドーソン家のご令嬢をエスコートして頂くことになりました」

時は夜半近い。

晩餐会の招待客一人一人と言葉を交わして大広間から送り出したルトヴィアスは、ようやく自室に戻ったところだ。

――……あと半刻。いや、四半刻でも早く終わっていれば……。

そうしたらアデラインの顔を見に行けたと言うのに、さすがにこの時間では婚約者といえども異性の部屋を訪ねるのはまずい。

警戒心が薄いアデラインなら、夜遅かろうと朝早かろうと、ルトヴィアス相手に扉を閉ざすことはないのだが、それも問題だった。

――…あの夜の二の舞はごめんだ。

ルトヴィアスは眉間の皺を深くする。

一つの寝台で、腕をアデラインの枕として貸し出した地獄の夜。

今、彼女の部屋を訪ねれば、同じような状況にならないとも限らない。それは避けなければならない。絶対に。今度こそ間違いなく理性が負ける。

――……くそ。あのクソジジイどもめ。

そもそも、ここまで晩餐会が長引いたのは、諸外国の大使達がルトヴィアスをなかなか離してくれなかったからだった。

『ご婚礼が延期とは何とも残念です』『宰相令嬢のお加減は如何ですか?』

直前になって婚礼を延期したことで、彼らはさりげなく探りを入れてきた。

アデラインは本当に流行病なのか。一度は破談になりかけたルトヴィアスとアデラインである。二人はやはり不仲で、それゆえの婚礼の延期、もしくはこのまま婚約自体が解消になるのではないか。

大使達の言葉の端々から、そんな思考の流れが手に取るように感じられた。

上手くすれば自国の姫をルードサクシードの王太子妃にすることも可能なのではと、そんな政治的打算すら見え隠れしていたが、ルトヴィアスはそれらに一切気付かないふりで優雅に笑って受け流した。だてに長年、猫を飼ってきたわけではない。

だが、ある国の大使が伴った娘はあからさまなほど色目を使ってきて、その甘すぎる香水の香りにルトヴィアスは吐き気をもよおした。

『気安く触るな、ブス』と怒鳴り散らせればスッキリしたのだろうが、オーリオから『国際問題に発展しかねないので、諸外国の大使様方の前ではしっかり猫をかぶっていてくださいね』と事前に釘を刺されている。ルトヴィアスとしてもこれ以上面倒を起こすのはごめんだったので何とか怒りを噛み砕いて微笑んでみせたが、その分、身の内では苛立ちがムクムクと大きくなっていた。

――……ああ、苛々する。

腹黒大使どもの相手は面倒くさいし、香水は臭いし、正装は重いし、猫を脱いだルトヴィアスに周囲が終始ビクビクするのも、暖炉の上に飾られた絵画すらも気にくわない。

もはや目に入るもの全てが面白くなかったが、何より腹立たしいのがアデラインとの婚礼が先延ばしにされてしまったことだ。

――……せっかく想いが通じたのに。

アデラインに想いを伝えて、想いを返してもらって、そして王子様とお姫様は結婚していつまでも幸せに暮らしました、というのが物語の大定番のはずではないのか。

それなのに婚礼どころか、ルトヴィアスは愛しい婚約者の顔を半日以上見ていない。

その上、秘書官が妙なことをほざき始めた。

「やはり舞踏会で殿下に同伴者がいないのは恰好がつかないということになりまして。国王陛下や宰相閣下にもご了承を頂いております」

しれっと語るオーリオに、苛立ちが更に増す。

重い外套を床に叩きつけるように脱ぎ捨てて、ルトヴィアスは襟元を乱暴に緩めた。

「俺の同伴者になるべき婚約者は流行病で臥せっているんだぞ?格好も何もあるか」

「ですから、お嬢様の代わりをニールドーソン家のご令嬢が務めるということになったのです」

これに、溜まりに溜まった苛立ちが遂に決壊した。

「ふざけるな!!アデライン以外の同伴者など必要ない!!」

アデラインとの婚礼の延期に伴い、様々な行事が中止、変更を余儀なくされている。

明日の夜に行われる予定の舞踏会も、その一つだ。

婚礼を祝う趣旨で開かれるはずだった舞踏会のため当然中止になるだろうとルトヴィアスは思っていたのだが、各国からの招待客の接待という意味合いの行事であったこともあり、結局その趣旨をルトヴィアスの立太子の祝うということにして、演奏される舞踏曲なども変更した上で開催されることになったのだ。

だが舞踏会は、男女が二人一組になって出席するのが基本である。

ルトヴィアスの同伴者を誰にするか。これが問題だった。

姉妹や従姉妹など、未婚で年が近い女性が身内にいれば同伴者の代役としてちょうどいいのだが、今現在のルードサクシート王家にそんな都合のいい人物はみあたらない。

昨日の御前会議ではこれについて紛糾したが、ルトヴィアスは例によって毒舌で大臣達を黙らせた。『くだらねぇ議題で盛り上がるくらいなら舞踏会なんてやめちまえ』と。

ところが、話はそれで終わってはいなかったらしい。

水面下で話は進み、いつの間にやら同伴者が決定している。

「何が楽しくてアデライン以外の女と踊らなきゃならないんだ!」

アデライン以外の女の手をとるなど、もはや考えられない。

ルトヴィアスは喚いたが、当然ながらオーリオもそれくらいで引き下がりはしない。

「貴方が踊らないで誰が一曲目を踊るんですか?国王陛下にご無理をしろと?それとも王族ではない宰相閣下ですか?王族を差し置いて厚かましいと、我がマルセリオ家が非難されてもかまわないと?」

晩餐会が主催者による挨拶と乾杯で始まるように、舞踏会も主催者が同伴者と一曲目を踊ることで始まる。

宮廷舞踏会なら、主催者は国王だ。だが体調を崩しがちなリヒャイルドが踊るわけにはいかないし、彼の同伴者となるべき王妃は既に他界しており、その地位は空位である。第一、彼が他に同伴者を選ぼうものなら新たな権力争いが起こるだろうことは火を見るより明らかだ。

これを避けるためにルトヴィアスが帰国する前は宮廷舞踏会の一曲目は宰相であるマルセリオとその夫人が務めることが多かったのだが、これをマルセリオ家の専横だとして眉を潜める者も少なからずいた。結局、“一曲目を誰が踊るか”についての問題は根本的解決をみることなく今日(こんにち)まで持ち越され、そしてルトヴィアスの帰国とアデラインとの結婚でようやく決着を見るはずだったのだのだ。ところが、婚礼は延期。

確かに、この状況で一曲目を踊るのはルトヴィアス以外には考えられない。王太子であるルトヴィアスが誰かしらを同伴者に選んで一曲目を踊るのが、一番無難な解決案だ。

ルトヴィアスとしても分かっていた。これは政治的利害関係が絡み合う問題だ。平民が意中の相手と踊れないから祭りに行かないと駄々をこねるのとはわけが違う。王太子として、ルトヴィアスは一曲目を踊る義務がある。

だが、それでも大人しく頷くわけにはいかなかった。

婚約者(オレ)に蔑ろにされていると、またアデラインが好奇の目にさらされてもいいのか!?」

婚礼が延期になることでアデラインが世間から何と言われるか。それがルトヴィアスの目下最大の心配事だった。

大使達のようにルトヴィアスとアデラインの不仲説を考える者は当然いるだろう。アデラインの居を王宮に移すことで国内外にルトヴィアスの妃が誰であるのかはっきりと明示させるつもりではあるが、ルトヴィアスがアデライン以外の娘と踊ったとなれば不仲説を後押ししかねない。

ただでさえルトヴィアスは、一度アデラインと婚約破棄をしようとした過去がある。

あの時のように、アデラインが傷つくようなことだけは何としてでも避けなければならなかった。

「お嬢様には、お許しをいただいて参りました」

オーリオの言葉に、ルトヴィアスは上げた手を振り下ろす場所を失った心地にみまわれた。

「……何だと?」

「お嬢様には事情を説明して、ご理解いただきました。気遣いは無用ですとのことでした」

「……」

ルトヴィアスが黙り込むと、オーリオは小さく嘆息した。

「『私は平気よ』と、笑っておられました」

「……」

額に手をあて、顔を隠すようにしてルトヴィアスは俯いた。

――……あいつなら、言う。

アデラインは王族が守るべき立場や義務を、十分すぎるほどに理解している。

だから必要とあれば、ルトヴィアスが自分以外の誰かと踊ることも、そのことで自分がまた貶められる可能性も許容してしまう。

『私へのお気遣いは無用です』

彼女なら、そう言うだろう。

そう言って微笑むアデラインの声や顔を、思い浮かべるのは簡単だった。

きっといつもの、あの笑い方だ。

控えめで、上品で、腹がたつほど完璧な、あの笑顔。

理不尽も、不満も、全て飲み込んで微笑む貴婦人の顔だ。

分かってはいるのだ。

そうするように、アデラインは教育されてきた。それは彼女にとって義務なのだ。未来の王妃として“私”より“公”を優先する。

あの顔をさせているのは、他でもないルトヴィアスだ。

ルトヴィアスの隣に立つために、アデラインは飲み込みたくもないものを飲み込まざるを得ないのだ。

分かっている。分かってはいるけれど――……。

――……でも、言うなよ。

『私は平気よ』

――……そんなふうに言うなよ。

ルトヴィアスが他の女と踊っても平気だなんて、頼むから言ってくれるな。

「……わかった」

息を吐きだし、ルトヴィアスは顔を上げた。

「ニールドーソンの娘だったな」

冷静で賢明な王太子として、オーリオに向き直る。

オーリオも、感情の一切を削ぎ落とした顔をしていた。

「さようです」

彼としても、秘書官という立場上ルトヴィアスにアデライン以外の同伴者をあてがおうとはしているが、きっと心を痛めていることだろう。

オーリオにとってアデラインは従妹であり教え子であり、そして特別な存在なのだから。

アデラインが傷つくことは、オーリオにとっても本意ではないはずだ。

「始めの一曲」

ルトヴィアスは苛立ちをあらわに、前髪を掻き上げた。

「それだけだ。一曲目をその女と踊ったら、俺は椅子から一歩も立たないぞ」

「十分です。ですがご令嬢が怯えないように、猫はかぶっていてくださいね」

「くそ……面倒だな……」

舌打ちして眉をひそめる。

その脇で、ルトヴィアスが床に叩きつけた外套を、若い侍官がそっと拾い上げた。

「……悪かった」

侍官達が細心の注意を払って管理している衣装だ。腹立ち紛れとはいえ、ルトヴィアスが無下にしていいものではない。

ルトヴィアスの謝罪に、侍官は驚いたように顔を上げる。

「あ、いえ……あの」

思い切ったように、侍官は言った。

「な、何か飲み物でもお持ちしましょうか?」

不機嫌顔のルトヴィアスに声をかけるのは、おそらく相当な勇気がいっただろう。

ルトヴィアスは少し迷い、けれど、首を振った。

「いや。もう休むから、下がってくれていい」

「かしこまりました。何かありましたら、お呼びください」

ニコリと笑って、侍官は下がっていく。

それに伴いオーリオや、他の召使い達も部屋から出て行った。

一人になり、ルトヴィアスは息をつく。

――……疲れたな……。

ようやく立太子式を終えることができたが、祝賀行事という名の拷問は明日以降もまだまだ続く。

いつもなら疲れているのは自分だけではないと己を叱咤するところだが、体力の底が見えている一日の最後に予想外の精神的なダメージを受けて、ルトヴィアスは長椅子に落ちるようにして座り込む。

『平気よ』

そんな、空耳が聞こえる。

――……平気、か。

目を閉じたら、そのまま眠ってしまいそうなほどに疲れていた。

だから、きっとこんなしょうもないことを考えてしまうのだ。

――……アデラインは、俺なんかのどこが好きなんだろう。


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