第四十四話 女騎士
「デオ隠れて!」
「え!?」
暗い廊下に歩くルトヴィアスの姿が見えて、アデラインは手前の柱の影にデオを押し込み、続いて自らも身を隠した。そっと窺うと、伴っているのはオーリオだけで、護衛の騎士も、侍官も、一人も連れていない。二人はアデラインとデオに気づくことなく、角を曲がって行ってしまった。
「お嬢様?何故隠れるんです?オーリオ様に御用があったのでは?」
「……そうなんだけど……」
怪訝な顔のデオに、アデラインははっきりとした答えを返せなかった。
――…今日はきっと戻った方がいいわね。
オーリオに話があって彼を訪ねたかったのだが、どうやら忙しそうだし、オーリオに話したいのはルトヴィアスに聞かれるのは避けたい類の話だ。
「……やっぱりいいわ。戻りましょう」
「はい……誰か来ます」
踵を返そうとしたアデラインを、足音に気づいたデオが引き止める。二人は慌ててまた同じ柱の影に隠れ、様子を窺う。
――…オーリオ?
オーリオは一人でまた、廊下の奥に歩いて行ってしまった。
――…オーリオだけ?ルトは?
あの角の先には、オーリオや秘書官達が雑用のために使う空き部屋しかないはずだ。オーリオはよくそこで書類整理をしていて、アデラインは何度か彼と話がしたくて訪ねたことがある。アデラインが行こうとしていたのも、その部屋だ。オーリオだけが戻ったということは、ルトヴィアスは部屋で一人待っているのだろうか。
――…何を?――…誰を、待っているの?
不安が頭をもたげる。デオが小声で尋ねてきた。
「……お嬢様、どうしますか?」
「……」
確かめにいくか、どうするか。迷うアデラインの耳に、また足音が響いた。今度は二人分の。息を殺し、ドレスの衣擦れの音にまで注意して、アデラインは影から誰が来たのかを窺った。
オーリオは、女性を連れていた。
――…誰?
女性は薄い灰色の外套を頭からかぶっていて、顔が見えない。
――…女官ではないわよね…なら、一体…。
オーリオが角を曲がり、女性もそれに続く。その瞬間、外套が揺れて、かすかに顔が見えた。
青いほどに白い顔。頬にかかる黒髪。
「…………」
「……あの人…確か昼間回廊で……お嬢様?」
アデラインの様子がおかしいと気づいたのか、デオが心配そうに覗いてくる。
「……行きましょう」
力がぬけそうな足を引きずって、アデラインは逃げ出した。
「誕生日おめでとう」
朝、アデラインの部屋を訪ねてきたルトヴィアスは、部屋に入るなり、おはようの挨拶さえ抜きでそう言った。まだ着替えたばかりで、髪に櫛さえ通していないアデラインは、俯き加減で礼を言う。
「あ…ありがとう…」
今日、アデラインは18才になった。ちょうど10年前のこの日、王宮からの使者が、王子妃内定の報せと求婚の品である靴を、アデラインに手渡した。戦争をはじめ、様々なことがありながらも、今こうしてルトヴィアスの傍らに立っていられるのは女神の御慈悲なのかもしれない。
「今夜の約束覚えてるか?」
「勿論…でも…」
口ごもるアデラインに、ルトヴィアスは首を傾げた。
「どうかしたか?」
「…ううん、何でもないの…」
アデラインは、やんわりと笑って誤魔化す。ルトヴィアスも追求してはこなかった。
「……」
「……」
双方、次の言葉が出てこない。訪れた沈黙は、世界の終末の再来とまではいかないが居心地が悪い。変な緊張に、アデラインの手に汗がにじんだ。
「…あー……あのな…」
ルトヴィアスが、手を額にあてる。
「…話しておきたいことがあるんだ…」
「………っ」
こくりと、アデラインは息を飲んだ。彼が、何を言おうとしているのか、わかる気がした。そしてそれは、アデラインが聞きたくない話に違いない。
「…あのな、アデライン…」
「今日!頑張ってね!」
耐えきれず、アデラインは強引にルトヴィアスの話の腰を折った。無理矢理作った笑顔は、不自然極まりないと自覚はあったが、他にどんな表情をすればいいというのだ。ルトヴィアスは、困ったように眉を寄せた。
「…アデライン、話が…」
「女官達みんな、貴方を応援するって言ってるわ!勿論、私も応援するわね!」
「………」
「………」
ルトヴィアスの顔を直視できず、アデラインは俯いた。再び訪れた沈黙の出口を探すが、どうしても見つからない。
「……はぁ…」
ルトヴィアスの深い溜め息が聞こえ、アデラインは肩を揺らす。
「…そうだな。まぁ、恥をかかない程度にやるさ」
そう言う彼は、小さく笑った。
「…そんなこと言って」
アデラインも、小さく笑った。
――…よかった…。
聞かずにすんだ。こんなことをしたところで、意味はないことは分かってる。どんなに嫌でも、いずれ必ずルトヴィアスの話を聞かなければならない。
「じゃあ、また後で」
「え?ま、待って!」
出ていこうとするルトヴィアスを、アデラインは引き止めた。
「朝食は?」
アデラインが王宮にいる時は、ルトヴィアスと一緒に食事をとるのがもはや習慣化している。今朝もアデラインはそのつもりでいたし、ルトヴィアスの訪れもその為だと思っていた。それにしては、随分と時間が早いとは思っていたが。
「いや、準備があるんだ」
腰に下がる矢筒をルトヴィアスが振ると、ジャラリと鳴った。弓技会が始まるまでまだ時間はあるが、射手には色々とやることがあるのだろう。
「…そう…」
仕方がないことなのに、どうしてかアデラインは気分が沈む。肩を落とすアデラインの髪を、ルトヴィアスの指が一房絡めとった。
「…ルト」
アデラインが見上げると、耳のすぐ上の生え際に、一つ、口づけが降ってくる。
「…行ってくる」
アデラインを蕩かすような、甘い声だった。アデラインを見る目も、髪を触る指も、口づけも、すべてがアデラインを甘やかす。でもアデラインは、その甘さに溺れることが出来なかった。
王宮前の広場は華やかな天幕で囲われ、各国の王族や大使が大傘の下で、弓技会の選手達の入場を、今か今かと待っていた。弓技会は、8本を1組として計16本の矢を、吊るされた的に射かける。当たった数を競い、当たりが多ければ多いほど良いとされる単純なものだ。ルードサクシードでは、初代国王である聖サクシードが弓の名手であったことから弓技が盛んで、民間でも度々弓技会が行われている。しかし、国王主催の弓技会は出場する選手の人数や技術も段違いだ。応援席の貴族達も皆興奮を隠せず、馬に乗って選手達が姿を現すと、大きな拍手と歓声でもって迎えた。
まず下位の騎士から順に射始める。
馬から降り、白と濃緑の正装に身を包んだ騎士達は、皆一様に緊張した面持ちだった。国王が臨席する弓技会なのだから、それも無理はない。しかも矢が当たれば歓声が沸き、はずれれば落胆のため息が会場を包む。射手にしてみれば、たまったものではないだろう。
そんな中、昨日緊張していることを否定しなかったライルは、その割には落ち着いて一巡目の8本の矢を射終えた。5本が中り、まずまずの成績だ。二巡目の成績によっては上位に食い込めるかもしれない。第三部隊が観戦するだろうあたりの応援席からは『つまらん』『かわいくねえぞ』『鉄面皮』などと、まさかの野次が飛ぶ。彼らなりの同僚への労いなのだろうが、ライルが何食わぬ顔で予備の一本の矢を部隊にむかって射かけたので、アデラインは一瞬ひやっとした。だが、ほどなく『殺す気か!』『あたったらどうすんだ』『減給減給!』など、より大きな野次が上がり、他の客席からも笑い声が上がったので、アデラインも安堵して笑ってしまった。勿論、あてるつもりはなかったのだろうが、あまり驚かせないで欲しいものだ。
「アデライン嬢」
宰相と宰相夫人と並んで観戦していたアデラインは、王に呼ばれて立ち上がった。
「はい。陛下」
「こちらに」
「…ですが」
リヒャイルドが示したのは、王のすぐ隣の場所だ。宰相やアデラインがいた席からは一段高く、本来ならルトヴィアスの席がある場所だが、今日、彼はそこにはいない。とはいえ、まだ婚約者にすぎない自分がそんな上座に行ってよいのだろうかと、アデラインは戸惑った。けれどリヒャイルドは穏やかに笑って、頷く。
「かまわないよ。もうすぐルトヴィアスの番だろう?こちらの方がよく見える」
リヒャイルドの目配せで、侍官がアデラインの椅子を移動させた。それでもアデラインが躊躇していると、宰相から促された。
「お言葉に甘えさせて頂きなさい」
「…では…」
恐縮しながらも、アデラインは上座に移った。リヒャイルドの言う通り、その席からはよく会場が見渡せる。
「あの子の射を見たことがあるかい?」
「いいえ、陛下」
アデラインは首を振る。
「親馬鹿だと思われるかもしれないが、とても見事だよ。こないだ内宮の習練場で見かけてね」
リヒャイルドは嬉しそうに目を細めた。
「私に気づいて嫌そうな顔をしたが、でも止めずに見せてくれた」
「そうでしたか」
アデラインも微笑む。ルトヴィアスが嫌がったのは、おそらく照れ隠しだ。彼のことだから『二十歳にもなって…』というところだろう。けれどリヒャイルドとの関係をこじらせていたルトヴィアスが、父親とそんな時間をもっていたとは意外だ。
「子供の頃も上手かったが…一段と良くなっていた」
「きっとたくさん鍛練されたのでしょうね」
皇国に剣を持つことを禁じられていたルトヴィアスだが、弓技の修練は許されていたそうだ。弓は持ち歩けばどうしても目立つ。いくらなんでもこれで皇帝暗殺は目論むまいと、皇国の議会は思ったのかもしれない。
今回の弓技会に出ることが決まってから、ルトヴィアスは時折習練場に通っていたようで、女官達はそれを物陰から密かに見物しては、麗しい姿に溜息をついているらしい。アデラインも見たかったのだが、立場を考えると女官達に紛れて盗み見るわけにもいかず、噂だけを伝え聞いている。
「………」
剣を…持つことは本当になかったのだろうか。
ルトヴィアスの恋人だったという女騎士は、長剣を自在に操ったという。ルトヴィアスが、彼女から密かに剣の扱いを教えてもらうこともあったかもしれない。
若い騎士が射った最後の矢が的からはずれ、落胆の声が会場のあちこちからあがった。健闘を讃える拍手の中、騎士達が退場していく。皇国の大使達がいる日除けの大傘の下、大使の後ろに、長い黒髪を綺麗に編み込んだ女性が見えた。
――…ビアンカ様…。
ビアンカは他の官吏に隠れるように座っている。
昨夜、アデラインはなかなか寝付けず、色々と考えなくていいことまで考えてしまった。ルトヴィアスとビアンカに感じた奇妙な違和感。あれは、彼らが芝居をしていたからではないか。本当は初対面ではないのに、初対面のふりをしたのではないか、と。
では、何故そんな芝居をするのか。皇国で面識があったのなら、再会の挨拶をすればそれですむ。なのに初対面のふりをしたのは、面識があることを隠したいからだ。何故隠したいのか。理由は一つだ。
――…ビアンカ様が…女騎士、だから…。
まさか、と思った。婚礼前のこの時期に、使節団に花婿のかつての恋人を紛れ込ませるなど、賢明な皇国の大使が許すだろうか。下手をすれば外交問題に発展する。
――…それに、ビアンカ様は騎士には見えないわ…。
ビアンカは女性である割には長身であるが、腕はほっそりしており、重い長剣を扱えるとはとても思えない。
――…考えすぎよ。
けれど気になって気になって、アデラインは寝台を抜け出した。
夜番だったデオについてきてもらい、夜着の上に薄い羽織物だけ身に付けて、裸足で王宮の廊下を走った。オーリオなら何か知っているのではないかと、彼がよく使う部屋に向かい、そして、見てしまった。同じ部屋に入っていくルトヴィアスとビアンカを。
わぁっと、大きな歓声に、アデラインは瞼をあけて顔をあげた。一巡目の最後の組が入場してきたのだ。中には、黒い馬に乗ったルトヴィアスもいる。
「ルト…」
アデラインの呟きが聞こえたかのように、ルトヴィアスがこちらを見上げた。
目が合い、碧の瞳が微笑み――…通りすぎた。心臓が、鷲掴みされたようにギュと痛んだ。
嬉しいのか悲しいのか、それともその両方なのかわからない。
朝、ルトヴィアスがアデラインに言おうとしたのは、ビアンカのことだったのかもしれない。ビアンカは自分のかつての恋人だと、アデラインに誠実であろうとする彼なら打ち明けようとするだろう。でも、それは本当に『かつて』なのだろうか。
実は隠れてやりとりを続けており、ビアンカが使節団としてルードサクシードを訪れたのは、ルトヴィアスが呼び寄せたからなのではないか。そして昨夜、オーリオに手引きさせて会瀬を…。
――…そんなはずない!
嫌な考えを、アデラインは必死に打ち消した。
――…ルトは…ルトはそんなことする人じゃないわ。
ルトヴィアスは、アデライン一人が妃だと言った。それはアデラインに対する義務感や罪悪感や、そしてきっと憐れみのためだろう。だとしても、言葉を覆す人ではない。かつての恋人をどんなに想っていても、ルトヴィアスは決して彼女を側室に迎えないだろう。目の前にその恋人があらわれたとしても、心を凍らして通りすぎてしまうかもしれない。
――…そんな人だから…ルトがそんな人だから、だから私が心を汲んであげなきゃ。
アデラインは、膝の上で両手を堅く握りしめた。
ルトヴィアス達射手は馬から降りると、各々の立ち位置で矢をつがえ始める。
――…ルト…。
アデラインは息を殺して、ルトヴィアスを見つめた。
ギリギリと、ルトヴィアスの弓がしなる音が聞こえる気がする。的を指差すように伸びる腕。矢と弦を引き絞る指が、見た目に反して力強いことをアデラインは知っている。
的を狙い定めたまま、時間が止まったように動かないルトヴィアスの横顔は、息を飲むほど美しく、静かだった。その静寂に、皇国で黙々と一人、弓の鍛練をするルトヴィアスの過去が見える気がした。気を許せる相手もいなかっただろう人質生活。ルトヴィアスにとって、恋をした女騎士は、どんな存在だったのだろう。
『救いが、なかったわけじゃない』。
ルトヴィアスの呟きが、耳に甦る。ビアンカの背中を、アデラインはもう一度盗み見た。
――…『救い』…。
太鼓の合図で、一斉に矢が射られ、今日一番の歓声があがる。
「…中った!」
思わず、アデラインは立ち上がった。ルトヴィアスの射った矢は、的の真ん中を射抜いている。宰相や宰相夫人も手を叩く。
「お見事!」
「凄いわね!真ん中よ!…ほら、次を射るわ」
ルトヴィアスの射る矢は、吸い込まれるようにして、次々と的に中る。
「これは…困ったね…。決勝戦は必要なくなるかもしれないな…」
口ではそう言いながら、リヒャイルドの顔は嬉しそうに綻んでいる。確かに、このままではルトヴィアスが間違いなく優勝だ。
「…あれは…?」
妙なところに、妙な人物を見て、アデラインは首を傾げた。入場口の脇に、男が一人立っているのだ。見覚えがある。名前も所属も知らないが、先程ライルの後ろで射っていた射手だ。二巡目はまだのはずだが、矢をつがえた弓を、足元にむけている。
「…お父様。おかしいわ…あの射手…」
射手から目をそらさずに、アデラインは背後の父親に訴えた。その時、射手が弓をかまえた。矢が狙う先には…。
「…っルト―――ッッ!」
声の限りに、アデラインは叫んだ。歓声の中でかき消されてしまうかに思えた声は、けれど奇跡的に届いたようで、下を向いて矢をつがえていたルトヴィアスが顔を上げる。その瞬間、ルトヴィアスのまさに目と鼻の先を、閃光のように矢が走った。
「うわああっ!」
矢はルトヴィアスの隣の射手の足を貫き、鮮血が吹き出る。
「キャアアアアアア!」
けたたましい悲鳴で、会場は一気に大混乱に陥った。ルトヴィアスを狙った射手は、矢がはずれたのを見るやいなや、服の中から短刀を取り出し走り出した。
「ルトヴィアス!!」
リヒャイルドが、真っ青になって立ち上がる。今にも駆け出しかねない主君に、宰相が慌てて追いすがった。
「なりません陛下!お体に障ります!」
「何を言う!我が子が殺されかけているのだぞ!」
「なりません!誰か!陛下を奥へ!アデライン!そなたも来なさい!」
「でも…っ」
逃げ惑う人々の中、アデラインはルトヴィアスの元へ行くこともかなわない。だからと言って、自分だけ安全な場所に避難しようとは思えなかった。見ると、先程の男は短刀を振りかざし、ルトヴィアスに襲いかかろうとしている。
「ルト!」
アデラインは叫んだ。
ルトヴィアスは素早く弓をひき、矢を放つ。矢は男の肩を貫き、男は顔を歪めてその場に膝をついた。
「殿下をお守りするんだ!」
「その男を捕らえろ!」
騎士達が叫び、駆け出していく。それを見て、アデラインはほっと胸を撫で下ろす。もう心配ない。騎士達がルトヴィアスを守ってくれる。けれど、ルトヴィアスの背後に、侍官の制服を着た男が見えた。それにいまだ気がつかないルトヴィアスの背中をめがけて、男は手に短刀をかまえ突進していく。
「いやあっ!ルト!」
見ていられず、アデラインは思わず手で目を覆う。ルトヴィアスが刺されてしまったと思った。意識が遠のきかけ、足から崩れ落ちるアデラインを、後ろから誰かが支えてくれる。
「お嬢様!」
「デオ…デオ、ルトが…」
「大丈夫です!ご無事です!」
デオの言葉に、アデラインは恐る恐る手を下ろす。土埃の中、ルトヴィアスの背中を守るように、人が一人立っていた。
「……ビアンカ…様…?」
彼女がかぶっていたはずの花帽は、どこにも見当たらない。黒髪と蒼いドレスが、風に流れて揺れる。ビアンカの白く細い指は、長い剣の柄を握りしめ、赤く血濡れていた。そして、その足元には、侍官の制服を着た男が血を流して倒れている。
「…くそぉっ!」
肩に矢をうけ膝をついた男が、力任せに自らの肩から矢を引き抜き、立ち上がった。ビアンカからはそれが見えていないはずなのに、彼女は舞うようにヒラリと身を翻し、長剣を男の胸に――…。
「殺すなビビ!」
ルトヴィアスが、叫んだのが聞こえた。悲鳴や怒号の飛び交う中、何故かその声は鮮明にアデラインの耳に響き、そして胸を引き裂いた。
――…『ビビ』…
記憶の引き出しの、どの場所にその名前が仕舞われていたか、アデラインはすぐに探しあてた。
ひよこ豆のスープ。
軋む厩舎の扉。
俯くルトヴィアスの唇から、切なく零れた音。
『ビビ』と。
――…ああ…。
アデラインは、今度こそ足から崩れ落ちた。
「お嬢様!?どうされたんです!?」
デオが慌てて、傍らに膝をつく。
「お嬢様?大丈夫ですか?お嬢様!」
「………」
――…やっぱり…。
予感は、これだったのだ。ルトヴィアスとビアンカを、会わせてはいけない予感。
『語学力に優れた』『美しい』『細腕で長剣を操る女騎士』。
――…やっぱりビアンカ様は……。
『ビビ』。
彼女は、ルトヴィアスが愛した女騎士だ。




