第四十話 夜
夕食後の慌ただしさが落ち着いた王宮は、静けさに包まれていた。
アデラインが王宮に賜っている私室に、ルトヴィアスが現れたのは夜もふけてからだ。
園遊会が終わってすぐに、アデラインは一度ルトヴィアスの執務室に行ったのだが、立て込んでいたためルトヴィアスには会うことが出来なかった。そのまま夜になり、今日はもう会えないものと思っていたところへ、つい先程、扉が叩かれたのだ。
「お嬢様!お待ちください!」
訪問者が誰かわかるや、ミレーが止めるのも聞かず、アデラインは扉に駆け寄った。夜更けに自室に男性を招き入れるなど、それが婚約者であっても褒められたことではない。けれどその時、アデラインの頭から慎みなど吹き飛んでいた。
「ルト!」
「…っ!」
自ら扉を開けたアデラインに、ルトヴィアスも、その後ろに控えていた侍官達も、驚いて固まっている。
「聞きたいことがあるの!ハーデヴィヒ様のことなんだけど…っ」
彼女の家が領地を没収になったことが、アデラインは気になっていた。
まさかとは思うが、あの夕食会のせいでそうなってしまったのだろうか。それとも、アデラインと同じ色のドレスを着ていたことが、ルトヴィアスの耳に入ったのか。
「もし私のせいでそうなったのなら…」
「…お前…自覚しろとあれほど…」
「え?」
ルトヴィアスは低く唸るように呟くと、アデラインの肩を掴み部屋に押し込んだ。そして後ろにいた侍官達ににっこりと微笑む。
「今見た光景は忘れるように」
「…は…」
侍官達が、やや青くなって頭を下げると、ルトヴィアスはその手で扉を乱暴に閉めた。そんなに乱暴に閉めては蝶番が取れてしまう。一体、何をそんなにルトヴィアスは怒っているのだ。それに『忘れろ』とは、いったいどういう…。
――……あ…。
アデラインはようやく、自らの姿を思い出した。湯から上がったばかりで、髪は濡れ、夜着1枚しか身に付けていない。しかも夏用の夜着は、薄く頼りなく、体の線がぼんやり透ける。
「…っ」
羞恥心による悲鳴は何とか飲み込んだが、ひどい目眩で目の前がチカチカする。顔から火がでるとは、こういうことだ。アデラインが肩を抱き身を縮ませると、ルトヴィアスは無言で外套留めの紐をむしるように解き、アデラインの首から体にかけてそれを巻き付けてくれた。
「あ、ありがとう…」
アデラインは小さな声で感謝し、外套を胸の前で掻き合わせた。そうするとルトヴィアスの香りが漂い、アデラインの羞恥心をさらに煽る。
「ですからお止め申しましたのに!」
ミレーに責められ、アデラインは項垂れるしかない。
「待っていますから、何か上に羽織ってきてください。いくら夏でもそのままでは体が冷えてしまいますよ」
穏やかに窘めるルトヴィアスは、もういつものように完璧な猫をかぶっている。さきほど低く唸った姿は、もうどこにも見当たらない。
「さぁ、お嬢様」
アデラインはミレーに促されるままに大人しく隣室に戻った。
――…信じられない。私…。
自分ときたら何て軽率なことをしたのだろう。王妃になる身で、という以前に成人女性として大失態だ。こんなことでは、ルトヴィアスに相応しい妃になるなど、夢のまた夢だ。
――…きっと呆れたでしょうね…。
アデラインは、しょんぼりと肩を落とした。
「ご用がございましたらお呼びくださいませ」
軽く膝を折って礼をとり、ミレーや手伝いに来てくれていた女官が部屋から出ていった。
水分を出来るだけ拭き取った髪を右耳の下で一つにまとめ、アデラインは火のない暖炉の前に座って待っているルトヴィアスの前におずおずと出ていく。勿論、丈の長い上着を身に付けて。
「…あの…ごめんなさい…」
「…いや…非常識な時間に来た俺が悪かった」
目を、なかなか合わせられない。
気まずい空気にアデラインが立ち往生していると、不意にルトヴィアスが立ち上がった。
「…ルト?」
ルトヴィアスは部屋を横切り、湯を使う専用の部屋に入ると、備えられた綿布を数枚持って出てきた。
「座れ」
「え?」
「いいから」
肩を上から押さえつけられるように、アデラインは強引に長椅子に座らされる。その後ろに自らも腰を下ろすと、ルトヴィアスは綿布でアデラインの髪を拭き始めた。
「ルト!?」
アデラインは仰天して振り向こうとしたが、頭を押さえられて叶わない。
「花嫁に風邪ひかせるわけにはいかないだろ」
「じ、自分で…」
「じっとしてろ」
「でも…っ」
「してろ」
「…はい…」
王子殿下に女官の真似事をさせるなど、何と畏れ多いことだろう。ルトヴィアスの身分を差し置いたとしても、意中の人に髪を拭かれて平然としていられるわけがない。
布ごしにルトヴィアスの指を感じ、緊張に体を強張らせていたアデラインだが、徐々に体から力がぬけていった。丁寧で優しい拭き様に、彼の性格が表れているようで、アデラインは密かに頬を暖める。
「…ハーデヴィヒのことは…お前は関係ない」
「え?」
「お前を侮辱した罰として、あの女の家から俺が領地を没収したと思ったか?」
「あ…」
廊下に飛び出たアデラインの話を、ちゃんとルトヴィアスは聞いていたようだ。
「公私の別くらいは俺もわきまえてる」
「そ、そうよね。ごめんなさい…」
当たり前だ。ルトヴィアスが公私混同などするはずはない。けれど思ってしまったのだ。ルトヴィアスがアデラインの為に、ハーデヴィヒに罰をくだしたのでは、と。もしそうだとして、全く嬉しくない訳ではないが、やはり複雑な気持ちが勝る。そうでなくてよかった、とアデラインは胸を撫で下ろした。ところがその矢先に、ルトヴィアスが不穏なことを口走り始めたのだ。
「…正直言えば。あの夕食会でのあの女の態度も、お前と同じ色のドレスを着たことも、俺は徹底的に追及したい」
「ド、ドレスのこと知って…?」
「夕食会の次の日に騎士に問い詰めた」
「…っ」
言わないでと言ったのに、と名も知らぬ騎士をアデラインは恨んだ。けれど王子に言えと言われれば、王家に忠誠を誓う騎士としては言わざるを得ないだろう。恨んでも仕方ない。
「領地没収なんて生ぬるい。全財産没収・国外追放くらいはしてやりたかった」
「ル、ルト!?」
彼がどんな顔をしているか見えないが、声が低い。本気だ。
けれどその声から、すっと怒気が抜けた。
「でもお前は望まないだろう?」
「…」
驚いて、アデラインは振り返る。
アデラインのその動きをルトヴィアスは止めなかった。髪を乾かす手を止めて、彼はアデラインの目線を迎えてくれた。
――…どうして…。
ハーデヴィヒを罰することをアデラインが望まないと、何故ルトヴィアスは分かるのだろう。
いつの間に、この碧の瞳はアデラインの心を見透かすようになったのだろう。
ルトヴィアスへの想いまで見透かされてしまったらと思うと、目を合わせるのが恐ろしくなり、アデラインは俯いた。
ルトヴィアスはそれを咎めるふうでもなく、淡々と話を続けた。
「だから…お前に関する件で、俺はあの女に罰をあたえたりは一切していない。お前が罰したいと思えば、お前がやればいい。もし俺の力が必要なら勿論いくらでも貸す。あの女の家から領地を没収したのは、単純にあの女の父親が色々とやらかしていたから、マルセリオに相談した上で相応の罰をあたえたまでだ」
再び綿布を手に、ルトヴィアスはアデラインの髪を拭き始める。アデラインも大人しく下を向いた。
「…そう…なの」
「とは言え、お前がきっと自分のせいだと考えるんじゃないかと思うと、話しにくくて話しそびれてた。悪かったな」
「ううん…」
「…少し、騒ぎがあったと聞いた。すまなかった。やっぱり一人で行かせるんじゃなかった…」
後悔が滲む声に、アデラインは慌てて顔を上げる。彼が謝ることなんて何もない。『誰かに何か言われても、何も気にするな』というルトヴィアスの言葉があったからこそ、アデラインは胸を張って堂々とあの場所でいられたのだ。むしろ心配させてしまい、アデラインの方が心苦しいくらいだ。
「だ、大丈夫よ。リオハーシュ夫人もいてくれたし…それにお友達も出来たの!」
ルトヴィアスは手を止めて、かすかに眉をひそめる。
「友達?」
「あ、でも友達だと思ってるのは私だけかもしれないけど…」
「…一応確認するが、女だよな?」
「そうよ?何故?」
「…べつに。それならいい」
どこか憮然と応えるルトヴィアスを、アデラインは不思議に思ったが気にしないことにした。ビアンカとのお喋りはとても楽しかった。それをルトヴィアスに聞いて欲しい気持ちが勝ったのだ。
「皇国の通訳官の方で…私より2才年上でとても綺麗な方なの。ルードサクシード出身のご友人から言葉を教わったんですって。日常会話くらいしかわからないから不安だって仰ってたけど、とても流暢にお話されてたわ」
「ああ、そういえば確か…」
ルトヴィアスが、少しだけ考え込んだ。
「いつもの通訳官が急病とかで、直前に一人変更したと知らせが来てたな」
「まぁ、そうなの?」
ビアンカは正式な通訳官ではないということだろうか。では普段は何をしているのだろう。あれだけ美しくて教養もあれば、皇族付きの女官も務まるはずだ。
「とても博識な方でね。肖像画の間をご案内したんだけど、ルードサクシードの歴史もよくご存じで…」
ビアンカとどんな話をしたか、それがどんなに楽しかったか、アデラインが夢中になって話すのを、ルトヴィアスは時々相槌を打ちながら熱心に聞いてくれた。それがまた嬉しくてアデラインは話続けたが、やがてルトヴィアスが喪服を着ていることを思い出した。
「ごめんなさい。私…自分のことばっかり…」
ルトヴィアスは一日中、叔母の死の事後処理に追われていたというのに、それをいたわりもせず、しかも髪まで拭かせて。
ルトヴィアスは、軽く首を振って笑った。
「お前の話を聞きにここに来たんだ。変な気を回すな」
「リルハーゼルの件はもう大丈夫なの?」
「ああ。俺が出来ることは終わりだな。明日からはお前のエスコート役に戻る」
「じゃあ昼食会にも一緒にでれる?」
明日の昼、皇国との親善を目的とした昼食会があるのだ。通訳官のビアンカもそこに来るだろう。ルトヴィアスは頷いた。
「ああ。お前の新しい友人を紹介してくれるか?」
ええ、とアデラインは笑って応えようとした。けれど、突然喉に声が詰まった。
「……」
「アデライン?」
「…あ、ごめんなさい。ええ紹介するわね」
ドクドクと、心臓が不穏な音を奏で始める。
――…明日…。
明日の昼食会。ルトヴィアスとビアンカを会わせることに、アデラインは急に不安を覚えた。
ルトヴィアスが3年前別れた恋人は、剣を操る活動的な女性だった。ほっそりとしたビアンカが厳つい剣を持つ姿は想像出来ないが、凛としたあの佇まいは、ルトヴィアスが好ましいと感じる女性の部類に通じる気がする。あんな素晴らしい女性なのだ。ルトヴィアスが心を奪われないとは言いきれない。側室にと、乞い求めるかもしれない。
――……ビアンカ様なら…。
彼女のように美しければ、ルトヴィアスの隣に立ってもきっと釣り合いがとれるし、彼女のように賢ければ、きっと察しが悪くてルトヴィアスを苛立たせることもないだろう。
二人が並ぶ姿を想像し、アデラインは恐怖に固まった。なんてお似合いなのだろう。
「アデライン?どうした?」
言葉を失うアデラインに、ルトヴィアスが訝しげに尋ねた。
「…ルト…」
至近距離で、視線が絡まる。
「どうした?」
「…あの…」
「ん?」
「………」
不安はみるみる膨れ上がり、アデラインの心を覆い尽くした。
何と、言えばいいのだろう。
――…『昼食会に行かないで』?『ビアンカを好きにならないで』?
それは、間違いなく独占欲だ。独占欲で夫の行動を――しかも公的な行事への出席を制限するなど、妃がしてはならない最もたることだ。
それもまだ出会ってもいない二人の仲を疑ってそうするなんて、馬鹿げているにもほどがある。
「何か心配事があるのか?」
「…どうしてわかるの?」
尋ねてから、アデラインは手で自分の顔に触れる。
「…出てた?」
「出てたな」
碧の目が、優しい木漏れ日の色に変わる。
その奥に隠れる熱を感じて、アデラインの胸は震えた。
瞳に導かれて、ゆっくりと唇が重なる。
目を閉じると、触れた唇や、指の感触をより感じられた。
――…『お嬢様を見るルトヴィアス殿下の目を見て、何も気づかれませんか?』
何も感じていないわけではない。感じていたわけではないが…。
――…そんなはずない…。
自分は美しくもなく、賢くもない。気弱で陰気で、自分でさえ嫌になるのに、そんな自分を、ルトヴィアスが好んで選ぶはずがない。変な期待をしてはいけない。期待して、後からやっぱり勘違いだったと傷つくのは嫌だ。
ルトヴィアスが愛するのは、きっと、ビアンカのような美しくて賢い女性だ。ビアンカこそが相応しい。
――…私なんて…。
そんなことを言えば、きっとまたルトヴィアスに鼻をつままれる。けれど思わずにはいられなかった。ビアンカは、アデラインの理想だ。あんな女性に、アデラインはずっとなりたかった。
「…アデライン」
かすれ気味な低い声に名前を呼ばれ、アデラインは瞼をひらいた。
碧の目が燭台の火に照らされ、赤い光を反射する。どこか獰猛なその光さえ、何て綺麗なのだろう。
ルトヴィアスが丹念に拭いてくれた髪は、しっとりとしてはいたが、余分な水分はもう含んでいない。その髪を掻き分けるように、ルトヴィアスはアデラインの頭を撫でた。
「もう行く。歯止めがきかなくなっても困るしな…」
自嘲気味に、ルトヴィアスがアデラインから体を離す。
「…は、どめ?」
ルトヴィアスでも出来ないことがあるのかと、アデラインは不思議な気がした。というよりは、自分が相手でもそうなってくれるのか、と。
では、今手を伸ばせば、欲しいものが手に入るのではないか。錯覚かもしれない。錯覚だろう。けれどそれを錯覚だと笑い飛ばせない。
昼間、あれほど楽しく談笑したビアンカのことが、今は怖くてたまらなかった。
アデラインが思い描いた理想の自分が、目の前に現れた。そして、『側室』という名の現実が目の前にちらつく。覚悟していたにもかかわらず、胸が押し潰されそうに苦しい。その苦しさから逃れたくて、腰を浮かせたルトヴィアスの袖を、アデラインは必死の思いで掴んだ。
「…アデライン?」
「…もう、少し…」
――…私、何をしているのかしら。
こんなことをして、ビアンカに勝ったことにはならない。アデラインごときがビアンカに対抗するなど、それこそ身の程知らずもいいところだ。
そもそも、どうしてこんなに自分は怯えているのだろう。ルトヴィアスとビアンカは出会ってさえいないのに。何故、これほど二人を引き合わせるのが怖いのだろう。わからない。わからないけれど、胸がざわついた。予感、というのかもしれない。
アデラインは、すがるようにルトヴィアスを見つめる。
「もう少し…いて?」
「…」
ルトヴィアスの表情が揺れた。
心臓の鼓動が、うるさい。
錯覚に決まっている。
それでも、繋ぎ止められるなら、微かにでもその可能性があるなら。
ルトヴィアスが、座り直す。
彼が、迷っているのがわかる。
長い、綺麗な彼の指が、アデラインの頬に触れた。戸惑うように、怖がるように、そっと。
「……奥に行こう」
「……」
返事の代わりに、アデラインはルトヴィアスの首に手を回した。
密やかな衣擦れの音に、アデラインは目を覚ました。
アデラインに背を向け寝台の端に腰掛けたルトヴィアスが、長衣を袖に通している。寝乱れた前髪と対照的な静かな横顔に、アデラインの心臓は跳ねた。
天幕の隙間から見える部屋は、まだ夜と言ってもいいほど薄暗い。竈の火をおこす下働きの女官も、まだ起き出してはいないだろう。
「…ルト」
呼ぶと、ルトヴィアスは首を回し、こちらに向いた。ふわりと、柔らかく笑う。
「悪い。起こしたか?」
「…ううん…」
手をつき、起き上がろうとしたアデラインの肩を、ルトヴィアスが押さえる。
「まだ早い。寝てろ」
「…」
押されるままに、アデラインはまた白い敷布に沈んだ。前髪を、ルトヴィアスの長い指がすいてくれる。その指の心地よさに、アデラインは目を閉じた。
10日、いや、9日後には夫婦になるとはいえ、こんなことが公になれば、やはり眉をひそめる人も多いだろう。人々が起き出す前に、ルトヴィアスは部屋に戻らなくてはならない。アデラインにはそれがわかっていたが、それでも彼を引き止めたかった。
ルトヴィアスの温もりに包まれて眠った幸福感が、そうさせていることは明らかだ。
アデラインの髪をくるくると指に巻き付けて、ルトヴィアスが遊んでいる。
去りがたく思ってそうしているように見えて、自らの自惚れも極まったものだと、アデラインは自嘲した。
「何が楽しい?」
「…何も」
「今笑っただろう?」
「笑ってません」
アデラインは顔を伏せた。
頭上で、ルトヴィアスが呆れたように笑った気配がする。
「明後日…ああ、もう明日か」
「明日?」
アデラインは、敷布から少しだけ顔を覗かせた。明日は、確か弓技の御前大会がある。各国との親善を目的としたもので、ルトヴィアスも出場することになっていた。女官達の話では間違いなくルトヴィアスが一等だという話だ。
「貴方が弓を射るの初めて見るわ」
「…馬鹿言え。弓技大会のことじゃない。忘れてるのか?自分の誕生日を」
「……え?」
アデラインは、驚いて舜たいた。
忘れてなどいない。明日はアデラインの18歳の誕生日だ。けれど、両親が忙しいこともあり、物心ついてからは誕生日だからと何か特別な催しをしたことはないし、その上、今年はルトヴィアスの帰国から立太子、結婚と、国を挙げての大型行事が目白押しだ。花嫁である自分が公務に忙殺されるのは目に見えており、アデラインにとっては自分の誕生日など二の次だった。
けれど何より、ルトヴィアスが自分の誕生日を知っていたことに、アデラインは心底驚いていた。
「忘れて…ないけど…」
「夜、時間とれるか?」
「…祝ってくれるの?」
「大したことは出来ないけどな。渡したいものがある」
「何?」
「秘密だ」
悪戯を隠している子供のように、ルトヴィアスは笑った。その笑いにつられ、アデラインも微笑む。
「…楽しみにしてる」
「ああ」
ルトヴィアスはアデラインの頬を撫でると、屈みこみ、唇を重ねた。二人で一頻り唇の味を分けあう。
「…もう少し眠れ」
「…うん」
アデラインが素直に頷くと、ルトヴィアスはもう一度、軽い口づけをして立ち上がった。そして、天幕の隙間から滑り出ていく。遠ざかる靴音を、アデラインは耳で拾い続けたが、扉が閉まるとともにそれも出来なくなる。
落ちてきた静寂に心細くなり、アデラインは掛布を手繰り寄せた。かすかにルトヴィアスの香りが残っているように感じられて、恋しさに頬を寄せる。目を閉じると、すぐに心地よい睡魔が訪れた。
「あら」
「え?」
「あらあらあら。まぁ」
髪を結ってくれていたはずのミレーが、口元を手で押さえてにやついている。
「な、何?ミレー」
侍女の意味ありげな目線に、アデラインは怯えた。
「ご心配ございませんわ。お嬢様。誰か。ねぇ、白粉をとってくださる?」
ミレーはアデラインに答えることなく、背後で働く女官達に声をかける。いったい何なのかと、アデラインは訝しんだが、心配ないとミレーが言うなら、きっと大丈夫なのだろう。
「…ねぇ、ミレー」
「はい。何でございますか?」
「前、頼んだ件なんだけど…」
「………捜し人の件でございますか?」
鏡の中でミレーの表情が曇るのにかまわず、アデラインは頷いた。
「どうなってるの?見つかった?」
以前、アデラインはミレーに、ルトヴィアスが3年前別れた恋人を探すように頼んでいた。けれどルトヴィアスの恋人は、皇国の騎士団を退団した後、修道院をいくつか転々としたらしい。そのせいでなかなか行方が掴めないようだ。
「…使いの者からはその後連絡がありません。…ですが何故わざわざその方を探すんです?見つかったとして、どうするつもりでございますか?」
「それは勿論、ルトに返してあげるの」
ミレーは目を剥いた。
「側室に召し上げるおつもりで?」
「ええ」
「そんな…」
ミレーはその場に膝まずくと、椅子に座っているアデラインを見上げる。
「殿下に側室はとって欲しくないと仰せだったではないですか。ですのに何故…」
「私がルトのために出来ることなんて、それくらいだわ」
「ですが側室なんて…。殿下はお嬢様を大切にして下さっているのに。何故ご自分で水をさすようなことをなさるのです?」
「…水は、私よ。ミレー」
ミレーは顔を歪めた。
「…殿下がお嬢様を大切にしてくださる。お嬢様も、殿下をお慕いしている。それでいいではないですか。何故いけないのです?」
「………ミレー。髪を結って。ルトを待たせてしまうわ」
アデラインが急かすと、ミレーはしぶしぶといった体で立ち上がり、アデラインの髪を結い始めた。
――…私ってずるい…、
本当は、ルトヴィアスの恋人が見つからないことに、アデラインは深く安堵していた。
ルトヴィアスが猫をかぶらなくても笑っていられるようにと、彼のために出来ることをしようと決めたのに、結局自分のことばかりだ。
目を閉じれば、夜の暗闇を思い出す。
ルトヴィアスの息づかいがすぐそこで聞こえた。
手を伸ばせば、そこに彼の温もりがあった。
あの感覚を、どうすれば言いあらわせるだろう。きっと、どんな言葉でも出来はしない。
すべてが満たされた気がした。
愛している人に抱き締められることが、これほどの幸せとは。
――…でも…。
考えてみれば3年前、ルトヴィアスはその幸せを失ったのだ。アデラインが奪った。なのに、アデラインだけが幸せを享受していいはずがない。
――…絶対、女神様の罰がくだるわ…。
アデラインは瞼をあけ、鏡の中の自分を見つめた。昨夜、不安を振り払うためにルトヴィアスに手を伸ばしたというのに、結局は不安が増しただけな気がする。
――…しっかりしなさい。アデライン。ビアンカ様や、行方も知れない恋人に嫉妬して不安になるなんて、いるかどうかもわからない魔物を怖がるようなものだわ。
ミレーが、花帽を頭にかぶせた。『花帽』の名前にふさわしく、今日の花帽は花の刺繍を施してある。ルトヴィアスが、以前贈ってくれた金英花の花だ。本当は生花を髪に差したかったが、花の時期がすぎてしまったので、刺繍にしてもらった。あの日贈られた花は押し花にして、添えられた手紙と一緒に大切にとってある。
「お嬢様。お支度が調いました」
アデラインは、背筋を伸ばした。
深く息を吐く。
――…大丈夫。
ルトヴィアスのかつての恋人が、目の前に現れても、この後の昼食会で、ルトヴィアスがビアンカと恋に落ちたとしても、悠然と笑ってみせる。正妃として。それだけが、アデラインがルトヴィアスのそばにい続ける方法だから。




