第三十八話 王子の自制
『そなたが甘い顔をするからルトヴィアスが怠けるのだ!』
アルバカーキはリヒャイルドの背を、鞘で力一杯打った。一度では足らず、肩を、頭を、二度、三度とそれは続く。
幼い孫の目の前だという配慮は、既に祖父の頭の中にはない。
『父上!』
ルトヴィアスは叫んだ。
後悔と恐怖で、涙が止まらない。
――…どうしよう。僕のせいだ。
大塔の上でカラスが集まっているのが気になって、リヒャイルドの天馬で見に上がったのだ。
初めて見た青つぐみの巣は、カラスに襲われて、残った卵はたった一つ。
カラスを追い払って、壊れかけた巣を少しだけ直してやって、そうして地上に降りると、なんて危ないことをと、母のリーナにこっぴどく叱られた。リヒャイルドには理由を聞かれたが、神聖な大塔に鳥の巣があるとわかれば、巣は撤去されてしまうかもしれない。リヒャイルドの天馬に悪いと思いながらも、天馬が勝手に連れていったのだと嘘をついた。
けれど事はそれで収まらなかった。祖父のアルバカーキ王の耳に、事の次第が届いてしまったのだ。
アルバカーキは、ルトヴィアスが危険を犯したことより、予定されていた宗教学の講義をすっぽかした事に怒り狂った。もともと虫の居所が悪かったようで、ルトヴィアスの部屋に入るやいなや怒鳴り散らし、ルトヴィアスを剣の鞘で殴ろうとした。
リヒャイルドが、ルトヴィアスを突き飛ばすようにして庇っていなければ、肩に大怪我を負っていただろう。
アルバカーキの怒りは、そのままリヒャイルドに向けられた。
一切抵抗することなく、リヒャイルドは殴られるままになっている。 口答えでもしようものなら、アルバカーキを更に怒らせてしまうとわかっているのだ。
『マルセリオを呼びなさい‼早く‼』
母のリーナが女官に宰相を呼びに行かせる。怒り狂うアルバカーキを宥められるのは、寵臣のマルセリオしかいない。もともと微熱があったリヒャイルドは、アルバカーキに打たれてよろめき、膝をついた。
『軟弱者め!この程度で膝を折るか!』
アルバカーキは舌打ちすると、容赦なく鞘を振り下ろす。
『父上‼』
父親に駆け寄ろうとしたルトヴィアスを、母が背中から抱いて押さえつける。リヒャイルドが怒鳴った。
『近寄るんじゃない!』
『父上…っ』
『リーナ!ルトヴィアスを連れて下がりなさい!』
ルトヴィアスがリヒャイルドに怒鳴られたのは、これが生まれて初めてだった。 けれど怖いとは思わなかった。 ルトヴィアスが巻き込まれて怪我をしないように――いつも優しい父親の、ルトヴィアスへの配慮は痛いほどルトヴィアスには伝わっていた。
『この私の後を継ぐのが、そなたのような剣も持てぬ男とは…っ!なんと嘆かわしい!』
目は怒りで血走り、白い髪を振り乱す祖父の姿は、魔物と呼ばれるに相応しいほどに恐ろしい。
『恥ずかしくはないのか!忌々しい!』
振り下された鞘についていた飾りで、リヒャイルドの瞼が切れ、血が吹き出した。
ボタボタと絨毯に落ちた血は、黒い染みになっていく。
『父上えっ!』
『マルセリオは!?マルセリオはまだなの!?』
ルトヴィアスを抱き締めるリーナの腕に、力がこもる。女官や侍官は、おろおろと右往左往するばかりだ。
『ルードサクシード王家の面汚しが!』
けたたましい音とともに、ついに鞘にひびがはいり、冷たい刀身がのぞく。アルバカーキはそれに気づいていないのか、かまわず剣を振り上げた。
夢中で、ルトヴィアスは叫ぶ。
『二度と勉強を怠けたりしません!立派な後継ぎになります!だから父上を殺さないで!!』
マルセリオが部屋に飛び込んで来たのは、そのすぐ後だった。
瞬きひとつで、過去の幻影は跡形もなくそこから消えた。血の染みができた絨毯はなく、かわりに大理石が冷たく光っている。
「………」
じわりと、掌に浮かぶ冷や汗を、ルトヴィアスは握りしめた。呼吸を整え、動悸が鎮まるのを待つ。
「殿下?どうかいたしましたか?」
オーリオが近づいてくる。
顔を見られないように、ルトヴィアスは俯いた。表情を取り繕える自信がない。
「何でもない。大丈夫だ」
「…左様ですか」
ルトヴィアスの様子に気づかず、いや、気付かないふりをしてくれたのか、オーリオはまた自身の机へと戻っていく。
チチチ、と青つぐみのさえずりが聞こえて、ルトヴィアスは深呼吸をした。
執務室の窓の外に、青つぐみの巣を見つけた日以来、時折昔のことを思い出す。 思い出して楽しい幼年期でもないので、普段は努めて思い出さないようにしているにも関わらずだ。
少しではあるが、アデラインと祖父の話をしたからだろうか。
――…いや、立太子が近いからだな…。
正式に国を継ぐ者として認められる。
不安はある。緊張も。けれど戸惑いが一番大きい。
――…俺で…本当にいいのか?
ルトヴィアスは熱心な信徒ではないが、それでも、このまま王太子になり王位を継げば、女神の怒りを買うのではないかと怖くなる。
立太子される自分を、死んだアルバカーキが見たとしたら、彼は喜ぶだろうか。手塩にかけて育てた理想的な跡継ぎだ。実際のルトヴィアスがどうであろうと、外側だけならルトヴィアスは立派な王太子に見える。祖父はきっと、上機嫌で葡萄酒の杯を空にしただろう。
では、リヒャイルドはどうか。
あの優しい顔の下で、本当は何を考えて、何を感じているのだろう。
――…父上は本当に何もご存じないのだろうか?
本当に何も気付かずに、ルトヴィアスを守り育ててくれたのだろうか。本当は、すべて知っているのではないか。
――…いや、知っているはずがない。
知っていれば、いくらリヒャイルドでも態度に出るはずだ。けれどリヒャイルドは、ルトヴィアスへの穏やかで優しい態度を崩さない。ルトヴィアスの方が、気後れするほどに。
――…知っているはずがない。
ルトヴィアスは、自らに言い聞かせる。そうすると、少しだけ安心できる気がする。
この自問自答を、ルトヴィアスは幼い頃から繰り返してきた。何度も何度も。父親は『知っているのか』『知らないはずだ』と。
ルトヴィアスは首を振った。
読みかけの書類に向き直り、目で文字を追いかける。
――…もし、父上が『知っていた』のだとしても…。
それでも国をルトヴィアスに譲ろうとするなら、何かしらの意図がリヒャイルドにはあるのだ。
リヒャイルドが、本当のところルトヴィアスをどう思っていたとしても、関係ない。ルトヴィアスはやるべきことをするだけだ。
「少し休憩されてきてはいかがです?」
「…え?」
ルトヴィアスは顔を上げた。
オーリオは机で書き物をしながら、ルトヴィアスを見ようともしない。
「今日かたづけなければならない仕事は終わりました。上が休まなければ、部下も休みづらいですからね」
「………その言葉。そっくりそのままお前に返していいか?」
次席秘書官以下数人が、連日オーリオと共に残業しているのはルトヴィアスも知っている。帰れと言ってやりたいが、ルトヴィアスの政務の調整はオーリオの管轄だ。そのオーリオが部下に仕事を回しているなら、ルトヴィアスが口出ししていいものではない。
羽ペンをとめ、オーリオも顔を上げた。
「こんなに立て込むのは立太子までです。立太子もご婚礼も終わって落ち着いたころに、順番にまとまった休みをとらせるつもりですが、かまいませんね?」
「それは勿論…」
「ですが貴方は基本的に休みはありませんから、休めるときに勝手に休んでください」
オーリオはそう言うと、また下を向いて手を動かし始めた。
「昨日、宰相夫人が離宮からお戻りになりました。今日、アデラインお嬢様とご一緒に王宮に上がられるはずです。ご挨拶に行かれてはどうですか?次席秘書官をお連れください。私はまだやることがございますので」
「……」
ルトヴィアスは呆れながらも、笑ってしまった。オーリオはルトヴィアスを気遣ってくれている。けれど、本人はそれを認めたくもないようだし、ルトヴィアスに知られたくもないらしい。ルトヴィアスも他人の言うことをとやかく言える立場ではないが、面倒くさい男である。
――…まぁ、確かに挨拶に行こうとは思っていたからな…。
ルトヴィアスは立ち上がった。
「わかった。行ってくる」
「…殿下」
「どうした?」
オーリオの机の前で、ルトヴィアスは足を止めた。するとオーリオも立ち上がり、机を回るとルトヴィアスの耳元で声を潜める。
「毒の件ですが」
「何かわかったのか?」
結婚するまでに犯人を見つけるとアデラインと約束したのに、いっこうに手がかりはつかめていない。それどころか毒見係をおいてから、ルトヴィアスの食事にもアデラインの食事にも、ぱったりと毒が混入されることがなくなったのだ。
オーリオは首を振って答えた。
「いいえ、残念ながら何も。…少し考えたんですが、犯人は我々が毒味係を置いたことを知っているのではないでしょうか?だから毒を盛るのをやめた。無駄だからです」
ルトヴィアスは眉をひそめる。
「つまり犯人は俺の周辺事情を知っているということか」
ルトヴィアスの周辺事情を知るのは、オーリオ達のような側近くに仕えている秘書官、専従の護衛騎士、侍官、女官。そして宰相。
――…それから…父上…。
まさか、いや、もしかして…。心がせめぎあうのを、ルトヴィアスはあえて無視した。
侍官や女官の身元はすでに調べているが、特別不審な者はいなかった。逆を言えば怪しいと疑えば、誰もが怪しい状況だ。
オーリオは腕を組み、思案顔で尚も言う。
「または…目的を達成したので、毒を盛る必要はなくなった、とか…」
「…俺は生きてるが?」
「目的は殿下の命ではなく、他のものだったのではと考えてみまして」
「…例えば?」
「…例えば…毒を盛られた際の我々の動きを探っていたとか」
「………」
そんなもの、探ってどうなるのだ。
内心が顔に出ていたらしい。オーリオは珍しく苦笑した。
「私にもわかりませんよ。単純に毒を使うことは諦めただけなのかもしれません。直接的な行動に出る可能性もあります。…油断なさいませんように」
「…わかった」
ルトヴィアスは、頷いた。
アデラインの食事に毒が盛られなくなったことはいいことだ。けれど犯人がつかまらない限り安心は出来ない。何より何故、犯人がアデラインの食事に毒をいれたのか、それが気になった。宰相の言う通り、マルセリオ親子の失墜を狙ってのことだとは、ルトヴィアスには何故か思えない。
オーリオの言う通り、油断は禁物だ。
アデラインの母親である宰相夫人は、王族にも繋がるルードサクシードの名家出身で、実はその昔、アルバカーキ王の側室候補として王宮に上がり、太皇太后付きの女官として働いていたこともある。しかし結局他でもないアルバカーキ王の口添えで、アデラインの父親と結婚したらしい。その際に女官は辞したのだが、もともと難しい性格だった太王太后が老人特有の記憶障害を患い、新しい女官を寄せ付けなくなった。
そこで太王太后のお気に入りだった宰相夫人が、夫とアデラインを王都に残して、離宮で生活する太皇太后に再び仕えることになったのだ。ルトヴィアスとアデラインが婚約する数年前には、既に宰相夫人は離宮に上がっており、娘であるアデラインにとって母親は滅多に会えない人物だ。その母親に会えるとなって、昨日王宮に上がったアデラインは、そわそわして落ち着きがなかった。
特に公務もないのだから帰れとルトヴィアスは言ってやったのだが、アデラインは『でも…』と言葉を濁す。
――…あれは…俺のことを気にしていたんだろうな…。
ルトヴィアスの母親は、既に他界している。会おうにも会えない。アデラインにしてみれば、ルトヴィアスを差し置いて自分だけが…というところなのだろう。
結局昼過ぎに帰って行ったアデラインは、見るからにうきうきしていて、見送ったルトヴィアスは内心吹き出した。
普段なら嫉妬するところだが、ここは引き下がろう。相手は未来の義母だ。
「アデラインお嬢様と宰相夫人は陛下にご挨拶をした後、庭に出たそうです」
アデラインの部屋に先触れに行った侍官が、戻ってきてそう告げた。
「きっと後日の園遊会の確認でしょう」
次席秘書官が言うのに、ルトヴィアスも頷いた。
「おそらくそうですね」
宰相夫人には、立太式と婚礼に集まる各国の賓客を、式が終わるまでもてなす重要な仕事が課せられている。本来なら王族の女性の仕事だが、まさか太王太后にやらせるわけにもいかず、かといってアデラインは式までは宰相令嬢にすぎず、他に適任者がいないため宰相夫人が務めることになったのだ。
回廊を抜けて庭に出ると、日除けの大傘の下に、こちらに背を向けてアデラインと宰相夫人らしい婦人が座っているのを見つけた。
突然あらわれた王子に気づいた様子のミレーや周囲の女官に、ルトヴィアスは唇に指をあてて合図した。
アデラインの驚く顔を見るのも悪くない。
足音を忍ばせて近づくにつれ、二人の話がきこえてくる。
「ルトヴィアス殿下とはうまくいっているようじゃない。離宮まで噂が届いたわ」
「お…お母様…」
アデラインが俯く。 顔は見えないが、きっとまた林檎のような色をしているんだろう。
宰相夫人は笑った。
「きいたわよ。帰国した王子殿下は、花が散る風の中、再会に泣き濡れる貴女にまっすぐに駆け寄って跪き『愛してる。もう離さないよ』と囁くと横抱きにして馬車に…」
「どこの世界の話なの!?」
アデラインが仰天して叫ぶのを見て、ルトヴィアスはつい吹き出してしまった。
「…ルト!?」
アデラインが、振り返るや慌てて立ち上がる。
ルトヴィアスは自らの迂闊さを呪った。
――…しまった…。
まぁ、アデラインの驚く顔が見れたので良しとしよう。
ルトヴィアスは一つ咳き込んで、素早く猫をかぶり直す。そして、にっこりと微笑んだ。
「国境での一件が随分と脚色されているようですね」
「ルトヴィアス王子殿下」
宰相夫人が立ち上がる。
ルトヴィアスが、宰相夫人と面と向かうのは初めてだ。離宮に詰めている宰相夫人は滅多に王宮に姿を現さず、娘の婚約式にも立ち会わなかった。
――…これがアデラインの母親…。
栗色の髪に青い目。目元はアデラインとそっくりだが、顔立ちは勝ち気な性格が滲み出ていて、あまりアデラインとは似ていないように思われた。
「宰相夫人。初めてお目にかかります」
ルトヴィアスが極上の微笑みで挨拶をすると、宰相夫人は軽く膝を折って、頭を下げた。優雅で格調高いお辞儀。
――…似てる…。
所作が、アデラインとよく似ている。いや、アデラインが母親を倣ったのだろう。
「王子殿下。お会いできて光栄でございます。けれど…実はお目もじ叶ったのは初めてではございません」
「初めてではない?」
「はい。殿下がお生まれになってすぐに、太王太后陛下の名代でリーナ王妃陛下にお祝いを申し上げたことがございます。その折に、赤ん坊だった殿下を畏れ多くも抱き上げさせて頂きました」
宰相夫人の言葉に、ルトヴィアスは目を見張る。
「そうでしたか…」
初耳だ。太王太后とはほとんど行き来がなかったので、そんな接点があったとは思わなかった。
「殿下」
呼ばれてルトヴィアスは振り向いた。
「マルセリオ」
「あなた!」
「お父様!」
「妻がつまらない話でご迷惑をおかけてしていませんか?殿下」
歩み寄ってきた宰相は妻を一瞥して、ルトヴィアスに軽く頭を下げる。宰相夫人は頬を膨らませた。
「まぁ。失礼ね」
「そなたは昔から無駄口が多い」
「女の無駄口は人間関係の潤滑油ですの」
言い合う宰相夫妻を、ルトヴィアスは珍しい思いで眺めた。宰相が、こんなふうに軽口を叩いているのは初めて見る。
「本当は仲がいいのよ」
アデラインがルトヴィアスの隣で、ひそりと言った。
「顔を合わせるとずっとこんなふうなのだけど…離れていると毎日のように手紙をやりとりしてるの」
国と王家に忠誠を尽くす常に冷静な名宰相に、そんな一面があったとは。
「…意外ですね…」
「でしょう?」
そう言って笑うアデラインは、何だか嬉しそうだ。政略婚が多い貴族社会では、口もきかない夫婦も珍しくない。そんな中で、仲が良い両親は、彼女の自慢なのかもしれない。
「青つぐみはどう?」
アデラインが、ルトヴィアスを見上げて尋ねてきた。そばに宰相夫妻がいるため猫はかぶりながらも、ルトヴィアスの口元は自然に弧を描く。
「まだ孵っていません。明日あたりかもしれませんね」
「明日?」
黒い瞳が輝く。
それを見た途端、心に溜まっていた黒い沈殿物が、溶けて消えるのをルトヴィアスは感じた。
アデラインが笑うだけでいいなんて、我ながら何て簡単なのだ。
――…いつのまに、こんなふうになったんだろうな…。
最初は、俯いてこちらを見ないアデラインに苛立った。そんなことなど嘘だったかのように、今では当たり前のようにアデラインがルトヴィアスの世界の中心だ。
「じゃあ明日、執務室に行ってもかまわない?」
――…そんなこと訊かなくても自由に出入りすればいい。
アデラインの馬鹿丁寧な礼儀正しさや遠慮は、ルトヴィアスを時折落胆させる。そこに壁があると認識させられるからだ。アデラインが決して越えようとしない壁。それは身分であり、立場や義務と呼ばれるものだ。彼女はあくまで『妃』としての自分の立場をわきまえ、それ以上にも以下にもなろうとはしない。
「ルト?どうかした?」
「…いえ」
ルトヴィアスは緩やかに笑った。
それ以上を望むのは、ルトヴィアスの我儘だ。求めてはいけない。そこに心がなくても、アデラインが妻になることに、満足すべきなのだ。
「かまいませんよ。いつでも来て下さい」
「本当?ありがとう!」
嬉しそうに笑うアデラインの髪を撫でようと、ルトヴィアスは手を伸ばす。しっとりと、指通りのいいアデラインの髪を、ルトヴィアスは特に気に入っている。
「…雛。楽しみね」
照れながらも、アデラインは笑う。
「そうですね」
ルトヴィアスも笑顔を返した。
最近、アデラインに少し変化があった。以前のアデラインは髪を触るだけでも、身を固まらせて、気の毒なほどだったが、最近では恥ずかしがりながらも、徐々にルトヴィアスを受け入れ始めているのだ。
――…こないだも…。
顔を真っ赤にして逃げるのが常だったアデラインが、初めて自分からルトヴィアスに抱きついてきた。そのことに、ルトヴィアスは本当に驚いた。気分が沈んでいるルトヴィアスを慰めるためだったとしても、彼女がそういう手段を用いたのは意外だった。
『慣れるため』など、過剰反応するアデラインをからかうための建前だったが、もしや本当に効果はあったのだろうか。そうでなければ、アデラインの心情に何かしらの変化があったのかもしれない。妃としての義務感や、王家への忠誠心ではない、 他の何かが、彼女の中で育っているのだとしたら…。
――…いいや、下手に自惚れるのは危険だ。
弛んだ心を、ルトヴィアスはひきしめた。
義務感でないなら、同情か、良くて友情だろう。一人で舞い上がるのは、見苦しい上に虚しいだけだ。
――…あれは…危なかった…。
アデラインから抱きついてきた、たったそれだけのことに、ルトヴィアスは歯止めが効かなくなった。 アデラインの唇と、髪の甘い香りに夢中になって、執務室であることも、いつ誰が入ってくるかわからない状況であることも、一瞬忘れていた。我に返った自分を褒めてやりたいが、もしあれが自室であったりしたら、自分を止められただろうか。
アデラインの気持ちを置き去りに、そういう行為に至るのは、ルトヴィアスの本意ではなかった。むしろ、この場合置き去りにされるのはルトヴィアスの方だ。おそらく、ルトヴィアスが体を求めても、アデラインは拒絶しないだろう。何故なら彼女にとってそれは義務であり、役目だからだ。それではあまりに自分が惨め過ぎる。とはいえ、結婚することは決定している。そうであるなら、双方の心の方向の違いなど関係ないと、のたまう雄がルトヴィアスの身の内に潜んでいるのも事実だ。
せめて式が終わるまでは待つべきだというのが、ルトヴィアスに残った男の矜持だった。
「貴方のお小言はもう沢山!」
宰相夫人は夫に背を向けると、娘とその婚約者の腕をとり、強引に椅子に座らせた。
「さぁ、殿下!アデライン!聞きたいことは山のようにありますのよ」
「だから…そなたはそういうところが…」
また口を開いた宰相にむかって、夫人はビシッと扇をむける。
「貴方は黙っててください。王子殿下とはいえ、アデラインの夫になるからにはルトヴィアス殿下は私の息子になるも同然」
宰相夫人の言葉に、ルトヴィアスは僅かに目を見張る。
アデラインと結婚すれば、当然アデラインの両親は義理の親になるわけなのだが、その実感が今まで伴わなかった。そもそも身分の関係から、息子扱いされるとも思っていなかったのだが。
視線をルトヴィアスに移し、宰相夫人はたおやかに微笑んだ。
「ですから、おしゃべりくらい付き合って頂けますわよね?」
ルトヴィアスが断るなど、微塵も思っていないだろう強気な態度だ。
無礼者、と下がらせることもできるが、ルトヴィアスは実はこういう類の人間が嫌いではない。身分におもねり、へつらう輩の相手をするよりよっぽど気分がいい。まさか宰相夫人がそういう種類の人間だとは、思ってもみなかったが。
ルトヴィアスは笑って頷いた。
「ええ。喜んでお付き合いいたします」
「ほらね?」
ルトヴィアスの同意を取り付けた宰相夫人は、ほら見ろとでも言うように夫にむけて笑って見せる。
それを見て、ルトヴィアスは面白くて仕方ない。顔に似合わず頑固で強引なアデラインの一面は、間違いなく母親譲りだろう。
「ルト」
アデラインがルトヴィアスの袖を引いた。眉を下げた困り顔が、可愛くて困る。
「どうかしましたか?」
「いいの?忙しいんじゃ…」
「急ぎのものは終わっています。心配はいりませんよ」
ルトヴィアスがそう答えると、アデラインは安心したのか、目を細めて微笑んだ。
「よかった」
「………」
ひそかに1つ、息を飲む。
宰相夫妻がいなければ、おそらく抱き締めていた。
――…本当に…馬鹿に出来ないな恋愛感情ってやつは…。
それは理性など空の彼方に、軽く蹴り飛ばしてしまう。ここまで自制が効かないものだっただろうか。『前』は、もっと自分を俯瞰出来ていた気がする。
とりあえずも、蹴り飛ばされかけた理性をルトヴィアスは手繰り寄せた。
――…お前だけが頼りだぞ。
せめて、婚礼が終わるまでは踏みとどまってくれ。婚礼まであと20日。とてつもなく長く感じる。
「さぁ、殿下。お茶を用意いたしますわ。あなた、ほら早く座って」
夫人に促され、宰相が渋々といった体で円卓につく。結局彼も一緒にお茶を飲むことになったようだ。
「そなたは昔からこうだ…」
「殿方がブツブツ言うのは格好が悪うございますよ」
言い合いながらも、彼ら夫婦からは愛情と信頼感が滲み出ている。
かつて、よく似た光景を見たことがあることをルトヴィアスは思い出した。
いつもすました顔をしている母のリーナが、蕩けそうな顔で星砂糖を口の中で転がし、隣でリヒャイルドが、やはり蕩けそうな顔で妻を眺めていた。
平穏な夫婦生活とは縁遠かった両親にも、そんな優しい時間が一瞬でもあったのだ。
――…生きていれば…。
リーナが生きていれば、リヒャイルドと年月を重ねていれば、どうなっただろうか。
「ルト聞いて。お母様ったらおかしいの」
両親が揃っているからか、アデラインはいつになくはしゃいでいる。彼女のお喋りが、耳に心地よく響き、ルトヴィアスは安らいだ。
立太子も婚礼も終わったら、雪が降りだす前に、もう一度母の墓所を訪ねよう。
星砂糖を手土産にして。
アデラインは、きっとついてきてくれる。
遠出をするため予約投稿にしました。
それに伴い申し訳ありませんが活動報告が今回はありません。
また次回投稿時に本編ともどもよろしくお願いします。




