第二十五話 王子の自覚
侍官が広げ持つ長衣の袖にルトヴィアスが腕を通した時、扉の向こうがざわついた。
そのざわつきには、昔から独特の空気がある。
父親が来たのだと、ルトヴィアスはすぐに察した。
「国王陛下のおこしでございます」
予想通りだ。
「お通ししなさい」
ルトヴィアスが言うのとほぼ同時に扉が開く。着替えを手伝っていた侍官達が壁際に下がり、そして一礼の後に部屋から出ていった。
――…珍しいな…。
リヒャイルドは、青鈍色の長衣を身につけ、外套を羽織っていた。
ルトヴィアスの帰国以来、リヒャイルドは熱が下がらない。そのため、ルトヴィアスが父王が出歩く姿を見たのは、帰国して初めだった。
けれどルトヴィアスが『珍しい』と思ったのは父親の夜着以外の格好ではなく、眉間に皺を寄せた険しい表情だ。
まだ母や―…祖父が生きていた頃から、リヒャイルドは控えめに微笑んでばかりで、不機嫌な表情を見せることは滅多になかったからだ。けれど、そんな彼が明らかに怒っている。
「何をしている!ルトヴィアス」
それはどちらかというと、ルトヴィアスの台詞だった。
まだリヒャイルドは熱があるはずだ。ないにしても、昨日まであったのは確かだから、出歩いてはすぐ熱がぶり返してしまう。
だが、リヒャイルドの言葉尻を捕らえるつもりはない。ルトヴィアスは留めかけていた袖口の釦を示して言った。
「着替えをしていました。御前会議の時間がせまっていますので」
「何を考えている?昨日の今日だぞ?」
リヒャイルドは、本当に彼らしくもなく大股で近づいてくると、ルトヴィアスの肩をつかみ、強引に隣室へ…寝所へ押し込んだ。
「父上…」
「休んでいなさい。御前会議には私が出る。その他の政務も私がすべて引き受ける」
「父上こそまだ微熱があるのではありませんか?」
ルトヴィアスは父親の手をやんわりと押し返す。その手は、やはり熱い。
「私なら大丈夫です。医官にもみてもらいましたし、寝込んだと周囲に知られて…『誰か』を喜ばせたくない」
ルトヴィアスは、まるで庭に咲いた花を愛でるかのように、にっこりと微笑んでみせた。
毒を盛ったのが誰なのかは分からない。そんな今、弱味を外に見せるのは得策ではない。つけこませる隙を見せてはならないのだ。
リヒャイルドは、険しい表情をますます深めた。
「…今後は毒味係をおくことにしたよ」
父親のその言葉に、ルトヴィアスの聖人のような微笑みが、ピクリと揺れる。
「…必要ありません」
「必要があると、私が判断した」
「もう二度とこんな失態はいたしません。父上」
リヒャイルドは息子を睨む。父親の鋭い目線に、けれど憂いを感じて、ルトヴィアスは奇妙な罪悪感に目を伏せた。
「お前が毒味を嫌がるのはリーナのせいだね?」
「…」
唐突に出た母の名前に、ルトヴィアスの頭から、抗う暇もなく猫が滑り落ちる。
表情をなくしたルトヴィアスに、リヒャイルドは苦しげに目を細めた。
「わかってる。一人生き延びた私を…お前の母親を守れなかった父を、お前が恨むのは当然だ。毒味係をおきたくないというお前の気持ちも理解できる。だからお前の我儘を許した。…許してしまった。」
リヒャイルドも、目を伏せた。
過去の何かを思い返すように、そして振り切るように、リヒャイルドはまた顔を上げる。その目に、憂いはもうない。強く、思慮深い、国王がそこにいた。
「…だが、私が間違っていた。毒味係をおく。これは国王としての命令だ。」
ルトヴィアスは、必死に自らに命じた。笑え、と。滑り落ちた猫を何とかかぶりなおし、重い口角をひきつりつつも、持ち上げる。
意地で微笑んでみせた。母によく似ていると言われる、美しい顔で。
「…恨むなんてとんでもない。ご心配をおかけしたことは謝ります。ですが毒味は必要ありません。どうしてもというなら、今後食事は遠慮させていただきます」
人々が聖人のようだと称賛する微笑み。向けられた者は皆喜んで虜になる。けれど、リヒャイルドはかえって傷付いたように、唇を引き結ぶ。
「…ルト」
幼い頃のルトヴィアスの愛称。父と母が、私的な空間でのみ、息子を甘やかすためだけに用いた名前。
呼ばれた瞬間、感情の波が押し寄せ、ルトヴィアスの中の何かが決壊しかけた。
けれど結局、そうはならず、ルトヴィアスは残酷なほど美しい微笑みをほころばせる。
「はい、父上」
目をそらしたのは、リヒャイルドだった。
自らが落としたため息を探すように、床に目線を落とし、それをあげようとしない。
「……毒見係をつける。決定だ。それから今日は寝所からでないこと。いいね?これは国王命令だ」
リヒャイルドはそれだけいうと、疲れたような表情で、ルトヴィアスに背を向けた。
幼い頃、その背を見つけると嬉しくて飛びついた。けれど今のルトヴィアスは、そうは出来ない。ルトヴィアスの背はリヒャイルドより高く、飛びつこうものなら細身の父親を潰しかねない。そして何より、無邪気に父親に甘える年齢を、ルトヴィアスとうに過ぎてしまった。二人は、あまりに離れすぎたのだ。時間も、距離も、心も。
扉がしまり、靴音が遠ざかる。
静まり返った部屋に、ルトヴィアスは立ち尽くした。
「…恨んでなんて…いない」
扉の向こうに消えた背中に話しかける。
聞こえていないことはわかっていた。わかっていたからこそ、零せる本音もある。
リヒャイルドは、息子に甘い父親だった。幼いルトヴィアスの悪戯を、いつも笑って許してくれた。彼の天馬を無断で連れ出し大搭の屋根まで飛んだときは、さすがに眉間に皺をよせていたが、それでもルトヴィアスを大声で叱ったりはしなかった。 彼に怒鳴られたのは、ルトヴィアスが覚えている限りたった一度だ。たった一度…。
優しいリヒャイルドを、気弱に過ぎると陰口を叩く者もいる。
ご親切にその陰口をリヒャイルド自身の耳に届ける輩もいた。だが、彼は気分を害する様子もなく、やはり微笑む。そうか、とだけ言って。
そんな父親の姿を、ルトヴィアスは見て育った。彼の体は弱いが、心までそうではないことを、ルトヴィアスは知っている。
「恨むわけ、ないじゃないか…」
机に寄りかかり、そのまま座り込む。俯くと、落ちてくる長い前髪が邪魔だったが、かきあげるのすら面倒だ。
「俺はただ…信じられないんだ…」
――――――誰も、信じられない。
毒見係も、リヒャイルドも、死んだ母も、祖父も、オーリオも宰相も、誰も信じられない。
アデライン、唯一人を除いて。
母の訃報に12才のルトヴィアスは涙も出なかった。
あまりに突然のことで、現実感がもてなかったのだ。
リヒャイルドの命を狙った者が、スープの鍋に毒を入れたのだという。ところが当のリヒャイルドはいつもの体調不良と食欲不振で食事に手をつけず、別室で同じ鍋のスープを飲んだリーナが毒に倒れ、すぐに医官が呼ばれたが間に合わなかったらしい。
リヒャイルドとリーナの毒見係だった女官と侍官、計6人が捕えられたが、そのうちの3人が翌朝牢の中で冷たくなっていた。皮肉なことに毒殺されていたという。口封じされたのだろう。死んだ3人は、毒入りのスープを問題がないと偽って、主の前に差し出していた。
ルトヴィアスは、過去に誤って毒を飲み込んでしまったことがある。喉を焼く痛みと内蔵をかきむしる苦しみ。ニ晩生死の境をさ迷った。あの苦しみを母も味わったのかと思うと、手が震えた。恐怖、悲しみ、焦燥。どんな言葉で言いあらわすのが相応しいのか分からない感情に襲われ、ルトヴィアスは身動きが出来なくなった。
それ以来、ルトヴィアスは毒味係を置いていない。
毒味係を、信じることが出来なくなったからだ。彼らを信じたばっかりに、母は死んだ。
もとより、ルトヴィアスは周囲の人間を信じてはいなかった。
ルトヴィアスに近づくものは、ルトヴィアスに取り入り、利用し、自らの欲を満たそうとする者ばかり。
誰も信じない。
それは孤独で、薄ら寒く、けれどいつしかルトヴィアスは『独り』であることに安心感を抱くようにすらなっていた。独りでいる限りは、だれもルトヴィアスを裏切らないし、誰もルトヴィアスを傷つけないからだ。
母国に帰国してすぐの夕食。
スープに微かに香る独特の香りに、ルトヴィアスは飲む前に気がついた。
毒の混入自体は、珍しいことではない。王位を狙う者、ルードサクシードを恨む者、ルトヴィアスに死んでもらいたがっている輩は、それこそ星の数ほどいる。
けれどその時、リーナの訃報を告げた侍官の声が、警鐘のようにルトヴィアスの耳に蘇った。
『鍋に毒が…』と。
ぞくりと、背骨の中を百足が這い上がってくるような感覚に突き動かされ、ルトヴィアスは部屋を飛び出す。
――…もしも…。
もしも、リーナが死んだときと同じように、皿ではなく鍋に毒がいれられたとしたら、その毒いりのスープはルトヴィアス以外の誰の食事に出されるだろうか。
特別な客用のスープだ。
ルトヴィアスと同等に扱われる客にのみ、出されるに違いない。
つまり、婚約者のアデラインに。
王族であれば専門の教育を受けた毒見係がついているはずだが、アデラインはまだ王族ではないから毒味係はついていない。
見てもいない母親の死に顔が目の前をちらついて、ルトヴィアスは戦慄する。
ルトヴィアスが扉を開け部屋に入ると、アデラインは目を皿のように丸くしていた。彼女の前に並ぶ料理は、まだ手を付けていない。
――…間に合った。
顔を強張らせるアデラインを無視して、ルトヴィアスは微笑んだ。
『食事中だったのですか?改めた方がいいでしょうか?』
『いいえ、そんな…かまいません…あの…』
彼女の顔には、はっきり迷惑だと書いてあった。
それはそうだろう。麗しの王子様の本性に、アデラインは相当衝撃を受けていた。けれどそんなことかまうものか。
『…良かったら…ご一緒にいかがですか?』
『ありがとう。じゃあ失礼させてもらいます』
絞り出したように食事を勧めるアデラインに、ルトヴィアスはまた微笑んで席につく。
スープを香って問題ないことを確認すると、力が抜けるほど安堵した。
けれど本当に安心することは出来ない。ルトヴィアスの傍にいる、ただそれだけで彼女は危険なのだ。
『今日から、食事やお茶を飲むときは必ず呼べ』
お茶一杯、アデライン一人で飲ませるものか。
それまでは、侍女のミレーがアデラインの食事をとりあえずは毒見していたらしいがやめさせた。
はっきり言ってミレーを信じられなかったからだ。ミレーは不服そうだったが『貴女に何かあればアデラインが悲しみます』と憂いを帯びた微笑みつきでルトヴィアスが言うと、感動したらしく涙ぐんで了承した。
宰相がアデラインに正式に毒味係をつけようとしたが、ルトヴィアスはそれも止めた。その毒見係を信じる根拠がない。
無駄に怯えないように毒のことはアデラインには言わず、周囲にも口止めをして。黙々と、ルトヴィアスはアデラインと食事をした。
―――――――どうしてそこまで必死になったのか、自分でもよく分からない。
愛してもいない政略結婚の相手でも、むざむざ死なせるのが嫌だった。誰かが毒で死ぬのを見るのが怖かった。―――色々と理由はある。色々とあるけれど、ただ純粋にアデラインを守りたかった。それだけだった気もする。そこに介在する感情が義務感なのか、愛情なのかなんて考えてはいなかった。
ただ、守りたかったのだ。
眩しいほどに純粋な涙を流したあの瞳を。
人の命を盤上の駒遊びのように扱う人間の悪意など、見せなくはなかった。
夜色の目を、汚したくはなかったのだ――…。
石で組まれた窓辺に、ルトヴィアスは片足を胸の前に抱えて座っていた。
少し前からルトヴィアスの自室の一つになった王太子の寝所は、その昔リヒャイルドの寝所だった。
寝所にいることが多いリヒャイルドの為に、部屋を明るくしたいとリーナが選んだ壁紙はそのままだ。けれど主がいなかった10年の間に、部屋はどこか物悲しく寂しい雰囲気をまとうようになっていた。
リヒャイルドの命令をうけた侍官達に部屋から出るのを止められ、ルトヴィアスはシヴァの厩舎にさえ行けないでいる。
――…へそを曲げてるんだろうな…。
昨日からシヴァのところに行けていない。
天馬は数日間なら飲まず食わずでも問題ないから飢える心配はないが、掃除は必要だ。厩舎係が掃除の為に柵の中に入り、ルトヴィアスが来ないことで苛立つシヴァに蹴られるのが目に見える。
外を眺めるのに飽きたルトヴィアスは、部屋の中を見回した。
通常の出入口とは反対の位置にある扉が目に入る。王太子妃の寝所につづく扉だ。
その扉からルトヴィアスは泥団子を隠し持ってリーナの部屋に入り、母の鏡台に投げつけたのはもう遠い昔のこと。泥だらけの鏡面に母親が絶叫したのを思いだし、我ながらとんでもない悪戯小僧だったとルトヴィアスは自嘲する。
その笑いも、すぐに頬から削げた。
王太子妃の部屋に、もうリーナはいない。彼女は王妃になって専用の部屋に移り、そして死んだ。
隣室は今は新しい主を待って静まりかえるばかりだ。やがてルトヴィアスの妃になる、アデラインを待って。
昨夜、アデラインは別に用意された部屋に泊まったらしい。けれどルトヴィアスより随分早くに起き出し、『くれぐれもご無理はなさいませんように』と、ルトヴィアスを気遣う言付けを残して、朝食もとらずに王宮から退出したのだと、女官から聞いた。
公務の予定はなかったはずだが、何かと付き合いが重要視されるのが貴族社会だ。茶会か何かに招かれているのかもしれかい。
――…それなら俺のことなどほっておけばよかったものを…。
アデラインを冷たくあしらったのはつい先日だ。昨日も出ていけと怒鳴った気がする。なのに、アデラインは結局、昨夜遅くまでルトヴィアスに付き添ってくれた。
昨日、ルトヴィアスが飲んだ水差しの水は、檸檬の風味がした。毒の風味を誤魔化すためわざとつけられたその味に、ルトヴィアスは一瞬ではあったが、まんまと誤魔化された。舌の上に感じた苦味に、すぐに毒だと気付いたものの吐き出すのが遅れ、ごく少量ではあったが飲み込んでしまった。飲んだ量も毒の種類も大したことはなく、むしろ解毒薬の作用の方が正直つらかったのだが、それよりも更に、アデラインのあの顔はこたえた。
ルトヴィアスを睨み付ける、あの顔。
ルトヴィアスがずっと自分の食事の毒見をしていたと知り、彼女は怒っていた。
――……怒るのかよ…。
毒に怯えるのでもなく、毒味をしていたルトヴィアスに感謝するのでもなく――いや、感謝されたかったわけではなかったが――アデラインは怒った。汚れるのではとルトヴィアスが恐れた瞳は美しいまま、相変わらず澄んだ涙を流していた。
その時、ルトヴィアスは、アデラインがどんな女なのか、自分が全くわかっていなかったことを思い知らされたのだ。
アデラインは人の悪意などに汚されるほど弱くはない。大人しく守られて、微笑んで感謝を述べる淑女ではない。 豪雨にも消えない山火事のような、そんな強さを彼女は持っているのだ。
矜持が高いアデラインにとって、ルトヴィアスの行動は、侮辱に他ならなかったかもしれない。
――…別に…侮ったわけじゃない…。
ただただ、アデラインを守りたかったのだと、そういえばアデラインはどんな顔をするだろう。
扉が叩かれ、ルトヴィアスは抱え込んでいた片足を床に下ろした。
「…どうぞ」
開けっぱなしにしていた寝所の開き扉から見える居間に、オーリオが姿をあらわした。
オーリオは寝所の前までやってくると、寝台に横になっていないルトヴィアスを見て眉をひそめる。
「…お休みにならなかったのですか?」
「寝所から出るなとしか、陛下には言われていませんから」
にっこりと、ルトヴィアスは微笑んだ。
不本意ながら寝所からは一歩も出ていない。リヒャイルドの命令に背いたことにはならないだろう。我ながら、なんて子供じみた反抗だ。
オーリオは非難するように表情を険しくした。けれど彼の常の顔と大して変わりはしない。
「…お食事をお持ちしました」
オーリオの言葉を合図にしたように、彼の後ろを、大皿を手にした侍官や女官が通りすぎ、居間の円卓の上に並べ始める。
ルトヴィアスは立ち上がると、寝所の扉まで歩いていき、そこから整えられていく食卓を見守った。
香辛料と一緒に焼き上げた肉の、香ばしい香り。緑豆が浮くスープに、白いパン。鮮やかな果物に野菜。
杯に水をそそぐと、女官達は一礼の後に静々と出ていく。
「毒見に問題はありませんでした。安心してお召し上がりください」
「…」
顔も名前も知らない毒見係の毒見で、どうして安心できるというのだ。いや、名前も顔も知っていたところで信じられるわけでもないが。
――…何でだろうな…。
自分でも不思議に思う。
実はルトヴィアスが自らに毒見係をつけないのは、毒見した食事が『食べられない』からなのだ。
母の死を知って数日、ルトヴィアスは食事を吐き続けた。母の死が相当ショックだったせいだろうと思ったが、やがて違うと気づいた。毒見してある食事を、食べられないのだ。
皇国でもルトヴィアスには当然毒見係がついていたが、目の前の食事が毒見してあると分かると、急に食欲を失い、無理に食べると吐いてしまう。
毒見係を信じられない、そういう自分の心がそうするのだろうとルトヴィアスは思った。母が毒見係に殺されたからだと。
毒見係を変えてみてもやはり食事は食べられず、それが数日続いたため、毒見係は廃された。皇国側からすれば、預かっている大事な人質を餓死させるわけにはいかなかったからだろう。毒見係の廃止は、ルードサクシードに事後通告された。普通なら抗議するであろう内容の通告だったが、リヒャイルドは何も言わず了承したらしい。母親を守れなかった父親への、息子の無言の抗議とでも思ったのかもしれない。
「さぁ、殿下。お食事を」
オーリオに促されるも、ルトヴィアスは動けない。空腹であるはずなのに、食べたいと全く思えない。
自分でもわかっている。食べなければいけない。王子として、体調管理も義務の一つだ。
けれど、目の前に広がる食物を、口に入れる気にどうしてもなれない。
――…信じる必要はない。疑って食べればいい…。
他人を信じられないから食べられないのだから、毒見をしていようがしていまいが、関係ないはずだ。疑ってかかれ。それなら食べられるはずだ。
ルトヴィアスは、食事の席に近づいた。
食べられるはずだ、と自らに呪いをかけるように繰り返しながら。
けれど、あと少しと言うところで、スープの香りが匂い、反射的に後ずさる。
「…」
「殿下?」
「…すみませんが、下げてもらえませんか」
――…無理だ。
食べられない。
どうしてなのか、自分でもわからないけれど食べられない。
オーリオは厳しい視線をルトヴィアスに向けてきた。
「朝もお食べになっていません。国王陛下から、殿下に必ず何かお食べ頂くように命じられております。」
「……」
――…あのくそ親父…。
リヒャイルドが息子を心配していることは、十分すぎるほど伝わってくる。だからと素直に従えるほどルトヴィアスは大人ではなかった。上から押さえ付けられれば、反発したくなる。
「…食欲がないんです。さげてください」
表情をとりつくろう自信がなかった為、ルトヴィアスは俯いてもう一度言った。
猫をかぶりながらも、ルトヴィアスの声には苛立ちが滲みはじめている。その苛立ちに気付いているだろうに、オーリオに臆する様子はない。
「出来ません」
「私は食べたと、陛下に報告すればすむはずです」
「出来かねます」
「…私に食事をさせたいなら毒味係を廃して頂きたいと陛下に申し上げよ」
「…陛下へのあてつけもいいかげんになさいませ」
オーリオの声が、やや低くなった。
「…あてつけ?」
ルトヴィアスは顔を上げ、聞き返す。
オーリオは、ルトヴィアスを見下すように睨みつけた。
「一国の王子が、しかもルードサクシードほどの大国の王太子になろうという方が、毒味もなしに食事をなさるなんて常識として有り得ません。私から見れば殿下の行為は陛下への子供じみたあてつけです。母君を守れなかったと父君を責めるにしても、言葉で堂々と仰られたらどうですか」
どうやら、周囲にはルトヴィアスがリヒャイルドを呪っているようにしか見えないらしい。
そういえば帰国後、リヒャイルドの寝所に入るのを邪魔した侍官も、ルトヴィアスがリヒャイルドを害するのを危惧していた。当のリヒャイルドすら、息子が自分を恨んでいると決めつけているようだ。
馬鹿馬鹿しくて、ルトヴィアスは笑った。
いっそ本当に父を殺して国を滅ぼしてやろうか。そうすれば満足か。
ルトヴィアスが笑ったことが気にくわなかったのか、オーリオの口調が更に厳しくなる。
「もし昨日、貴方に万が一のことがあれば、我が国は唯一の王子と共に、聖サクシード直系の血統を失っていた。その責任を誰がとるとお思いですか?貴方の我が儘を通した私を含める秘書官と侍官、そして宰相閣下です。私達はともかく、宰相閣下を失うことがこの国にとってどれほどの損失か、分からないとは言わせませんよ」
正論だ。
オーリオの言うことは、まったく隙がないほどに正しい。
でも何故だろう。ルトヴィアスの心は冷えていく。痛みを、痛みとも感じられないほどに、心は冷めて、凍てついた。そしてそんな心とは裏腹に、ルトヴィアスの唇は美しい微笑みを描く。
「――…宰相やあなた方に迷惑はかけません。食事を下げてください」
傷ついてなどいない。
お前ごときの言葉に傷ついてなどやるものか。
悠然とした微笑みに、オーリオが初めて瞳を揺らした。
―――コンコン、と廊下側から扉が叩かれた。
ルトヴィアスから目線をはずさないまま、オーリオが応える。
「……どうした?」
「アデラインお嬢様がいらっしゃいました」
侍官の声に、ルトヴィアスとオーリオは瞬きほどの間、お互いの目の中を探りあい、そして視線を落とすと小さく息を吐いた。――休戦だ。
ルトヴィアスは先程までの冷戦などまったく感じさせない理知的な声で、扉の向こうで待つ人物に入室を許した。
「どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたアデラインの姿に、ルトヴィアスだけではなく、オーリオまでが目を見張る。
アデラインは、丈が短い茶色のドレスに白い前掛けをかけ、髪は二つに分け三つ編みにして胸の前に下げていた。花帽の代わりに三角巾を頭に巻いており、どこからどう見ても農家の娘か、商家の下働きだ。
似合うと言えば、貴族の令嬢相手に失礼になる。似合わないと言えば、女性相手に失礼だ。
「…よく、ここまでこれましたね」
結局、ルトヴィアスは遠回しな感想を述べ、曖昧に微笑む無難な反応をしめすことにした。
「実は…怪しまれましたが、ミレーや供の騎士がいましたので何とか…」
アデラインは、やや拗ねたように目を伏せた。やはり、途中で止められたらしい。
謁見の間や執務室がある棟の奥にある内宮は、王族の私的な居住空間であるため警備は他より更に厳重で、まず下働きの娘ではルトヴィアスの私室がある階にまで上がれない。今のアデラインの格好では、つまみ出されるのがおちだ。
「お嬢様」
アデラインの数歩後ろに控えていたミレーが囁くと、アデラインは自らの用件を思い出したらしい。
「そうね。冷めてしまうわね」
冷めるとは、いったいなんのことだろう。ルトヴィアスが尋ねるより先に、アデラインがすっと顔を上げ、背筋を伸ばす。質素なドレスの僅かな膨らみを指先でつまみ、足を交差させて膝を軽く曲げた。ゆっくりと、背筋を延ばしたまま頭を下げる様は、優雅で格調高い。身なりは粗末でも、その礼一つで、アデラインは教養の高さを証明してみせた。
「殿下の御前にご挨拶できる衣装ではないことは承知しております。無礼をお許しくださいませ」
頭を上げ、常の姿勢に戻ったアデラインは、少しだけ心配そうに首をかしげた。
「あの…すいません。お食事中でしたか?」
尋ねられ、ルトヴィアスは円卓を見下ろす。居並ぶ豪華な食事。そういえば、オーリオとの言い争いの発端はこれだった。
まだ険しい顔をしているオーリオを一瞥し、ルトヴィアスはアデラインに向き直る。そして、にっこりと極上の笑顔で言い放った。
「いいえ、アデライン。これは今片付けるところなんです」
「殿下…っ」
反論しようと口を開きかけたオーリオは、けれど口を閉ざす。ミレーが持っていた籠をアデラインに捧げ渡し、そしてアデラインがそれを持ってルトヴィアスに近づいたからだ。
「なら、これをご昼食にどうぞ」
「…これは?」
前にも似たようなことがあったと、ルトヴィアスは思い出した。アデラインに無礼をはたらいた騎士を蹴り飛ばした夜のことだ。
「玉ねぎと山羊の肉のスープです。温かいうちに召し上がって欲しくて…」
それで着替えの時間を惜しんだというわけか。
「パンには豆を入れてみました。初めてにしては上出来だと褒められたんですよ」
得意気な顔で、アデラインは微笑んだ。けれどルトヴィアスは固まる。
「…作った?」
「はい!」
「お待ちください!」
ルトヴィアスとアデラインの間に割り込むようにして、オーリオがはいってきた。
「申し訳ありませんが、お嬢様。これは殿下に召し上がって頂くわけにはまいりません。殿下のお食事は毒味したものに限ると、国王陛下のご命令です。それから毒味以外にも色々と規則が…」
「わかっているわ。殿下が口になさるものは、御用達の菜園で収穫されたものにかぎり、水は王宮の井戸から汲んだものを沸騰させてから一度冷まして使うこと」
すらすらと言い上げるアデラインに、オーリオが呆気にとられた。
ルトヴィアスも、僅かに目を見張る。水を沸騰させてから使うのは、ルトヴィアスも初めて知った。
「そ、それだけではなく…」
「身元が確かな者により、監督者のもとで調理をし、3人以上の者による毒味をおこなわなければならないのよね」
アデラインは、まるで本でも朗読するかのように続ける。
「野菜は菜園で私が手づからとったものです。火打ち石がうまく使えなくて、火をおこしたのはミレーだけど…井戸から水を汲んだのは私よ。ちゃんと沸騰させてから冷ました水で野菜を洗ったわ」
「…どこでなさったんです?」
王宮で食べられるものは、王宮の中で調理するのがきまりだ。外から調理済みの料理を持ち込むことは許されない。
オーリオが尋ねると、アデラインはけろっとした顔で答えた。
「調理場は騎士団の第三部隊のものをかりました」
騎士団は大所帯なので、部隊ごとに宿舎と調理場がある。
「何故、そこを?」
「そこなら入れるのはその部隊の人だけでしょう?普段殿下の食事が作られる調理場は、広すぎるし、人が多すぎるので、誰かが怪しい動きをしていても私では気付けません。けれど部隊の調理場は狭くて、私とミレーしか入れないので安心でしょう?ミレーに手伝ってもらったけれど、でも収穫から味付けまで、すべて私がやりました。あ、でも…山羊はさばけなくて…供の騎士にお願いしました」
「…それをきいて安心いたしました」
どこか残念そうな表情のアデラインに、オーリオが心底安堵した様子でボソリと呟いた。その二人の温度差に、ルトヴィアスは思わず吹き出してしまった。
「…殿下…」
ギロ、と睨んでくるオーリオから顔を背け、ルトヴィアスはわざと咳払いをした。
いつも憎たらしいくらい冷静で正論を並べるオーリオが、アデライン相手に殆ど口を挟めない。とてつもなく愉快な光景だ。こないだオーリオにやり込められ、半泣きだった次席の秘書官に見せてやりたい。
「食器は盛る前に一度煮沸消毒をしたわ。出来上がった料理は私を含め第三部隊全員で美味しく頂きました。これはその残りです」
「…今、何と?」
「スープもパンも、多めに作ったので残ってしまったの。騎士達に無理に食べさせては昼からの任務や修練に障ります。だから殿下に片付けていただきたくて」
オーリオの顔が、盛大にひきつる。
ルトヴィアスは、吹き出すのを必死にこらえた。誰か絵師を呼べ。この瞬間を芸術として、是非後世に残したい。
「お嬢様は殿下に残り物を召し上がって頂こうとしているのですか?」
「ええ、そうよ。捨てるのは勿体無いでしょう?殿下、召し上がって頂けますか?」
アデラインの瞳が、刹那揺れた。ルトヴィアスが受け取らない可能性に、怯えたのだろう。
『私を遠ざけないで』。
切ないほどの囁きが、耳に蘇る。
――…遠ざけたかった。遠ざけて、お前を俺から守るつもりだった。
けれど、そもそもルトヴィアスが守りたかったのは、本当にアデラインだったのか。自分が傷つくことをおそれてはいなかったか。
昨日、何度ルトヴィアスが手を振り払っても、アデラインは握る手を離さなかった。彼女はルトヴィアスの妃になる覚悟を決めている。
彼女の手をとる覚悟がないのは、ルトヴィアスの方だ。
「……オーリオ」
「……はい」
ルトヴィアスはアデラインの持つ籠を受け取り、得意の胡散臭いほどに清廉な笑顔をオーリオにむけた。
「折角だから頂こうと思います。だからそちらの食事は片付けてもらえますか?」
アデラインの目が、嬉しそうに瞬いた。
ルトヴィアスに食べさせることを前提に、アデラインが料理をしたことは明らかだ。
宰相令嬢なら『身元が確かなもの』な上、『監督者』の資格は十分だし、『3人以上の毒味』も、20人からいる第三部隊全員がルトヴィアスより先に食べた時点で規則を満たしている。けれどアデラインは、毒味をしたとは言わなかった。あくまで第三部隊の残り物なのだ、と主張した。王子に残り物をという発想はとんでもないが、毒味係を厭うルトヴィアスの心情への配慮が感じられる。
ここまでさせて、受け取らなければ男じゃない。
「………」
眉間に皺を寄せ、オーリオはまだ考え込んでいる。それを見て、アデラインは更に言った。
「もし第三部隊の中に今まで殿下に毒を盛った犯人がいたとしても、自分が食べる食事の鍋に毒はいれないでしょう? もしこれで毒がはいっていたら、犯人は間違いなく私です。容赦なく断罪してくださってけっこうよ」
戦場の騎士でも、ここまで潔くはあるまいというほど、アデラインははっきり言いきった。
その横顔に、ルトヴィアスは見いる。
ただ、心優しいだけではない。
あの宰相が、王妃に相応しからんと手塩にかけて育てた娘だ。そして彼女は、見事に父親の期待どおりに育った。
「……かしこまりました」
オーリオが、諦めたように目を伏せ、頭を下げた。
「ありがとうオーリオ」
満面の笑顔で感謝を言葉にするアデラインは、先程とは一転してあどけない印象だ。
女官が呼び込まれ、料理が下げられていく。女官に続きミレーが出ていき、次いでオーリオが扉に向かう。
「では私も失礼致します。どうぞごゆっくり」
嫌味かというほど丁寧にお辞儀をして、オーリオは扉をしめた。
「…やっぱりオーリオを怒らせてしまいました…我ながら無茶苦茶とは思ったんですが…」
「たまにはあいつもしてやられた気分を味わうがいいさ」
ルトヴィアスは籠を円卓に置くと、かけられていた布巾をとった。ふわりといい匂いが漂い、自分の空腹をようやく自覚する。
「…その野菜を作った者は、殿下に感謝していました。殿下のおかげで、安心して田を耕せたと」
アデラインの言葉に、ルトヴィアスは心臓が止まるかと思った。
自分が人質になることで、皇国はルードサクシードの降伏を認め、戦争は終わった。王族に生まれた者として、国の為に人質になるくらい当然のことだ。だからといって辛くなかったわけではない。監視される緊張感。行動を制限される苛立ち。敗戦国の王子として、見下され蔑まれることも多かった。
アデラインは籠の中から、中身がこぼれないように、そっとスープの器を取り出した。
「……だから殿下に、食べていただきたいんです」
「……」
器が温かい。たったそれだけで、皇国で耐えてきた日々が報われた気がした。
渡された匙で、ルトヴィアスはスープを飲んだ。
――…食べられる…。
吐き気はしない。胃が、体が、食べ物を拒絶しない。
「いかがですか?」
「…うまい」
「よかった!」
朗らかなアデラインの声に、ルトヴィアスは自然と相好を崩す。
料理の味など、今まで気にしたことがなかった。
幼い頃は食事の作法を間違え叱責されることに怯え、そしてその料理が安全かどうかが、何より重要だった。
口の中に広がる玉葱の甘い香りを、ルトヴィアスは楽しんだ。
粗末な食事だ。
けれど、絶対に『安全だ』という安心感からか、今まで食べてきたどんな豪華な食事より、美味しく感じる。本当の意味で、体に栄養が行き渡っていく気がした。
――…何故、食べられるのだろう…。
毒見はしていない、とはいえ、それは建前上だ。事実上、毒見はされているのに、何故このスープを体が受け付けるのだろう。
――……アデラインが…作ったから?
自分でも、よくわからない。
「パンは苦労したんですよ。手に生地がベタベタくっついて」
隣でアデラインが身ぶり手振りを交えて料理の話をするのを、ルトヴィアスはパンをかじりながら聞いた。
単純に食事を楽しむのも初めての経験だ。
アデラインが笑ったのを初めて見た夜を思い出した。アデラインの差し入れを、床にぶちまけてしまった夜だ。
あの時は、まさかこんなふうにアデラインの話に耳を傾けるようになるとは思わなかった。 いつもオドオドしている婚約者が、ルトヴィアスの空腹を心配して差し入れをしてくれた。それに驚いたと同時に、単純に嬉しかった。床に落ちはしたけれど、何の問題もないように思われた。不思議とあの時も、あの食べ物は『安全だ』と分かっていた気がする。
「…俺の負けだな」
ルトヴィアスは自嘲した。
すっかり空っぽになった器を籠の中にしまいながら、アデラインが尋ねてきた。
「どなたかと何か勝負をされていたのですか?」
「…ああ、そうだな。誰に負けたんだろうな俺は」
アデラインはよくわからないといった様子で首を傾げた。
その困り顔が面白くて――愛しくて、ルトヴィアスは困った。
ルトヴィアスが負けたのはアデラインなのか、それとも己自身なのか。
ようやく、ルトヴィアスは再会以来アデラインに対して感じていた苛立ちの原因に気付いた。
――…アデラインが、俺を見ないからか。
以前のアデラインは、俯いてばかりでルトヴィアスをまともに見なかった。俯くのをやめた今も、アデラインはルトヴィアスを見ていない。男として。
彼女にとってルトヴィアスは、政略結婚の相手であり、仕えるべき主君だ。ルトヴィアスの為に必死になるのも、彼女が自分の役目に忠実だからにすぎない。
苦手なドレス選びに苦心しながらも取り組むのも、ルトヴィアスを心配するのも、こうして手ずから料理を作るのも、すべてルトヴィアスの『妃』という立場を、アデラインは実直に努めているだけなのだ。
今ルトヴィアスにくれた微笑み一つでさえ、ルトヴィアスを愛しているからくれるわけではない。ルトヴィアスはそのことに、ずっと無意識に苛立っていた。
「…片想い…」
「はい?」
「いや…」
――…片想いー…俺が?
よりによって、自分の婚約者に。
まさかと思いたいが、この状況は片想いに他ならないだろう。
自分は今、人生で初めての片想いをしている。
「殿下?顔が赤いですよ?大丈夫ですか?」
ルトヴィアスの額に触れてくる、アデラインの白い手。覗きこんでくる夜色の目。
彼女の何気ない仕草が、とてつもなく貴重に見えて、ルトヴィアスは瞬きさえ出来ない。
この嵐のような感情を『片想い』なんて可愛らしい響きで表現したのは、いったいどこの詩人だ。恥を知れ。
「殿下?」
「…大丈夫だ」
額にあてられた手から逃げるように、ルトヴィアスは身を引いた。
何故今まで、この手に平気で触れていたのだろう。
触れたくないわけではない。 でも、触れるのが怖い。 離せなくなりそうで。
アデラインの視線から逃れて、ルトヴィアスは目を伏せた。けれどその目が、アデラインの白い手にとまる。指の所々に、慣れない手料理による傷ができていた。
ルトヴィアスの目線に気づき、アデラインは慌てて手を隠そうとしたが、ルトヴィアスは逃さなかった。細い手を掴み、離さない。いや、離せない。
「…あ…あの、お見苦しくてすいません」
「…いったい何処が見苦しいんだ」
見苦しくなどない、むしろ―…。
その先は、とても口に出せない。
惚れた方が負け、とは、古今東西よく言うが、ルトヴィアスもその例に漏れることはないようだ。指の傷さえも、とてつもなく愛しい。
ルトヴィアスは目を閉じた。
もう、腹をくくるしかない。
「…毒の件だが」
目をひらき、まっすぐアデラインを見つめた。
「お前が王宮にはいるまでに解決する。お前が葡萄パンをびくびくしながら食べるようなことにはしない」
アデラインが目を丸くする。
その表情はやめてくれ。可愛すぎると、ルトヴィアスは内心白旗を挙げた。
「私が葡萄パンが好きだとご存じで?」
「幸せそうな顔で頬張ってるからな」
それは、ルトヴィアスも最近気づいたことだ。アデラインが、葡萄パンだけやけに噛み締めて食べるので、好きなのだろうなと思ってはいたが、やはり好物だったらしい。
「…私、そんなに顔にでてますか?」
「でてる」
「…そ、そうで、すか」
恥ずかしそうに頬を染め俯くアデラインを、今度はルトヴィアスが覗きこむ。
「…見ないでください」
「どうして?」
「どうしてって…」
アデラインがますます赤くなる。
その頬に触れたい。
髪をなでて、抱き締めたい。
――…本当に、完敗だ。
二度と誰かに恋などしないときめていたのに、けれど、抱いた甘い感情を、もう捨てることなんて出来ない。それが報われない想いなのだとしても。
ルトヴィアスには祈るしかなかった。
どうかこの恋が、ルトヴィアスを――…アデラインを、傷つけることがないように。




