第二十一話 王子の小細工
「畏れながら、殿下を中へお通しするわけにはまいりません」
その侍官は、ルトヴィアスと同じ年の頃の若者だった。いや、もしかしたらルトヴィアスよりも少し年下かもしれない。
彼の手も唇も震えていたが、けれどルトヴィアスをその先に――王の寝所には行かせまいと、その意志だけは少しも揺らいでいなかった。
「無礼者!下がらぬか!」
ルトヴィアスのすぐ後ろにいた宰相が、侍官を叱責するが、侍官は動じない。
「いいえ!下がりません!」
「いい加減にせぬか!早くどくのだ!」
脇にいた侍官長が、侍官の肩をひいてどかせようとした。
「どきません!ルトヴィアス殿下はお父君を…陛下を恨んでいらっしゃるのでしょう!?」
「何ということを言うのだ!控えぬか!」
侍官長は侍官の袖を引きながら、ルトヴィアスの前に平伏しかねない勢いで跪く。侍官も、それに引っ張られて崩れるように跪いた。
「ルトヴィアス殿下、指導が行き届かず申し訳ございません!罰はどうか私に…」
頭を下げる二人を、ルトヴィアスはぼんやりと見下ろす。
――…そうか、俺が父上を殺そうとしていると…そう思っているのかこいつらは…。
そういうことを考えている派閥がおりますよ、と隣にいる宰相から聞いたのは国境を越えてすぐの頃だったか。帰国する前から、覚悟はしていた。3年前の件もある。諸手を上げて歓迎されることはあるまいと、わかってはいたことだった。なるほど、先程の控えの間といい、自分の周りは思った以上に敵だらけと言うわけだ。ルトヴィアスは他人事のように、そう分析した。
無理矢理跪かされている若い侍官を、ルトヴィアスは眺めた。
きっと彼は、国王に心から忠誠を誓っているのだろう。だからこそ、父親を恨んでいるらしいというルトヴィアスから、大切な主人を守ろうとしたのだ。王族の前に立ちはだかるなど、しかも王太子になろうという王子の前に立ちはだかるなど、その場で手打ちにされてもおかしくない。それこそ命がけの行為だ。
「通しなさい」
穏やかで静かな声に、その場の誰もが息をのむ。ルトヴィアスも例外ではなかった。
大きいわけでも、厳しいわけでもないその声は、けれど昔から何故か人を落ち着かせ、そして従える力を持っている。
「心配はいらないよ」
奥の、扉の向こうから聞こえる父親の穏やかな声は、ルトヴィアスを通すまいとした若い侍官へのものだった。
「陛下…っ」
「ルトヴィアスを中へ通しなさい」
ルトヴィアスは何故か恐ろしくて、急に逃げ出したくなった。
――………デライン…。
無意識に後ろを振り返った。そこに『誰か』がいることを、期待して。
けれどそこにいたのは、仏頂面の首席秘書官だった。
「どうされました?」
「…いえ」
オーリオの問いに、ルトヴィアスは首を振り、前を向く。
オーリオを信頼しきったアデラインの微笑みが思い出されて、胃の底が煮える気がした。
――…べつに…。
別に、アデラインにいて欲しいと思ったわけではない。アデラインがそこにいてくれたら落ち着けるだろうと、考えたわけではない。
いつだって誰も助けてくれなかった。怖かろうが不安だろうが、一人で立ち向かうしかなかった。そうやって、ルトヴィアスはこれまで生きてきたのだ。アデラインがそこにいようがいなかろうが、自分が一人であることはかわらないのだ。アデラインなど関係ない。
――…関係ない。
「…失礼いたします」
ルトヴィアスは、父王の寝室への扉を開けた。
「先日はとんだ災難でしたな、殿下」
長引いた御前会議が終わり、執務室に戻ろうとしたルトヴィアスを、廊下で呼び止めたのは大公だった。
――…ああ、くそ。つかまった。
内心の舌打ちを隠して、ルトヴィアスはにっこりと微笑む。
「大叔父上。災難とはなんのことでしょう?」
「陛下のご寝所に入るのを止められたとか」
「そのことですか」
そんなこともあったな、という風体で、ルトヴィアスは頷いた。
「陛下への篤い忠誠心からの行動ですから、私は気にしておりません」
「殿下はお優しいですな」
「とんでもない。大叔父上を見習っているだけです」
猫撫で声でルトヴィアスに近づいてくる大公に、ルトヴィアスは仕方なく撫でられてやることにした。
ルトヴィアスにとって、大公は昔から気にくわない大叔父だ。祖父に媚びへつらいながら、自らの馬鹿息子が王位に相応しいと、ルトヴィアスとルトヴィアスの父をずっと牽制してきた。そのくせルトヴィアスの父・リヒャイルドが即位すると、掌を反したように追従するようになった。
そしてルトヴィアスにはこの態度だ。ルトヴィアスにうまく取り入って、国政に介入するつもりなのだろう。
下劣な男、かと言って数少ない王族の年長者である大公を、無下にすることも出来ない。
――…これ以上敵を増やしたくないからな。
ルトヴィアスの前に立ちふさがった侍官は、どうやら王宮から追放になったらしいと聞いた。王子の前に立ちふさがるなど普通は極刑ものだが、忠誠心からの過ちであるからとルトヴィアスが宰相に温情処置を指示したのだ。はっきり言って、国王派への懐柔策である。これで自分に向けられる敵意がなくなるとは思わないが、やらないよりはマシだろう
あの後、ルトヴィアスは父親に再会した。
『ルト』
愛称で呼ばれ、枕元に寄る。
穏やかな、優しい瞳は昔のそのままだったが、父親が10年前より更に痩せていたことに衝撃を受けて、何を言えばいいのかわからなかった。
『おかえりルト』
『…ただ今、戻りました』
それだけ言うのが、やっとだった。
『…リーナがいたら…どれほど喜んだか…』
父王の瞳が陰る。
その瞬間、ルトヴィアスの頭の上に猫が飛び乗った。気づけば、父親相手に猫をかぶり、当たり障りのない言葉を連ね、ルトヴィアスは早々に寝所から逃げ出していた。
これでは、父親を恨んでいるという噂に拍車をかけてしまうということは分かっていたが、どうしても、どうしても父王の前に長居することは出来なかったのだ。
――…20才にもなって父親にベッタリする方が気色悪いだろ。
心の内で繰り返したそれは、ルトヴィアスが退出する際に父が見せた寂しそうな表情への言い訳だ。
「嬉しいことを言ってくださる。ところで殿下―…」
そういえばこのいけすかない大叔父に捕まったところだった。何かうまいこと言ってさっさと逃げ出そうとルトヴィアスは頭の中で算段を始める。けれど、その算段は無駄に終わった。
「お話中失礼いたします。殿下、急ぎ決裁頂きたい書類が届きまして」
オーリオが、横から大公の話を遮ったのだ。
「では大叔父上、もうしわけありませんが私はこれで」
強引に話を畳んで、ルトヴィアスは大公に瀬を向け歩き出す。
――…よし、助かった。
廊下の角を曲がったところで、後ろを黙ってついてくるオーリオに礼を言った。
「礼を言います。助かりました」
「いえ」
オーリオは短く応じて、また黙る。
――…やりにくい…。
宰相の前で猫をかぶるのはやりにくかったが、まさかその甥の前ではそれ以上にやりにくいとは…。
宰相から推薦されてルトヴィアスの首席秘書官になったオーリオは、文句なしに優秀だ。
経済、政治、歴史と知識は広く深く、大陸で使われている言語の殆どを操れるし、皇国語にいたっては読み書きも完璧だ。ルトヴィアスが出す指示の幾手か先を読んで、必要な手筈を整えるし、政務にまだ慣れないルトヴィアスが、書類を溜め込まずに決裁出来るのはオーリオのおかげだろう。
しかも、さきほどの大公のようにルトヴィアスにまとわりついて離れない者を、強引にルトヴィアスから引き剥がしてくれる。 正直助かるが、あまりにバッサリやるので、オーリオが罰せられはしないかと心配になるくらいだ。
優秀で、つかえる秘書官。
けれどこのオーリオという人物を、ルトヴィアスは掴みかねていた。
普通、ルトヴィアスの飼い猫は、大抵の人に好まれる。見た目も行儀もいいので、誰からも好かれるのだ。まぁ、そう計算してルトヴィアスは猫をかっているのだが。
だが、オーリオはルトヴィアスに対して態度を軟化させようとしない。ルトヴィアス付きの侍官が言うには、オーリオは融通がきかず、愛想笑いやお世辞も言わないため、王宮での評判はあまり良くないらしい。その冷たいほど冷静な性格のせいか、背も高く顔立ちも整い、しかもマルセリオ家の後継ぎと目されているにもかかわらず、各家の令嬢や女官をはじめ女性陣からすこぶる嫌われているともきいた。
――…例外も、いるようだがな…。
国王派と反皇国派が派手に言い争った控えの間。
アデラインがオーリオに見せた微笑み。
考えないように、思い出さないようにすればするほど、考え、思い出してしまう苛立ちに、ルトヴィアスは目を伏せた。
あの時、何を話していたのかはきこえなかったが、アデラインの微笑みは、ごく親しい、信頼を寄せる相手に見せるものだった。
アデラインの家庭教師をしていたと、オーリオ本人から聞いたのはアデラインが王宮から退出してからだ。ああ、だからアデラインがなついているのかと納得する一方で、何故かそれが気にくわない。
初対面に限りなく近い婚約者より、家庭教師だった従兄と親しいのは当たり前だ。頭ではわかっていても、ルトヴィアスの中で、苛立ちは燻り続ける。
「アデラインお嬢様がご挨拶にお見えになりました」
執務室に戻ると、侍官がそう報告してきた。その知らせに、一瞬ルトヴィアスの心の燻火が消える。
「アデラインが?」
「また改めてご挨拶したいと仰られていました」
侍官はそう言うと、後ろにいた新入りの侍官に声をかけた。
「殿下がお戻りになったと、お嬢様にお知らせしてきなさい」
「かしこまりました」
新入りの侍官が、頭をぺこりと下げてから行こうとするのを見送っていたルトヴィアスの視界の隅に、オーリオが入り込む。
ここにアデラインが来れば、オーリオと顔を合わせるだろう。そしてアデラインは微笑むのだ。オーリオにむけて。
「――…っダメだ!!」
ルトヴィアスの突然の大声に、室内にいた侍官達や、騎士、第二秘書官やオーリオが、驚いて手を止めた。けれど一番驚いていたのはルトヴィアス自身だ。
「あ…いや…」
ルトヴィアスは、慌てて頭上の猫をかぶりなおした。にっこりと、品良く侍官に微笑みかける。
「呼びにいく必要はありません。私が行きます」
「殿下が?」
「かまいませんね?オーリオ」
ルトヴィアスが確認すると、オーリオは淡々と答えた。
「結構です」
「すぐに戻りますから、君はここにいてかまいません」
「かしこまりました」
一礼するオーリオや侍官達を置いて、ルトヴィアスは執務室を出た。
「…女々しい…」
「殿下?何か仰いましたか?」
警固のために付き従う騎士が、首を傾げる。
「いいえ。何も」
すかさず笑顔で振り返るルトヴィアスに、騎士達はそうですかと疑う様子もなく引き下がった。
――…何で俺がこんな小細工…。
我ながらなんて女々しい小細工だ。
こんなことしても、オーリオがルトヴィアスの秘書官でいるかぎり、アデラインと話す機会は多いだろうし、マルセリオ一族内の集まりでもあれば、二人は従兄妹なのだから間違いなく顔を会わせる。はっきり言って無駄な足掻きだ。
消えたと思っていた苛立ちが、ルトヴィアスの中でめらめらと音をたてて燃え上がり始める。
――…ああ、くそ!
瞬きするたびに、オーリオに微笑みかけるアデラインがちらつく。
ルトヴィアスをはじめとして他者には冷徹なオーリオも、心なしかアデラインだけに対しては表情を緩めていた。
――…従兄…。
オーリオはアデラインより5才年上だ。アデラインがルトヴィアスと婚約さえしていなければ、血筋も近く、年回りもいいオーリオが、アデラインの婿になりマルセリオ家を継いだだろう。
「…………」
あと十歩も行けば、アデラインがいる部屋の扉の前というところで、ルトヴィアスは立ち止まった。
幻聴なのか、それとも実際に扉の隙間から室内の声が漏れ聞こえているのか、アデラインの笑い声が聞こえる気がする。
「…………」
アデラインに、オーリオを見ないで欲しい。
ルトヴィアス以外のものを見て、笑わないで欲しい。
それが出来ないなら、その夜のような黒い目を閉じていて欲しい。
「…どれだけ身勝手なんだ。俺は…」
「…あの?ルトヴィアス殿下?」
立ち止まったまま動かないルトヴィアスに、騎士の一人が遠慮がちに声をかけてくる。
「アデラインお嬢様のお部屋はそこですが…」
「用事を」
「え?」
「用事を思い出しました」
くるりと、ルトヴィアスは踵を返した。
「シヴァ」
シヴァがぶるる、と鼻を鳴らす。
用事などあるわけもなく、訪ねるような親しい人物も勿論いない。ルトヴィアスが逃げ込んだのはシヴァの厩舎だった。
ここにはいくら護衛のためでも、騎士達は入ってこない。聖獣の厩舎は、いわば王族の私的空間でもあるからだ。それにしても、王太子にもなろうという身分で、逃げ場所が厩舎だけというのも情けない。ルトヴィアスはため息を落とした。
「…どうした?」
ルトヴィアスの手にシヴァが鬣を擦り付けるような仕草を繰り返す。
見ると耳の近くの長い鬣が絡まっている。
「気になるのか?」
ただでさえ天馬は神経質な生き物だ。シヴァは特に細やかで、ストレスをためやすい。
ところが、ルトヴィアスが手を伸ばすと、シヴァはそれには首を背けて触らせまいとする。
「……何だよ…」
不満げに、シヴァはまた鼻を鳴らした。ルトヴィアスはその様子に、うんざりとため息を落とす。
「……アデラインはいないんだ。わがままを言うな」
天馬の所有はルードサクシード王家の直系男子にのみ許された特権。
ルトヴィアスの誕生からまもなく、高原の天馬の巣から抜き取られた両手のひらほどの大きさの卵は、ルトヴィアスの成長とともに大きくなり、ルトヴィアスの5才の誕生日に、中から殻をやぶってシヴァが出てきた。
翼がまだ生えておらず、その大きさといい、シヴァは天馬というより白い子犬のようで、まるで親鳥のあとをついて回る雛鳥のように、シヴァはルトヴィアスの後をついて回った。
月が出ない夜は、ひどく鳴くので、ルトヴィアスは寝台にシヴァをいれて撫でてやる。するとルトヴィアスにくっついて寝息をたて始めるのだ。
ルトヴィアスが甘やかしたせいか、その後もシヴァはルトヴィアス以外の人間には馴染まず、そのせいでルトヴィアスが皇国へ人質に行く時も、結局連れて行かざるを得なかった。
これはシヴァの為にもよくないとルトヴィアスは考え、 自分以外の人間にも慣れさせる為に厩舎係やたまたま通りかかった騎士などにシヴァの鬣をすいてもらっていたのだが、シヴァは黙ってされるままになってはいたが、やはりルトヴィアス以外の人間に懐くことはなかった。これはどうしたものかと、シヴァの人見知りはルトヴィアスの密かな悩みだったのだが…。
ところが、シヴァはあっさりアデラインになついた。
しかも鬣をすくのはアデラインと決めてしまったらしく、近頃はルトヴィアスにも触らせないのだ。
アデラインの何を、シヴァはそれほど気に入ったのだろう。
アデラインのすき方が上手いのか、それとも主人の…、ルトヴィアスの心に呼応しているのか――…。
「………」
――…嫌な…感じがする。
まるでそこに病巣でもあるかのように、ルトヴィアスは胸を押さえる。
ルトヴィアスは、自分の心がアデラインに傾きはじめていることに気付いていた。
――…3年…。
3年たった。
一人の女に振り回され、心を磨り減らし、けれど結局、何一つ得られなかった。
初めての恋を失った日。
もう二度とこんな愚かしい行為はすまいと、ルトヴィアスは誓った。
誰にも、心を傾けたりするものかと。
「くそ…」
ルトヴィアスはシヴァの鬣に顔を埋める。
太陽と、干し草の匂い。
シヴァが、慰めるかのようにルトヴィアスに顔を寄せた。
ギイ、と軋む音をたてて、厩舎の扉があいた。
誰が入ってきたか、見なくても足音でわかる。
「やっぱりこちらでしたか」
「……」
まるでルトヴィアスの行動などお見通しだと言わんばかりの言葉に、腹の底がざわつく。
実際、彼女にはお見通しなのかもしれない。
嘘をつくと夜の闇が襲ってくるのだと、大昔に母親が言っていた。アデラインの目はその夜色だ。何もかも、本当は見透かしているのかもしれない。ルトヴィアスの弱さも。
無言のルトヴィアスにかまわず、アデラインはシヴァの鼻筋を撫でる。
「シヴァ久しぶりね」
シヴァが嬉しそうに嘶く。
愛馬に裏切られた気がして、ルトヴィアスは憮然とした。
アデラインが動く度、髪が揺れて艶めく。
胸元に水晶のビーズをあしらった灰青色のドレスは、国境から戻る旅の途中でも一度着ていたのを見たことがある。
アデラインの雰囲気によく似合うドレスだ。…が、少しばかり胸元があきすぎていないかと、以前にも思ったことと、同じことをルトヴィアスは思った。
日に焼けていない白い肩が、やけに目にはいる。
「殿下、あの……」
不意にこちらを向いたアデラインから、ルトヴィアスは反射的に顔を逸らした。
「…殿下?」
「…べつに」
アデラインがここに来たということは、御前会議が終わったことを知ったということだ。
つまりアデラインがルトヴィアスの執務室に来たか、戻らないルトヴィアスを探してオーリオがアデラインの部屋に赴いたか…。
いずれにせよ、オーリオもこの白い肩を見たのだ。ルトヴィアスより先に。
――…やっぱり、無駄なあがきだった…。
分かっていたことなのに、苛立たずにはいられない。
「――…」
「あの、先日の国王陛下への謁見の話聞きました」
アデラインが少し遠慮がちに切り出した。
――…ああ、そのことか…。
アデラインのことだ。話を聞いて随分気をもんだことだろう。
安心させてやりたい。
そうは思うのに、一方で苛立ちがおさまらない。
「お前が気にすることじゃない」
ルトヴィアスの口から出た言葉は、突き放すように棘を含んでいた。
棘を敏感に察知して、アデラインの表情が微かに歪む。
「…そ、そう、ですね…」
痛みを誤魔化すように、アデラインはぎこちなく笑った。
「へ、陛下とは何を話されました?10年ぶりですもの。お話も弾まれたでしょう?」
「それこそお前には関係ない」
アデラインの笑顔に亀裂が入る。
「すみません…」
とうとう、アデラインは俯いてしまった。
――…もう、行ってくれ。
ルトヴィアスは拳を握り締める。
早くアデラインに逃げ出してほしかった。これ以上傍にいても、ルトヴィアスの苛立ちをぶつけてしまうだけだ。アデラインは何も悪くないのに。
「あの…晩餐会のドレスを工房で作ってもらうことになって…色を悩んでいて、あの」
アデラインは俯いたままだ。無理に明るい声が、かえって痛々しい。
「…オーリオに相談したらどうだ」
ルトヴィアスの冷たい拒絶に、アデラインが顔を上げる。
どんな表情をしているかは、ルトヴィアスにはわからなかった。視界の端にすら彼女をいれまいと、顔をそむけ、更にはシヴァの足に視線を固定していたからだ。
「………私…お邪魔なようなので今日は失礼させていただき、ます…」
軽く膝を折って略式の礼をとると、アデラインはそのまま数歩下がり、くるりと方向転換した。そして半ば走るようにして、厩舎から出ていった。
バタンと厩舎の扉が閉められ、ルトヴィアスはその場にしゃがみこむ。
「――…っ」
望み通りアデラインは行った。
なのに、厩舎の空気が突然冷たくなった気がして、身が凍えた。そして、押し潰されそうなほど重い罪悪感。
――…傷つけた…。
とても立ってはいられなかった。
ぶるる、とシヴァがルトヴィアスに顔を寄せる。
責められているような気がして、ルトヴィアスは言い訳を口にした。
「…いいんだ。これで」
遠ざけて、避けて逃げて、顔を見ずにいられれば、きっと心の均衡を保てるはずだ。
そうすれば自分でさえもて余す苛立ちで、アデラインを傷つけずにすむ。
ただの政略結婚の相手として、適度な距離を保ちつつ、彼女に接することができる。
――…あんな顔をさせたいわけじゃない。
傷付けたくない。
笑っていて欲しいのだ。
だから、心の均衡を崩してはいけない。
これ以上、心がアデラインに傾いては、アデラインを押し潰してしまう。
けれどルトヴィアスは知っていた。
傾きつつある、ということは、既に傾いていることを。
手遅れだと感じつつも、ルトヴィアスにはアデラインを遠ざける他に、やりようがなかった。




