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第十九話 帰都

ところで先日、アデラインがルトヴィアスの馬車ではなく宰相の馬車に乗った件に、妙にルトヴィアスはこだわった。

アデラインはルトヴィアスの馬車に乗って仕立て屋に行くとルトヴィアスの警備体制に影響がでてしまうと考えて、宰相の馬車を選んだのだが、ルトヴィアスはその事情を説明した後も『それならそうと言え』『気にした俺は馬鹿か』とよくわからない独り言を不機嫌そうにボソボソこぼしていた。

「買い物くらい付き合ってやるから、必要な時は言え」

最終的にはルトヴィアスはそう言って、アデラインは再びルトヴィアスの馬車で移動することになった。

以前はアデラインを苦しめたルトヴィアスと二人だけの空間は、今ではそんなことはない。

ルトヴィアスはアデラインの雑談に応じてくれるし、逆にルトヴィアスが話しかけてくることもあった。そうやって共通の話題が増えると徐々に会話も無理なく続くようになり、時折訪れる沈黙も、不思議と以前のように重くはない。

そんなふうに四六時中二人でいるようになって、アデラインは気が付いたことがいくつかある。

休憩で馬車が停まっている時。ルトヴィアスが侍官や騎士達を少し離れたところに待たせて、林の中に一人立っていたことがあった。

「殿下?」

声をかけると、ふりかえったルトヴィアスは人差し指を口元にあてて『静かに』という仕草をして見せた。

「どうしたのです?」

声を潜めてアデラインが尋ねると、ルトヴィアスは枝にとまっている鳥を指差す。

「ゆきすずめだ」

「…ゆきすずめ?」

アデラインは鳥を仰ぐ。よく見るすずめより少しばかり大きなその鳥は、翼の上の方が雪が積もったように白くなっている。

「雪が…翼に雪が積もっているみたいですね」

「そうだ。だからゆきすずめ。『ゆき』というわりに寒がりで大陸の南の方にしか生息しないはずなんだが…ルードサクシードにもいるんだな」

小さな可愛らしい鳥を見上げるその横顔が無邪気で屈託なく、アデラインは嬉しくなった。

「殿下は鳥にお詳しいんですね」

「…べつに。そうでもない」

ルトヴィアスは照れたのかその場では否定したが、その後も馬車の中から空を飛ぶ鳥の群れを見つけてはアデラインに名前を教えてくれたり、昼食を屋外で摂っていた時に人懐こく寄ってきた小鳥に話しかけたりと、どうやら鳥が好きらしい。シヴァの件もあるが、どうやら動物には弱いようだ。

ちなみに、この小鳥と話していた時、彼は後ろにアデラインがいることを一瞬完全に失念していたらしく、アデラインと目が合うと、顔を赤くしてわざとらしい咳払いをして誤魔化そうとしていた。

それから、彼は食べ物の好き嫌いが多い。

一匙(ひとさじ)口に含んで、出してしまう時がある。しかも彼はその料理を見るのも嫌なのか、オーリオを呼んで大皿ごと下げさせてしまう。見かねて、アデラインは口を出したこともある。

「王子殿下ともあろうお方が…お行儀が悪いですし、料理した者に失礼ですよ?」

それに、いちいち呼ばれるオーリオも気の毒だ。ところが、ルトヴィアスはアデラインの諫言もどこ吹く風で、挙げ句の果てには…。

「俺の食べられる物を作らない方が悪い」

などと言い、行いは一向に改まらない。

最初はオーリオもアデラインと同意見だったらしいが、数度続くと諦めたようで、何も言わずに大皿をさげるようになった。

以前ルトヴィアスの食事の仕方が不自然だと思ったのは、つまりは彼はどれが自分が食べられるのかを、最初に確認していたというわけだ。

完璧な王子だ、理想的な後継ぎだと言われているルトヴィアスが、実は好き嫌いが多いなど、笑うに笑えない笑い話だ。

けれどその笑い話は、随分と年上の大人の男性かのように思っていたルトヴィアスが、実は2才しかかわらない同年代の青年だとアデラインに思い出させてくれた。

ルトヴィアスが、大人になることを強要された環境の中で、それでも大人になりきれない部分もあるのだと思うと、ルトヴィアスはアデラインにとってより身近で、親しみがもてる存在に変化した。

二人の距離を近づけてくれた功労者として、シヴァは忘れてはならない存在だ。

朝食の後、ルトヴィアスは自分が食べ終わっても席を立たなくなった。一緒にシヴァに会いに行くため、アデラインが食べ終わるのを待っていてくれるようになったのだ。

掃除をするルトヴィアスを、シヴァの(たてがみ)(くし)ですきながら見守ることがアデラインはとても気に入っている。

シヴァを介してルトヴィアスの穏やかな表情を見ることが出来るこの時間が、何より大切なものだと感じていた。

アデラインとルトヴィアスの距離感が友人や、幼馴染みのようなそれになった頃、当初の予定より遅れたものの、一行は王都にようやく帰都した。




先日の神殿と同様に、ルトヴィアスを一目見ようと集まった民衆は、都の中心を貫く大通りを埋め尽くし、それが王宮まで続いている。

民衆に押し潰されそうになりながら警備する騎士団の面々の中に奮闘するデオとライルをアデラインは見つけた。馬車の中から一瞬だけ見えただけなのだが。

「厩番の方がよっぽど楽だっただろうに気の毒に」

アデラインと同じくデオとライルを見つけたらしいルトヴィアスが、意地悪そうな顔で笑った。

「そうですね。こんな人混みの中で警備なんて…それこそ罰則みたいだわ」

アデラインも笑った。何にせよ彼らの謹慎処分が解かれたのは喜ばしいことだ。

完璧な笑顔で人々に手を振るルトヴィアスの横で、アデラインもひきつりながらも微笑んだ。

自分が手を振ったところで喜ぶ人がいるのだろうか、そもそもアデラインがどういう立場なのか理解している民衆がいるだろうか、と内心疑問だったが、そんなことを口に出せば、ルトヴィアスに鼻をつままれてしまう。

ルトヴィアスの妃になると決めたのだから余計なことは考えず、やるべきことをしようとアデラインは沿道に微笑んだ。

けれど、慣れないことをしたせいもあり、徐々に顔の筋肉が強張ってくる。

馬車が大きく跳ねるように揺れ、堀にかかる橋を渡り始めると、ようやく民衆の目がなくなり、アデラインはたまらず両手で痛みを訴える頬を揉みほぐしした。

「…よくずっとその顔でいられますね」

「俺の猫は優秀だからな」

ルトヴィアスは神々しい微笑みをたたえたまま自慢気に言った。感心すべきなのか、呆れるべきなのか、アデラインには判断がつかない。

ルードサクシード建国時から残る重厚な石造りの城壁をくぐると、広がるのは広大な広場と大神殿だ。

女神の聖誕祭や、国の主要な祭祀はこの大神殿の中にある大聖堂で行われ、基本的に城壁の中には入れない一般の国民も、特別に許された時のみこの広場までは入ることが出来る。普段は騎士団が訓練に使っているが、今日は王宮と都の警備に出払っているらしく、広場には誰もいなかった。

広場と大神殿を通りすぎ、よく手入れされた並木道を行くと、ようやく王宮が見えてくる。

国王の居城にしては外観も内装も質素であるらしいルードサクシードの王宮は、アデラインにしてみれば十分に豪華だし、長い歴史を感じさせる荘厳さがあり、威圧感すら感じる。

久しぶりに見た王宮は、王子の帰還を喜ぶように少しばかり華やいで見えた。

二階のすべての窓から掲揚された国旗が、風になびいているせいかもしれない。

アデラインは、先程からルトヴィアスが一言も喋っていないことに、ふと気が付いた。

様子をそっと伺うと、ルトヴィアスも窓から王宮を眺めていた。眩しいのか、目を細めて。

10年ぶりの帰郷だ。さぞ感慨深いだろう。

「懐かしいですか?」

声をかけると、ルトヴィアスは少し驚いた顔でアデラインを振り返った。アデラインの存在を忘れていたかのようだ。

「…ああ、いや…変わってないなと思ってな」

ルトヴィアスは、また窓の外に視線を戻す。そのままポツリと、独り言のように言葉を落とした。

「…帰ってきたんだな…」

「…」

そのこぼれた一言は、まるで迷子の子供のように心細そうに、不安げにアデラインには聞こえた。

10歳でルードサクシードを離れて10年。母のリーナ妃は既に亡く、戦後、女官や待官の半分以上が入れ替わっている。もはや故郷はルトヴィアスにとって異国に等しいのかもしれない。母国に帰ってきたことを、ルトヴィアスが単純に喜べないのだとしても、仕方がない気がした。

アデラインは迷った。迷って、けれど意を決して右手でルトヴィアスの手をとる。

「…アデライン?」

戸惑うルトヴィアスにかまわず、アデラインは更に左手をルトヴィアスの手に重ねた。

「…よく、お戻りくださいました」

ルトヴィアスの手を包む指に、力をこめた。俯くルトヴィアスの目を、覗きこむ。

「おかえりなさいませ」

「…」

ルトヴィアスは、何も言わなかった。自らの手に重ねられたアデラインの手をじっと見つめ、そして、ゆっくり、おそるおそるという具合に握り返してくれた。




ルトヴィアスとアデラインが馬車を降りると、そこには大臣達をはじめ、貴族議会の議長、神官長、そして上級の侍官や女官が整列して膝まずいていた。

「出迎え礼を言います。立ってください」

ルトヴィアスがそう言うと、面々は顔を上げ、息を飲む。国境でルトヴィアスを出迎えた人々と同じように、彼の美貌に度肝を抜かれているのだ。

悠然とたおやかに、そして理知的に、ルトヴィアスは自分がどうすれば美しく見えるか、わかって微笑んでいる。先程の憂えた様子など、見る影もない。

――…単に緊張していただけだったのかも。

ルトヴィアスのあまりもの変わり身に、アデラインは少々呆れながらも胸を撫で下ろした。ルトヴィアスの少しだけ思い詰めたような様子が心配だったが、どうやらアデラインの杞憂だったらしい。

「さあ、どうぞ中へ。陛下がお待ちです」

大臣に促され、ルトヴィアスは歩き出す…はずだった。

「アデライン」

ルトヴィアスはアデラインを呼び、そしてその左手はアデラインへ差し出されている。

その瞬間、周囲の視線が一斉にアデラインに集中し、密やかにざわめいた気配がした。

ごくりと、アデラインは生唾を飲み込む。

――……ど、どうして…。

何故わざわざアデラインを呼ぶのだ。

呼ばれなくても、アデラインはルトヴィアスの後ろをついていくつもりだったし、ルトヴィアスもそんなこと分かっているはずだ。

――…ああ、そうだ。殿下は醜聞を払拭したいんだった。

3年前の醜聞を払拭するためにも、婚約者との仲が良好だと、周囲に印象づける必要がある。その為にルトヴィアスは、人前ではずっとアデラインを気に入って傍に置いているふりをしてきたのだ。

確かに、ここはルトヴィアスとアデラインの親しさを強調する絶好の機会だ。つまりはルトヴィアスのこの行動はそういうことなのだろう。

「…はい。た、だ今、参ります」

ひきつりながらも、にっこりと笑って、アデラインは進み出る。

視線が、特に女官の視線が痛い。

ひそひそと、女官同士が囁き合う言葉までは耳に届かないが、何を話しているのかは予想がつく。

ハーデヴィヒも言っていたが、アデラインごときが何故ルトヴィアスに気に入られたのか、誰もが不思議に思うようだ。

――…大丈夫。俯いちゃダメ。

下を向いて視線から逃げようとする癖を、アデラインは必死で堪える。

先日、ルトヴィアスが『いいんじゃないか』と言ってくれたドレスだ。

髪は、昨夜ミレーが特別な香油をぬり込み麻布に巻きつけて縛った時はどうなることかと心配したが、朝、麻布を解くと綺麗な巻き髪が出来上がっていた。その緩やかに波打つ髪には、真珠と水晶の小さな髪飾りをつけてある。派手な飾りではないが、アデラインが歩く度に揺れる様は、ミレーが美しいと太鼓判を押してくれた。

――…少なくとも、今日は女官には見えないはずだもの。

アデラインは、ルトヴィアスの手に 自分の手を重ねた。

すると、ルトヴィアスの指は、思いの外優しくアデラインの手を握ってくれたのだ。その指に、対外的な打算が感じられず、アデラインはルトヴィアスを見上げた。

「どうしました?」

彼は目を細め、頬を緩める。アデラインを甘やかすような、その表情と仕草に、アデラインは思わず赤面した。

「…あ、いえ」

アデラインは、軽く首を振る。

彼の表情が優しいのも、態度が柔らかいのも、ルトヴィアスが猫をかぶっているからだ。そうに違いない。本当に彼の猫は恐ろしい。ルトヴィアスが猫をかぶっていると知らずにこんなふうに優しくされたら、きっとどんな美しいたおやかな姫君や令嬢でも嵐のような恋に叩き落とされるだろう。

普段速足なルトヴィアスが、アデラインの歩調にあわせて、きもちゆっくり歩いてくれる。

――…何だか…まるで…大切にされている気になってしまいそう。

アデラインが婚約者でさえなければ、きっとルトヴィアスに愛されていると勘違いすることだろう。

――…婚約者、だから…。

愛されているわけではない。

ルトヴィアスがアデラインをきづかってくれるのは、国の借金返済の為と、それから夫の義務を果たしているだけに過ぎない。

――…ちょっと…寂しい気もするけれど…。

でも、それでいいのだ。下手に恋愛感情などもちこめば、今の良好な関係は崩れてしまうだろう。

――…間違えて恋なんてしないように気を付けなきゃ。

ルトヴィアスが求めているのは、隣にいて恥ずかしくない、王妃に相応しい伴侶だ。

恋は、必要ない。







ルトヴィアスの手に導かれて廊下を進み、そのまま謁見の間に行くのかと思いきや、二人が通されたのは控えの間だった。

謁見の間は国王が他国の大使と対面するなど、公的な行事を行う場だ。本来であればその謁見の間で、ルトヴィアスは父王に帰国の挨拶をする予定だったはずだ。

――…もしかしたら…。

もしや、国王は体調を崩しているのかもしれない。生来病弱な国王は、季節の変わり目などによく熱を出し、他国の大使との謁見も直前に取り止めになることも珍しくない。宰相とアデラインが国境に出立する挨拶をした時も、前日まで臥せっていたせいか、玉座に座っているだけでも気だるげな様子だった。

ルトヴィアスを囲うように、大臣達が椅子に座り、とりとめのない話をする。立派にお育ちになったとか、ルードサクシードもこれで安泰だとか、そんな話だ。

ルトヴィアスは大臣達の話に、穏やかに笑いながら、相槌を打っている。

賢者達の話に聖人が耳を傾ける神話の一節のようなその光景を、アデラインはルトヴィアスの隣の椅子に座って眺めていた。

壁際に控えていた初老の貴族議員が口を開いたのは、後ろの扉から女官達がお茶を持って入ってきた時だった。

「殿下におかれましては、墓前へご帰国のご報告にはいかれましたかな?」

おかしな質問だと、アデラインは思った。

大臣や貴族議員達は王都で留守居だったが、ルトヴィアスがリーナ妃の墓所に参ったことは当初から予定されていたことで議員たちは知っているはずだ。そもそも、議員が直接王子に話しかけるなど、礼儀として如何なものか。

大臣の一人が険しい顔で立ち上がる。

「無礼ではないか」

「かまいません」

短く、ルトヴィアスは大臣を止めた。

「母には帰国の挨拶はすませてきました」

ルトヴィアスが鷹揚に答えると、議員は否と、首を振った。

「いいえ。王妃様ではございません。前王陛下、お祖父様の墓前へは参られたのですかと、お尋ねしたのです」

室内の誰もが、瞬く間に凍りついた。

前王は、前の戦争の咎人としてリヒャイルド王に首をとられた。

咎人を歴代の王が眠る神殿へと埋葬することは出来ず、首のない遺体は、王都から遠く離れた地に、罪を犯した王族の一人として葬られている。首は降伏の証の一つとして皇国に献じられ、未だ戻されてはいない。

初老の議員の隣にいた別の議員が、宥めるように声をあげた。

「お慎み下さい。前王陛下の墓所は…」

咎人の墓を参ることは、親族でも禁じられている。

そんなことはわかっていると、議員は喚いた。

「それでも貴方は行かれるべきです殿下。前王陛下がどれほど貴方を愛されていたか、お忘れになったわけではないでしょう?」

「お控えを!前王は国を滅ぼしかけた罪人です!」

若い議員が言うと、また別の議員が声を荒げる。

「罪人とは何だ!前王陛下は名君であらせられた!」

「左様。前王陛下の墓前にご帰国の挨拶をされるのが筋でございましょう」

「殿下に反逆者になれと言われるか!」

「前王は暴君だ!」

「なんという…」

言い争いは瞬く間に議員達の間に燃え広がり、今にも殴り合いになりかねない。

「静粛に!王子殿下の御前だとお忘れか!」

「静粛に!」

オーリオや宰相の秘書官が必死に叫ぶが、怒号にかき消されてしまう 。

前王を支持しリヒャイルド王に反発する勢力は、戦後その殆どが粛清されたが、生き延びた者達もいる。皇国への恭順に不満を持っている派閥と合わせれば、無視できないほどの勢力になっていた。

それらの反皇国派と、若い世代を中心に国王の政策を支持する国王派との衝突は、近年ではリヒャイルド王や宰相の悩みの種だときく。そしてその争いの種が、ルトヴィアスの帰国で一気に発芽してしまったかのようだった。

「で、殿下…あの…」

とにかく、この騒ぎを静めなければならない。アデラインはルトヴィアスの外套をひいた。

「お声がけください。静まるようにと…このままでは怪我人がでます」

「…」

「…殿…下?」

ルトヴィアスは答えなかった。

景色でも眺めるかのように椅子に座したまま、微動だにしない。

その顔には、飼い猫による微笑みすらなく、仮面を張りつけたかのように、表情はぴくりとも動かなかった。宝石のような瞳にも感情の動きは見られず、無機質なその美しさに、アデラインは背筋を凍らせる。

――…前にもあったわ…。デオを廊下で蹴り飛ばした…あの時。

冷たい目。

怒りも、軽蔑も、すべて通り越し、そこにあるのは、諦めだった。人間という愚かな生物への。

ルトヴィアスは、見飽きているのだ。こんな争いを。幼い頃から繰り返し、繰り返し、争いを重ねる大人達を。

「…で、殿下」

――…こっちを見て。

アデラインは、すがるような思いでルトヴィアスの外套を強くひいた。

「ルトヴィアス殿下」

―― …お願い。

すぐにも国中に広がりかねない争いの炎の中で、ルトヴィアス一人が冷たく凍てつき、そのまま息が止まってしまいそうだ。

――…私を見て!

木漏れ日のような、あの温かい眼差しで。どうか。

「…っルトヴィアス…っ」 

振り絞るようなアデラインの声が、生まれて初めて耳に届いた音であるかのように、ルトヴィアスは肩を揺らした。

「……え?」

ルトヴィアスが、戸惑ったようにアデラインを見つめる。

碧の眼に感情の揺れが見えて、アデラインはようやく胸を撫で下ろした。

「殿下…」

しかし、アデラインがルトヴィアスを呼び続けている間にも、争いの炎は人々の心を焼き焦がし続けていた。言い争う議員達の声に、アデラインは状況を思い出す。

――…いったい、どうしたら…。

そして、その声は切り裂くように響いた。

「前王陛下の犠牲の上に、ルードサクシードが生き残ったことを殿下はおわかりにならないのか!そこまで皇国に飼い慣らされておしまいになったのか!?」

アデラインは愕然とした。

――…飼い…慣らすって…。

ルトヴィアスは、人質に行ったのだ。国のために。たった10歳で。それを、まるで間者が戻ってきたかのように言うなんて。

込み上げる悔しさと涙を、アデラインは必死に堪えた。

若い議員の一人が、中年の議員の胸元を鷲掴む。

「この…無礼者が!」

――…駄目!

何とかしなければと、焦るアデラインの視界の端に、部屋の隅で怯えて小さくなっている女官達の姿がはいった。その震える手にある茶器。

「…っ」

「アデライン!?」

呼び止めるルトヴィアスにかまわず、アデラインは立ち上がった。素早く部屋を横切り、女官から茶器をむしりとるように奪い…力いっぱい、床に叩きつけた。

陶器が割れるけたたましい破壊音は、強制的に室内に静寂を呼び込む。

「…とんだ不調法をいたしました」

アデラインは、にっこりと微笑んだ。指先でドレスをつまみ、花帽が落ちないように背筋をのばしたまま、軽く膝を折る。優雅に、格調高く。

「…大変、申し訳ございませんでした」

異常な熱気が立ち込めていた室内が、急速に冷えていく。

今にも相手を殴りかねなかった若者は、気まずそうに、その手から力を抜いた。

「皆様お話合いに熱が入って、喉が渇かれたのではありませんか?飲み物を用意いたしますね」

アデラインは女官に話しかける。

「大急ぎで新しい飲み物を」

「は、はい」

慌てて出ていく女官達と入れ違いに、宰相が入ってきた。

妙な空気にすぐに気が付いた宰相は、首を傾げて、娘に尋ねた。

「…何かあったのか?」

「…うっかり、手を滑らせてしまいましたの」

粉々になった茶器と娘を見比べ、 宰相は眉をひそめた。どうにも納得し難いようだ。

「私は何も聞いていなかった」

ルトヴィアスの声を、アデラインは振り返った。

椅子に座る彼は、穏やかに微笑んでいる。

「何も起こらなかった。そうですね?」

柔らかでいて、反論を許さない強い口調に、立っていた人々が渋々といった具合に、けれど次々と跪く。

――…殿下は…。

ルトヴィアスはわかっているのだ。下手な発言は敵を作ると。前王を擁護するにろ、父王を支持するにしろ、反対意見の派閥を敵に回す。

発言によっては父王と皇国に対する反逆と見なされてしまうし、内乱に発展してしまうかもしれない。

自分の存在が、この国に再び戦禍を招く可能性を、ルトヴィアスは自覚している。

――…私は…分かってなかった。

馬車の中から、不安げに王宮を見上げていたルトヴィアス。その胸の中を、少しも分かっていなかった。それが悔しい。

宰相が訝しがりながらも、ルトヴィアスに近づき何かしらの報告を始めると、議員達も立ち上がり、ぎこちなくも何事もなかったかのように空気が流れ始めた。

アデラインは屈み込むと、茶器の破片を拾い集める。すると、すぐ隣にオーリオが膝をついた。

「おやめください、お嬢様。お怪我をなさいますよ」

「オーリオ…」

「…お見事でした。やや強引でしたが…乱闘騒ぎにならずにすんだ」

褒められて、アデラインは複雑な気分で微笑んだ。

「いいえ。私は何も…」

問題を根本的に解決したわけではない。

ルトヴィアスの肩には、重すぎるほどの責任や、義務や使命が乗っていることを、アデラインは今ようやく実感したのだ。

果たしてそんなルトヴィアスを支えることが、本当に自分ごときに出来るのだろうか。

アデラインは手を止め、宰相と話し込むルトヴィアスを見つめた。

ルトヴィアスはアデラインの視線に気付くことなく、宰相と話し込んでいる。

――…優しい方だわ。

人の心の機微に敏感な、心の細やかな人だ。

そんな人が、あの戦争を、実の父親が祖父を殺すという形で迎えた終戦を、どんな思いで受け止めたのだろう。一体どれほど傷付いたことか…。

――…なのに、この国はまた、殿下を争いに巻き込もうとしている。

「…痛っ」

指先に走った痛みに、アデラインは顔を歪めた。ポツポツと、床に小さな血溜まりが出来る。

「ああ…言ったでしょう。お怪我をなさいますと」

オーリオは少し呆れたように言うと、小さな布をアデラインに手渡してくれた。

「これで押さえて下さい」

「オーリオ…殿下を守ってください」

オーリオの頬が、ピクリと反応した。

紺色の布が、アデラインの血を吸って黒く変色する。

「…守るなど…私ごときでは(ぶん)を越えます」

「貴方が出来ないなら誰に出来るの?あの方は難しい立場にいるのでしょう?私に出来ることはありますか?教えて下さい。オーリオ」

アデラインは必死だった。

あんな冷たい目のルトヴィアスは見たくない。

あんな目をしていたら、いつかルトヴィアスの心結は凍てついてしまう。いや、もしかしたら、もうしているかもしれない。

「…お嬢様がそうするほどの価値が、ルトヴィアス殿下にあるとは思えません」

ボソリと落ちたのは、突き放すような言葉だった。

信頼する従兄の硬い声に、アデラインは戸惑ってしまう。

「オーリオ?あの…」

「アデライン」

呼ばれて、アデラインは声を見上げると、ルトヴィアスがそこに立っていた。オーリオが軽く頭を下げ、数歩退く。

ルトヴィアスはアデラインの手元をみて、

「…指を切ったのですか?」

「あ、はい…」

オーリオとの話を聞かれたわけではないようで、アデラインはほっとした。守るなど、アデラインごときがあつかましいと、ルトヴィアスの気分を害したくはない。

ルトヴィアスはアデラインの手をとり、傷を確かめた。血はもうとまり、滲んでいる程度だ。

「手当てをして屋敷に戻って下さい。長旅で疲れたでしょう?ゆっくり休んで下さい」

ルトヴィアスの飼い猫が、優しく微笑む。

「ですが…陛下に謁見は…」

「謁見はなしです。父上は御気分が優れないそうなので」

アデラインの予想は当たったようだ。今までは、リヒャイルド王の体調が優れないときは、大公や宰相が、王代をつとめてきたが、きっとこれからは、ルトヴィアスが全てを担っていくことになるのだろう。

「そう…ですか…」

「公的な帰国の挨拶は後日に決まりました。私は内々に父の寝所を訪ねますが、貴方は屋敷に戻ってかまいません。ゆっくり疲れをとって下さい」

ルトヴィアスが、不意にアデラインの耳元に顔を寄せた。

「…さっきは助かった。礼を言う…」

すぐそばのオーリオにも聞こえない囁きに、アデラインは何故か目元が熱くなる。

――…私は…貴方に何もしてあげられないのに。

離れていくルトヴィアスの背中を、アデラインは堪らない想いで見送った。戦場に行く騎士を見送る恋人の心情に、その想いはよく似ているのかもしれない。ルトヴィアスを追って歩き始めたオーリオの腕を、アデラインは夢中で掴んだ。

「オーリオ!お願い…っ」

「…」

アデラインの言わんとすることを理解して、オーリオは難しい顔をしたが、結局深いため息と共に頷いてくれた。

「…お嬢様のお望みとあらば」

「…っありがとう」

アデラインは安堵の微笑みを浮かべ、オーリオの腕を離した。

ともすれば恋人同士の語らいに見えるその光景を少し離れた場所で見ていたルトヴィアスが、酷く傷ついた表情で俯いたことに、アデラインは気付かなかった。


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