第十八話 木漏れ日
8歳のアデラインが正式にルトヴィアス王子と婚約した、その日。
国王は、揃って婚約の挨拶をしたアデラインとルトヴィアス王子に満足し、とても上機嫌だった。
その夜の晩餐会。
ルトヴィアス王子の隣で彼と共に来賓客の挨拶を受けている最中だったアデラインに、年配の女官がそっと近づいてきた。
「王太子妃殿下がお呼びです」
囁かれ、アデラインは困惑した。
8歳のアデラインでも、今自分が退席するべきではないということが理解できる。
「でも…」
「国王陛下のお許しは頂いています。どうぞこちらへ。」
チラリと隣に視線を向けたが、ルトヴィアス王子はにこにこしながら、来賓客に挨拶し国王の話に相槌をうっている。
国王への拝謁に、諸外国からの来賓客や、大勢の王族貴族の前での婚約発表。挨拶。園遊会。また挨拶。そして晩餐会と、怒濤の行事予定を、流されるままにこなしていたアデラインは、ルトヴィアス王子とまともな会話をしていない。
――…私がいなくなっても、もしかしたら気付かないかも…。
王子に恋する小さなアデラインの胸は、しょんぼりと萎れてしまった。
「お早く」
「…」
アデラインは戸惑いつつも、両手でドレスの裾をつまみ軽くお辞儀をすることで、周囲に退席を示す。
先導する女官に従って大広間から出ると、すぐ隣の控え室で、王太子妃はアデラインを待っていた。
ルトヴィアスを生んだその女性は、ルードサクシードの宝石と讃えられる美女だ。ルトヴィアスと同じ金の髪に碧の目。そして真珠のように滑らかで白い肌に、薔薇の唇。
けれど王太子妃は石膏像のように表情を動かさない。
圧倒的な美貌とあいまって、アデラインは畏怖を覚えた。
「ここへ」
近くに寄るようにと手で示される。
「…はい、王太子妃殿下」
怒られるのではないかと、アデラインがビクビクと近づくと、王太子妃は不意に、アデラインの足元に屈んだ。
「あの…」
「手を私の肩へ。靴をお脱ぎなさい」
「え」
「聞こえませんでしたか?靴を脱ぎなさい」
堅い声に、アデラインは慌てて言うとおりにしようと足を動かしたが、踵に走った鋭い痛みに動きを止めた。
「いた…っ」
「靴があっていなかったのね。」
アデラインの足に、長い指が触れた。その冷たさに一瞬アデラインは震えたが、けれど冷たい指は、アデラインの足を丁寧に扱ってくれた。傷口が痛まぬように靴を脱がせ、そして自らの膝を足置き台代わりにしたのだ。
慌てたのは周囲の女官達だった。
「いけません妃殿下。ドレスに血が…」
「模様と思いなさい」
「リーナ殿下!」
女官の悲鳴をよそに、王太子妃は靴擦れで出血したアデラインの足を、ハンカチで綺麗に拭う。
レースがついた絹のハンカチにまだら模様に血が付いた。
それに気付いたアデラインの顔は青くなる。アデラインにもわかる高級品だ。母親が同じような品を大切にしていて、アデラインが人形遊びに使ったときはひどく叱られた。
謝らなければと思いつつ、恐れ多さにアデラインは息がとまりそうだ。
「いつから我慢していたの?」
屈んでいる王太子妃の顔は見えない。
美しくて、でも冷たい声に問いただされ、アデラインは小さい声で答えた。
「…あの…最初から…」
「まぁ!」
アデラインを振り仰いだ王太子妃は、眉間に深い皺を寄せていた。
ああ、やはり怒られるのだと、アデラインは首をすくめたが、いつまでたっても怒号は落ちてこない。
王太子妃は背後の女官達に指示を出した。
「いつもの塗り薬をすぐに持っていらっしゃい。それから子供用の靴を何足か用意して。当て布も。」
「かしこまりました」
女官達が一礼をして下がっていくのを見届けて、王太子妃はまたアデラインを振り仰ぐ。その美しい顔は、慈愛に満ちていた。
「かわいそうに、痛かったでしょう?」
アデラインへのいたわりを感じて、アデラインの中の彼女に対する畏怖は、途端に消えてしまった。
「…いいえ平気です」
アデラインは赤くなって首を振る。
「我慢強いのねアデラインは」
小さく笑った王太子妃は、ルトヴィアスとそっくりで、そして本当に美しかった。
「ルトヴィアスと一緒だわ」
「…ルトヴィアス殿下が?」
アデラインは思わずききかえした。
幼かろうとアデラインが恋する女であるには違いない。本人との会話はままならないが、ルトヴィアス王子に関する話なら何でも聞きたかった。
けれどアデラインの弾むような心とは裏腹に、王太子妃の表情は微かに曇る。
「ええ…我慢強くて…優しくて…かわいそうな子…」
視線を床に落とし、まるで一人言のようにこぼした。悲しげなその様子に、アデラインは何と声をかけていいのかわからない。ルトヴィアス王子もどこかに怪我をしているのだろうか。王太子妃はそれを心配しているのかもしれない。
「あの…あの、私…靴が素敵だったから…だから我慢出来たんです。ルトヴィアス殿下に頂いた靴が大好きだったから…だから」
自分でも何を言いたいのか、アデラインはよくわからなかった。そのせいで、口から出てくる言葉は、しどろもどろだ。
「きっと殿下も…好きなんです。えっと…何が好きかはわからないけど…だから我慢してて…でも好きだから…大丈夫だと、思い…ます」
アデラインは肩を落とす。王太子妃を慰めたかったのだが、うまくいったとは思えない。ところが、面食らったような顔でアデラインの話を聞いていた王太子妃は、嬉しそうに破顔した。
「ルトヴィアスは…果報者だわ」
「…え?」
「慰めてくれてありがとうアデライン。でも、我慢は大人になるまでとっておきなさい。今はまだたくさん我が儘を言って、私達大人を困らせておくれ」
優しい優しい、母親の笑顔だった。
この1年後、王妃になったリーナ妃は更に1年後に、34歳の若さでこの世を去る。
ルードサクシードの宝石と讃えられた王妃は、毒にもがき苦しみながら、夫の腕の中で息絶えたのだ。
先王アルバカーキは武断の王だった。軍事力を増強し、それを背景とした強気な対外政策は諸国との間で摩擦を生み、時に武力衝突に発展したが、アルバカーキ王は自ら軍を指揮し、常に自国に勝利をもたらした。
国内においては貴族議会を解体し、権力を国王に集中させ独裁体制を布いたが、議会の腐敗や賄賂の横行に辟易していた民には、決断力がある王として支持された。
ルードサクシードは国力を強め、大陸一の強国である聖ティランアジール皇国にせまる勢いだった。
しかしやがて老いたアルバカーキ王は、力に固執し始める。
王に異論を唱える者は投獄され、特に文治派の臣下はことごとく粛正された。更に、強気の対外政策は遂に聖ティランアジール皇国との武力衝突に発展する。
一年近くに及んだ皇国との戦争は、皇国の圧倒的な経済力と、軍略を前にして敗戦は濃厚だった。宰相が講和・停戦交渉を進言するもアルバカーキ王はこれを却下し、宰相を更迭。王による無謀な進軍で兵は疲弊し、国土は荒れた。皇国の軍が王都に迫り、王国が滅亡の危機にさらされる中、アルバカーキ王の首を挙げたのは、王太子リヒャイルドだった。
病弱な上に物静かな性格の息子をアルバカーキ王は侮り蔑ろにし続けてきたが、王太子リヒャイルドは病身をおして自ら父親の首に剣を突き立てたという。王太子はその場で即位。国王の権限をもって直ちに戦闘を停止させると、息子ルトヴィアスを人質に差し出すことで皇国に降伏、恭順を示した。
リヒャイルド王は貴族議会を復活させ、軍事力を必要最低限に縮小。農工を推奨する政策をうちだし、徹底して国内の生産力の再生を優先した。
しかし、この新体制に反発する勢力も少なくなかった。
アルバカーキ王時代のような先軍体制をと望む派閥が、各地で暴動を繰り返していたのだ。
そしてこの反国王派によりリヒャイルド王の妻・リーナ王妃が暗殺される。
リヒャイルド王は反国王派の粛正を決断し、これによりルードサクシード国内はようやく安定する。
以来ルードサクシード王国は王妃・王太子が空位のまま、皇国の犬と誹りをうけながらも生き長らえてきた。
離宮から馬車で四半刻ほどの場所に、その神殿はある。
戦時中、一度皇国に占領されたものの、ルードサクシード歴代の多くの王の霊廟であり、更に皇国が祖先とする聖人アジールを奉っていたことから破壊を免れた。今では礼拝に訪れる民が絶えず、墓所に捧げられた花束や花輪が静かな神殿を彩っている。
花の季節を過ぎ、緑の葉が繁る小米花の木の木陰に、神殿で最も新しい墓石が、まさに溢れるほどの花束に埋もれそうになっていた。
その様子が、死後7年たって尚も、民衆が故人に寄せる追慕を思わせる。灰色の墓石には、彼女の名前と生没年月日、そして追悼の言葉が刻まれていた。『ルードサクシードの宝石ここに眠る』と。
強い日差しに照りつけられて、黒衣で正装するアデラインは、じっとりと汗ばんでいた。せめて風があれば少しは過ごしやすくなるのだが、残念ながら気まぐれな風の精霊は何処かへか出掛けているらしい。
黒衣で居並ぶ貴族の人々は、皆暑さで苦悶の表情だ。
その中で、ルトヴィアスは長袖の黒い長衣の上に更に黒い外套を羽織り、見るからに暑そうだというのに、何食わぬ顔でたたずんでいた。常と違うのは聖人じみたあの微笑みがないことだ。
――…それはそうよね…。
ルトヴィアスが母親の墓前に立つのは、今日が初めてなのだ。
皇国が帰国を許さなかったため、彼はリーナ妃の埋葬に立ち合うことが出来なかった。
さすがの彼も、猫をひっこめているのだろう。
――…私も暑さなんて気にしていたらリーナ様に失礼だわ。
墓所に詣でるため、髪はまた三つ編みにしてまとめている。その分、立て襟のルトヴィアスよりは暑さがましなはずだと、アデラインは自分を励ます。
ところが若い神官達による死者を慰める歌が終わると、ひょっこりと現れた猫がルトヴィアスの頭に飛び降りた。
「素晴らしい歌をありがとう。母もきっと喜んでいるでしょう」
後光が差すかのような清らかなその微笑みに、神官達が神職にあることも忘れて頬を赤らめた。
外套を優雅にひるがえさせて、ルトヴィアスは振りかえる。
「皆も礼を言います。中で休んでください」
王子の言葉に、人々は礼をとって、ぞろぞろと移動をはじめる。その波に逆らい、宰相がルトヴィアスに近付いてきた。
「時間を多めにとってあります。お好きなだけ」
「…感謝します」
そう言うルトヴィアスは、既に人々に背を向け、母親の墓石を見つめている。
いつの間にか、彼の飼い猫はまたも不在だった。何の表情も伺い知れないルトヴィアスの横顔に、アデラインは少なからず衝撃をうけた。
――…一人にしてさしあげた方がいいのかも…。
宰相が黙って下がっていくのに、アデラインも一緒について行こうと一歩後ずさる。
「いい」
立ち止まったものの、聞き間違いかもしれないとアデラインは戸惑った。けれど聞き間違いではなかったようだ。
「いろ」
小さく、短く、ルトヴィアスの命令が下る。
「…はい」
了承の意とともに、アデラインはその場にとどまった。
墓所が点在する広大な中庭に、人影はルトヴィアスとアデラインのものだけだ。
普段は一般の平民も入れ、警備の騎士もいるのだが、今日は王族と限られた貴族以外は立入禁止になっている。
「…くそ」
ルトヴィアスが舌打ちし、釦を引きちぎるようにして首もとを緩めた。
その様子に、アデラインの胸はドキリと跳ねる。
見てはいけないものを見た気がして、アデラインは目を泳がせた。
色気というのは、多分こういうものなのだろうなと、不謹慎なことを考える。男性にも色気があることを、アデライン初めて知った。
緩めた襟をハタハタと動かして、ルトヴィアスは衣服の中に風を送りこんでいる。
「暑いな」
猫をかぶろうが、母の墓前だろうが、やはり暑いものは暑いらしい。
「中にはいります?」
アデラインは尋ねた。神殿は石造りで天井が高いため、外よりは涼しいはずだ。飲み物も用意されているだろう。
「…気がすすまないな。大叔父上がいるだろう?」
「…そうですね」
先日の夕食会の後、酔いが覚めた大公はルトヴィアスと宰相に謝罪し、二人はそれを受け入れたらしい。
大公にしても王位継承者と宰相の二人を敵に回すことは避けたいのだろう。かといって、わだかまりが何もなくなるわけではないし、大公は結局アデライン本人には一度も頭を下げていない。謝って欲しい訳ではないが、アデラインを侮って謝罪がないのかと思うと、やはり気分は悪い。出来ることなら、顔を合わせずにおきたいというのが本音だ。
ざわりと、小米花の葉が揺れた。
「…風が出てきたな」
ルトヴィアスが、空を見上げてほっと息をつく。
「それにしてもすごい花の数だな」
「リーナ様を慕う者は多いですから。春には小米花も咲くので、とても綺麗です」
「…よく来るのか?」
「時々……花が絶えてはお可哀想だと…でもそんな心配はいりませんね」
「そうみたいだな…」
ルトヴィアスの視線が、小米花が揺れるのを追いかけた。
「陛下が…お植えになったそうです」
アデラインが言うと、ルトヴィアスは頷いた。
「だろうな」
「…ご存じでしたか…」
「いや、母が好きだった花だから、そうだろうなと思ったんだ。…何で好きだったか知ってるか?」
まるで悪戯を打ち明ける子供のように、ルトヴィアスはアデラインに向けて口角を上げた。
以前のルトヴィアスからは想像も出来ない打ち解けた仕草だ。
昨日、アデラインが『貴方の妃になる』と言うと、顎がはずれはしないかとこちらが心配になるほど、ルトヴィアスは大笑いをしていた。
何故そこまで笑ったのか、理由はわからないが、とりあえず彼はアデラインの宣言と決意を好意的に受け止めてくれたらしい。アデラインに対する態度が、格段に和らいだ。
ルトヴィアスとまるで友人のようなやりとりが出来ることが、アデラインは素直に嬉しかった。
「白い色がお好きだったとか…?」
「いいや。好きだったのは星砂糖だ」
「…はい?」
星砂糖は、蜜と砂糖を煎って作る小球形の砂糖菓子だ。見た目がまるで星のようなので星砂糖と呼ばれている。
「星砂糖?」
「大好物だった。小米花は、星砂糖が木に連なっているように見えるんだそうだ」
クックッとルトヴィアスは喉を鳴らした。アデラインは笑うに笑えない。憧れていたリーナ妃の素顔を知れて嬉しいやら、何だが少し気が抜けるやら…。
「…しっかりした方だと思っていましたが…可愛らしい方だったんですね」
「笑っていいぞ」
そう言ったルトヴィアスの言葉に、何故か微かに棘が含まれているのを、アデラインは敏感に感じ取った。その棘はアデラインに対するものではなく、母親であるリーナ妃に向けられているようだ。
――…何故かしら…?
遠い記憶に思いを馳せた。
アデラインとルトヴィアスを、我慢強いと言っていた美しくて優しい人。
ルトヴィアスが彼女に、何故棘を剥くのだろう。
親子仲が良くなかったのだろうか。
けれど10年前のリーナ妃の口調からは、ルトヴィアスに対する愛情と親しみが感じられた。
――…もしかして…殿下が猫をかぶっていることに関係してるんじゃないかしら。
例えばルトヴィアスがリーナ妃の為に、自らの意に反して猫をかぶっていたとしたら。そしてその事に、リーナ妃が負い目を感じていたとしたら。ルトヴィアスの言葉の棘にも、あの日のリーナ妃の悲しげな物言いにも説明がつく。
けれどそうすると、ルトヴィアスは10才の時には既に猫をかぶっていたことになる。たまの客人の前で、短時間だけ行儀よくしているのとはわけが違う。
10才の子供に、自分を取り繕うなど、可能なのだろうか。しかも彼は当時から非の打ち所がない跡継ぎとして、前王や臣下から絶大な期待を寄せられていた。
それほど完璧に猫をかぶるなど、子供ができるとは思えない。
――…いいえ、むしろ…子供がそんなに完璧であることが不自然だわ。
アデラインは半ば確信した。ルトヴィアスは、きっとほんの子供の頃から猫をかぶっていたのだ。
けれどそれは、並大抵の忍耐力で出来ることではない。だからリーナ妃は言ったのだ。我慢強く、そしてかわいそうと。
――…でも…リーナ様はもう亡くなっている…。
リーナ妃の為に猫をかぶっていたのなら、もうその必要はないのではないか。今もルトヴィアスが猫をかぶり続けているということは、猫をかぶる理由は他にあるのかもしれない。では何故、ルトヴィアスは自分の母親に対しての言動に棘を含んでいたのか。
――…けど、リーナ様が殿下の猫かぶりを嘆いてらっしゃったのも、殿下がお小さい頃から猫をかぶってらっしゃったのも、多分的はずれな想像ではないと思うし…。
アデラインの頭の中で、絡まった情報がぐるぐると螺旋を作る。
堪らずアデラインはこめかみを押さえた。
「……複雑すぎるわ……」
「何か言ったか?」
「…いいえ」
こちらに顔を向けたルトヴィアスに、アデラインは力なく首を振る。ルトヴィアスは怪訝な顔をしつつも、何も言わずにまた墓石に目を移した。
もし今アデラインが、以前と同じ質問をしたら、ルトヴィアスは違う答えをくれるだろうか。何故、猫をかぶっているのかと問うたら―…。
多分彼は、以前のようにアデラインを睨み付けたりはしないだろう。けれど、答えはくれないような気がした。
ルトヴィアスは、おそらく自分の内面に立ち入られることを嫌がる。無理に踏みいって、せっかく改善されたルトヴィアスとの関係を悪くしたくはない。隣に立つことを許されただけでも、アデラインは幸運なのだ。
唐突に、アデラインは、ルトヴィアスが皇国で愛した女性のことを思い出した。
――…一体どんな方なのかしら。
かつては劣等感と敗北感が先立ち、その女性の人となりなど知りたくもなかった。けれど今は、無性に会ってみたかった。
ルトヴィアスはその人の前で、猫を脱いでいたのだろうか。その人は、ルトヴィアスが猫をかぶる理由を知っていたのだろうか。
アデラインが知らないルトヴィアスの皇国での暮らしを、その女性は知っているのだ。そのことが、アデラインは痛切に羨ましかった。
――……ダメね私…羨まないって決めたくせに。
アデラインは深く息を吸って、心を静める。
少しだけ意識して笑顔を作ると、それをルトヴィアスに向けた。
「殿下、せめて日陰に入りましょう。日にあたりすぎるとお体にさわりますから」
「…そうだな」
ルトヴィアスはアデラインに同意すると、半歩後ろに下がった。けれどそれ以上彼は動かず、アデラインの背後に目をやっている。
どうしたのかと、アデラインは首をかしげながらルトヴィアスの視線を追って振り向いた。
オーリオが、早歩きで近づいてくるところだ。
「オーリオ?どうしたのかしら?」
「ああ、確か従兄だったな。今日から俺の首席秘書官になった」
「そうなんですか?」
気心が知れた相手がルトヴィアスの、ひいてはアデラインの傍にいてくれることは頼もしく、嬉しいことだ。アデラインの明るい顔に、ルトヴィアスは小さく眉をひそめた。
「…嬉しいか?」
「え?あ…はい。あの…オーリオは優秀な方です。きっと殿下のお役にたちます」
「…」
何故かルトヴィアスは、不機嫌そうに口を閉ざす。その理由が分からず、アデラインは困惑するしかない。
「あ、あの…?」
「お話し中申し訳ありません。殿下、お嬢様」
「かまいません。何かありましたか?」
オーリオに応えるルトヴィアスは、もうしっかりと猫をかぶっていて、その本心は断片すら伺い知れない。
――…え?え?どうして?
何故ルトヴィアスの機嫌が急降下したのか、アデラインは先程のやりとりを必死に反芻する。その間にも、ルトヴィアスとオーリオの会話はすすみ、そして結論に辿り着いた。アデラインにおかまいなく。
「かまいませんね?アデライン」
「―…はい?」
ルトヴィアスに名前を呼ばれ、訊き返したつもりの返事は、了承ととられたらしい。
「ではそのように手配を」
「かしこまりました」
ルトヴィアスの指示に、オーリオは頭を軽く下げ、もと来た道を戻って行った。
「………あの?」
「行くぞ」
「え?」
オーリオの後を追うように歩き出したルトヴィアスの背に、アデラインは状況が掴めないまま付いていくしかなかった。
ルトヴィアスが緩めた首もとを、侍官が再び釦をしっかり留めていく。
先程まで暑いと文句を言っていたのが嘘のように、ルトヴィアスの表情は涼やかだった。対してアデラインはといえば、顔は青ざめ、両手を震えるほど握り締めている。
花帽の歪みをミレーが整えてくれた。
「風が出てきましたから、花帽を固定いたしましょうか?」
ミレーが尋ねたが、答えるのはアデラインではなかった。
「お願いします。髪も編みなおしてください。」
「かしこまりました。すぐに」
オーリオに言われて、ミレーは持参して来たらしいアデラインの小物入れから、黒い飾り紐を取り出した。
「急いでください。騎士団が押さえるにも限界がある」
人々のざわめきが、徐々に大きくなっているのを、アデラインも感じていた。
ルトヴィアスが帰都の前にリーナ妃の墓参りをする予定は、ルードサクシードの民には公表されていなかったのだが、どうしたことかこの情報が漏れ、神殿の広場にルトヴィアスの姿を一目見ようと民衆が押し掛けたのだ。民衆は神殿にもなだれ込む勢いで、騎士団が必死にそれを押さえている。あまりもの興奮で収集がつかなくなったため、結局ルトヴィアスが広場に面した露台から顔を出すことで、事態を沈静化させようという話になったらしい。問題はルトヴィアスの横に、アデラインが立つということだ。
「…どうして私まで…」
アデラインはボソリとこぼした。
未来の王妃として、公務で民間人と交流することは少なくはないアデラインだが、多くの民衆の前に公人として立つのは初めてだ。正直足がすくんでいる。
「殿下のご希望です。ご婚礼の際にも大神殿の前広場で民衆に顔見せがございますから、その予行演習とでも思ってください」
オーリオはやや心配げな表情ではあったが、アデラインが露台に立つことを止めてはくれなさそうだ。
「…で、殿下の?」
そろりとルトヴィアスに視線を回すと、それに気づいた彼はにっこりと微笑んだ。
「隣に君がいると心強いんだ」
まあ、とミレーが嬉しそうに胸を押さえた。ルトヴィアスとアデラインの仲睦まじさに感動したらしいが、アデラインにはルトヴィアスの頭の上で毛並みがいい猫が行儀よく鳴いたようにしか見えない。
――…こ、これも妃の義務だから…。
アデラインは自分を励ました。ルトヴィアスが一緒にと言ったからには、何かしら意図があってのことなのだ。…多分。
「よろしゅうございます」
ミレーがオーリオにむけて頷いた。鏡は見ていないが、三つ編みに飾り紐を編み込んで、それをさらに花帽に固定したらしい。花帽を固定するのはあまり褒められたことではないが、屋外での公式行事では仕方がない。大衆の面前で花帽を風に飛ばされては、アデラインの、ひいてはルトヴィアスと王家の品位に関わる。
「閣下、準備が整いました」
オーリオが声をかけると、宰相が隣室に続く扉から顔を出した。
「では、殿下。アデライン。こちらに」
促されて、アデラインの緊張は最高潮に達した。行かなければと思うのに、足が踏み出せない。聞こえてくる民衆の歓声が、耳の中で反響して雑音に変わる。
――…行か、なきゃ…。
ルトヴィアスの妃になると決めたのだ。その舌の根も渇かないうちに、逃げ出すなんて出来ない。
「アデライン」
呼ばれて、ルトヴィアスが手を差し出してくれていることに、アデラインはようやく気が付いた。
「手を」
「…」
そっと、アデラインはルトヴィアスの手に、自分の手を重ねた。昔と同様に、まるで美術品のような手は、けれど昔より大きく温かく、アデラインの指を包んでくれる。
その温かさに、アデラインの肩から無駄な力か抜けた。
「行きましょう」
ルトヴィアスは猫をかぶってはいたが、その目はアデラインをきちんと捉えてくれている。
「…はい」
異常な早さだった鼓動が、落ち着きを取り戻す。ルトヴィアスの手に導かれて、アデラインは歩き始めた。
オーリオが、侍官が、道を開ける。
ルトヴィアスとアデラインが入った部屋は、露台に繋がる硝子扉が開かれ、民衆の声が直接響いていた。
「急のことで警備が万全ではありません。すぐ後ろに騎士団長を控えさせますが、何かおかしな動きがありましたらすぐお下がりください」
「わかりました」
ルトヴィアスは頷くと、宰相の横をすり抜けた。
広い部屋を露台に向けて二人で進む。そのまま行くのかと思いきや、民衆から見えない位置でルトヴィアスは立ち止まり、ひそりとアデラインに話しかけた。
「一国の王太子の婚礼における経済効果が、どんなものか知ってるか?」
「………え?」
突然何の話だ。アデラインは眉をひそめた。けれどルトヴィアスは優雅な微笑みを崩さない。少し離れた宰相達から見れば、緊張しているアデラインを、ルトヴィアスが勇気づけているように見えるかもしれない。
「国を挙げての大規模な行事だ。国内外から身分に関わらずとにかく人が集まる。人が集まれば宿が必要だ。食堂は団体客に備えて臨時で人を雇うだろうし、仕入れも多めにする。商人達はここぞとばかりに関連商品を売り出すだろうな。例えば俺とお前が並んでる姿絵とか、お前が着る衣装と同じレースを使ったハンカチとか。そういう土産物は飛ぶように売れるそうだ」
「…殿下、あの?」
そろそろ話の着地点がどこなのか知りたい。ルトヴィアスが、すっと目を細めた。
「2年前の皇国の皇太子の立太子式。あの時の経済効果は、ざっと数百億といわれてる」
「――す、数百億…っ?」
アデラインは目を回した。お嬢様育ちで金銭感覚が鈍いアデラインでも、それがとんでもない金額だということはわかる。
「いいか、アデライン。うまくすれば来年の税収は倍だ。皇国への借金なんてさっさと繰り上げ返済してやる」
宰相達を背に、ルトヴィアスはフッフッフッと、口角を吊り上げる。
凄味を増したルトヴィアスの微笑みに、やや引き気味だったアデラインだが、国の借金が早くなくなるならそれはいいことだ。アデラインに出来ることがあるなら、喜んで何でもしよう。
「でもうまくするって…具体的にどうすれば?」
「簡単だ。俺達が仲睦まじく寄り添ってるだけで、民衆ってのは一目見よう、一言祝福を、とかけつける。」
「つまり、客寄せですか?」
「よくそんな商人の用語を知ってるな」
「…経済学で勉強しました」
教えてくれたのはオーリオだということは言わないでおこうと、アデラインは思った。
リーナ妃の墓前での件もある。もしかしたらルトヴィアスは、オーリオにあまりいい感情をもっていないのかもしれない。
確かにオーリオは愛想笑いも出来ないし、お世辞も言えない。物事をはっきりさせなければ気がすまない質だから、実は敵が少なくない。でもルトヴィアスならきっと、いつかオーリオを理解して、その能力を十二分に発揮させてくれるだろう。
「とりあえず笑え。出来れば俺のことが好きでたまらないって空気を醸し出せ」
「わ、私で大丈夫でしょうか?あの…お付きの女官だと思われないでしょうか?」
アデラインが今日着ている黒衣は、これまでアデラインが着ていた地味なドレスより、更に地味だ。喪服だから仕方がないとはいえ、髪も結局三つ編みだし、女官に間違われる可能性大だ。
ルトヴィアスは微笑んだまま小さく嘆息すると、アデラインの手をギリリと強く握り締めた。
「い?いたっ、い…で、殿下痛…」
「次は鼻だと言ったが、民衆に鼻が赤い婚約者を披露するわけにはいかないからな」
「で、殿下手っ手が…痛いですっ」
ルトヴィアスが手から力を抜いたので、アデラインはホッと息をつく。
「謙虚さは美徳というが、お前に限っては短所だな。王子がどうして女官の手をとって露台に出るんだ」
「そ、そうですけど」
長年培った弱気は、簡単にはアデラインから抜けてくれない。今だってルトヴィアスが手を引いていてくれなければ、すぐにも逃げ出すだろう。
「俺は卑下するなとお前に言った。お前はしないと決めた。そうだな?」
「…っはい!」
そうだ。決めたのだ。アデラインは噛み締めるように返事をした。
「よし」
満足そうに、碧眼が煌めく。
先日、新しいドレスを褒めてくれた時も、こんな風に彼は微笑んだ。
――…その表情は…ずるい。
木漏れ日のような、そんな目で見ないで欲しい。アデラインはその表情に弱いのだ。その表情をされたら、アデラインは何故だか体の中が熱くなって溶けてしまいそうになる。
火照った頬を隠す様に、アデラインは視線を落とした。
「また自己過少発言があれば今度こそ鼻をつまむぞ」
「え?そんな…」
以前にも言っていたが、本気だったのか。これ以上顔の形が悪くなったらどうするのだと、アデラインは反論するため口を開けたが、同時にルトヴィアスがまた歩き始めた為、口をつぐんでついて行くしかない。
「さあ、借金を返しにいくぞ」
ルトヴィアスの軽口に、思わずアデラインが吹き出して笑った瞬間。
歴代の王族達が驚いて、永遠の眠りから飛び起きかねないほどの歓声が、神殿の広場に上がった。




