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第十四話 夕食会

胡桃色のドレスは、全体的にひどく皺がよっていた。泣きつかれたアデラインが、そのまま寝台で眠ってしまったからだ。

夕方になっても起きないアデラインを、ミレーが何とか引っ張り起こそうとしたが、アデラインはまるで糸が切れた操り人形のように、横になったまま起き上がれない。

ミレーが何度濡れた布で涙の痕を拭い、化粧を施してくれても、いくらもたたないうちに、新しい涙が化粧を台無しにしてしまう。

泣き腫らした顔はひどいありさまで、髪は乱れてボサボサだ。

しかもアデラインの顔からは、表情という表情が削げ落ちていた。

話しかけても、頷くだけ。

声すら失ったかのような生気のないその姿は、まさに亡霊のようだった。

夕食会の時間になり、ルトヴィアスが部屋まで迎えに来てもそんな様子だったが、ルトヴィアスはといえば『さあ、行きましょうか』と優雅に微笑んで、エスコートの為にアデラインに手をかすだけ。

アデラインのとんでもなく哀れな姿など、目に映っていないかのようだった。いや、どうでもいいのかもしれない。

夕食会に出席したのは、アデラインとルトヴィアス、アデラインの父親の宰相、屋敷の主人夫妻と、娘のハーデヴィヒ。それから屋敷に滞在している王族の面々だった。

ルトヴィアスの隣にハーデヴィヒの席が用意されていたことで、アデラインはすぐに夕食会の趣旨を理解した。ここはハーデヴィヒを、ルトヴィアスに引き合わせる為の場なのだと。

ハーデヴィヒは昼間の菫色のドレスではなく、鮮やかな紅紫のドレスを着ていた。

人前で、しかも王子と宰相の前で、アデラインとドレスの色をかぶせるほど、彼女は無謀ではなかったようだ。

ハーデヴィヒのドレスは、紅藤色の糸と金糸で刺繍をいれ、豊かな胸元と細い腰を強調するように、体の線がよく分かる形の衣装だ。 首もとには大きな金剛石の首飾りが下がっている。耳にも涙形の金剛石の耳飾りをつけており、ハーデヴィヒが微笑むごとに、キラキラと輝いて彼女の美しさを引き立てた。背中まである見事な赤髪は、顔まわりを細い四つ編みにし、残りの波立つ髪と一緒に金糸で編まれた網状の髪飾りでまとめられている。花帽もドレスと同じように細かく刺繍され、中央にはやはり小さな金剛石が輝いていた。王宮でひらかれる夜会にそのまま出席できるほど、豪華で美しい完璧な装いだ。

給仕の侍従が、杯に葡萄酒をついで回る間、話題は当然のようにハーデヴィヒの美しさと、その装いでもちきりになった。

「ハーデヴィヒ嬢の美しさはまるで大輪の薔薇のようだ」

そう言ってハーデヴィヒを讃えたのは、ルトヴィアスの大叔父にあたる大公だった。

前王の異母弟にあたるこの大叔父は、普段から言動が軽挙に過ぎ、しかも酒癖が悪い。宰相とこの大公は互いに互いを良く思ってはいないようで、特にここ数年は緊張状態が続いていた。

ハーデヴィヒが、艶やかに微笑む。

「お褒めにあずかり光栄ですわ」

まさに薔薇が咲き誇るかのような微笑みだ。屋敷の主人が、自慢げに頷いた。

「我が娘ながら美しく育ってくれたと日々嬉しく思っているところです」

「ご令嬢は声もお美しいと聞きましたが」

他の王族からも、ハーデヴィヒに声がかかった。

ハーデヴィヒは、困ったように俯いた。

「お恥ずかしいですわ。すこし歌をたしなむ程度です」

「ご謙遜を」

「是非聴かせて頂きたいものだ。そう思われませんかルトヴィアス殿下」

そう言って、大公はルトヴィアスの同意を求めた。人々の視線が、一気にルトヴィアスに集まる。穏やかな微笑みで談笑を聞いていたルトヴィアスは、突然話を向けられてもたじろいだりはしなかった。

「ええ、勿論そう思います。大叔父上」

にっこりと頷くと、ルトヴィアスはハーデヴィヒに向き直り、その顔を見ながら言った。

「食事の後に一曲おきかせ頂けますか?ハーデヴィヒ嬢」

気品溢れるルトヴィアスの微笑みに、ハーデヴィヒは傍目にも分かるほどに見惚れていた。

「は、はい。私の歌を殿下に聴いていただけるなんて…光栄でございます」

一連のやり取りを、アデラインは完全に傍観者として眺めていた。

屋敷の主人がひどく満足げなところを見ると、どうやら大公をはじめとする王族達は、主人に頼まれて、ルトヴィアスとハーデヴィヒの間を取り持つ為に一芝居うったようだ。その見返りは金か、それとも何かしらの融通か。

ハーデヴィヒの父親は広大な領地を持つ。身分はさして高くないが、金銭的には並みの貴族よりよっぽど裕福で、その為にハーデヴィヒやその父親と親しくしたがる貴族、王族は少なくない。

――…あの噂は本当なのかも…。

大公は浪費家で、国から支給される多額の年給では足りずに、方々にかなりの借金を重ねていたらしい。国王の異母弟ということで、どこも快く貸してくれたらしいが、戦後、国と王家の財政が傾き、金銭的に困窮。破産寸前だったのだという。そこへハーデヴィヒの父親が資金援助をした。その見返りとしてハーデヴィヒを養女にし、ルトヴィアスの側室に押し上げるという約束をしたというのだ。

噂が本当なのかどうかはわからない。

けれどありそうな話だ、とアデラインは思った。

ハーデヴィヒがルトヴィアスの側室になれば、そして彼女がルトヴィアスの息子を生めば、大公の益になりこそすれ損なことは一つもない。

そしてハーデヴィヒは今、ルトヴィアスの隣に座っている。

少なくとも、ハーデヴィヒの父親が娘をルトヴィアスの側室にするために、あらゆる場所で金をばらまいているというのは、きっと本当のことだろう。

――…私には関係ないわ。

ルトヴィアスとハーデヴィヒの仲がどうなろうと、別にどうでもよかった。

おそらくアデラインがここにいるのは、ルトヴィアスが結婚前に婚約者以外の婦人と親しくするのは外聞が悪かろうと、宰相あたりが考えてのことだ。アデラインがいることで、ルトヴィアスは健全な社交の場に婚約者と出席したという建前を保てるわけだ。

会話に相槌を打つわけでもなく、愛想笑いさえもせず、アデラインは俯きがちに、ただ座っていた。

葡萄酒で杯が満たされると、屋敷の主人が簡単な挨拶をして夕食会が始まった。

ルトヴィアスとハーデヴィヒを中心に、楽しげな笑いが響く。

当然と言えば当然だが、アデラインには誰も話しかけない。

社交辞令を言おうにも、アデラインの装いは褒められるものではなかったし、まるで古びた人形か亡霊のような様子のアデラインと会話でもしようものなら、呪われてしまうと皆恐れたのかもしれない。

自分が透明になってしまったかのような感覚に、アデラインは居心地の良さを感じていた。

今までのアデラインは、夜会や晩餐会で必死に話題を探し、楽しくもない冗談で笑ったふりをしてきた。今はそれが馬鹿馬鹿しい。

――…もっと早くこうすればよかった。

アデラインが微笑もうが、話そうが、そもそも人々はアデラインに関心などないのだから。

もう少ししたら席を立とう。

後はハーデヴィヒの歌を聴くなり、何なり、好きにすればいい。

けれど、アデラインの予定通りに事は運ばなかった。

「それにしても今日のアデライン嬢はどうなさったのですか?」

酒が回った大公が、アデラインに話しかけたのだ。

アデラインだけでなく、部屋の全員が身をこわばらせる。触ってはいけないものに触ってしまったかのような空気に、酔った大公は気付かない。

「髪は乱れて、ドレスは皺だらけ。夕食会があることを聞いていなかったのですかな?」

ははは、と大公は笑った。

「…突然のお話でしたので、衣装が用意できず申し訳ございません」

俯いたまま、アデラインはボソボソ謝罪した。

しかし大公は、アデラインのその態度が、どうやらお気に召さなかったらしい。眉をピクリとひそめると、露骨に不機嫌な顔になった。

「何て可愛いげがない。前からおもっていましたよ。アデライン嬢。貴女には愛想が足りないってね」

「大公殿下。それくらいに…」

「いいや、こういうことはハッキリと言うべきだ。本人のためにもね」

横から止められても、大公はやめようとしない。杯に残っていた葡萄酒を一気に飲み干すと、アデラインの方に身を乗り出すようにしてきた。

「見てみなさい、ハーデヴィヒ嬢を。まさに薔薇だ。美しく上品。これこそ貴婦人のあるべき姿だ。それに比べてなんです。貴女は。まるで下働きの女中だ。いいや、もっと悪い」

誰かがクスリと笑った。

すると他の誰かが、またフフと笑う。

「皆さんもそう思われるでしょう?」

大公の呼び掛けに、誰も声をあげなかった。

宰相の手前、遠慮しているのは明らかだったが、その顔を見れば誰もが大公に同意していると容易に察することができた。

アデラインは拳を握り締めた。

集団は、残酷だ。

少しでも自分達と異なる個体には容赦がない。それが、弱く、自分より劣るものなら尚更。

特に上流層ともなると、人を見下しなれている分、いたぶることに対しても抵抗が少ない。しかも彼らは生活に余裕があるぶん単調な日常に退屈し、目新しいものを常に求めている。今、彼らはアデラインという退屈をまぎらわしてくれる獲物を見つけ、舌舐めずりしていた。

大公は気をよくして、立ち上がる。そしてまるで冗談を言うように、アデラインについてあげつらね始めた。

「ただでさえ貴女は容姿に華がないのだから、笑うくらいしたらどうです?まったく、我が国の未来の王妃ともあろう方が、皺だらけのドレスとは情けない。貴方は娘にどういう教育をして来られたのですか?宰相」

アデラインの隣で、宰相がピクリと身じろいだ。

「…至りませんで、申し訳ございません」

――…お父様…っ!

アデラインは父親に申し訳なくてたまらなかった。

宰相が、面と向かって大公に反論するわけにはいかない。ただでさえ緊張状態にある大公との関係を、これ以上こじらせて内政に影響を出すわけにはいかないのだ。

だから宰相は、大公に言われるまま、娘への侮辱を黙って耐えてくれている。

内心、どれほど(はらわた)が煮えくり返っていることか。

――…ごめんなさい、お父様…。

衣装をどうにかしろと、何度父に注意されただろう。けれどアデラインは俯くだけで、それに応じなかった。いや、応じられなかった。

「ドレスがないなら言ってくだされば私お貸ししましたのに。アデライン様なら菫色なんてお似合いになるんじゃなくて?」

ハーデヴィヒが優しげな微笑みで、アデラインに話しかけてきた。

何も知らない人からすれば、ハーデヴィヒが心優しい貴婦人に見えるだろう。事実、3年前までアデラインは、ハーデヴィヒの優しさを信じて疑わなかった。

けれど、ハーデヴィヒが必ずしも親切なわけではないと、アデラインはもう知っている。

「…ご親切にありがとう。ハーデヴィヒ様。でも…」

「ああ、ダメだわ」

アデラインの言葉を遮って、ハーデヴィヒは困ったように声をあげた。

「だってアデライン様とでは趣味が違いますもの。私のドレスではきっとアデライン様はお気に召さないわね」

くすくすと、ハーデヴィヒは肩を揺らした。

屋敷の主人も、その妻も、大公も、他の王族も、皆にやにやと笑っている。

普段のアデラインなら、泣いてこの場を逃げ出していただろう。けれど心が既に凍てついていたアデラインは、ただ小さくため息をついただけだった。

悲しくないわけではない、悔しくないわけではない。けれどアデラインは疲れきっていて、泣くのも逃げ出すのも億劫だった。一同が早くこの低俗な遊びに飽きて、またアデラインを忘れてくれるのを願うばかりだ。

大公が楽しそうに大笑いした。

「確かにハーデヴィヒ嬢。貴女のドレスはアデライン嬢の趣味ではありませんな。アデライン嬢は年寄りも選ばないような辛気臭い色がお好…」

「私が命じました」

場が、静まり返る。

今の言葉を発したのは一体誰かと、一同がお互いを見渡す。

その中で、また同じ言葉が繰り返された。

「私が、アデラインに命じました。辛気臭い色のドレスを着ろと」

アデラインは息を飲んで、父親とは反対側の隣に座る彼を見上げた。

ルトヴィアスは、いつものようにしっかり猫をかぶっていた。穏やかで優しげな、いかにも王子らしい微笑みを口許にたたえている。

けれど彼の纏う空気は、冷たく、硬く、そして鋭く尖っていた。

「…で、んか…」

そういえば、彼はいつから言葉を発していなかっただろう。どんな顔で話を聞いていたのだろう。

アデラインには思い出せない。

少なくとも、アデラインへの辱しめを楽しむ話題には、参加していなかったように思う。

大公は、水でもかぶせられたかのように表情を固まらせていた。

「―…あの、殿下…命じたとは?」

ルトヴィアスは、華がほころばんばかりの微笑みを深くする。

「私が好きなのです。胡桃色のドレスが。皺がはいっていると尚いい」

「――…は?」

「この領地では…小作料が相場の倍だそうですね」

領主の顔が、さっと青ざめるのが見えた。けれどルトヴィアスは、そんなこと興味もないというふうに続ける。

「小作料は領主の任意でとるのが特権ですので焦らなくても結構ですよ。ですが遊水池の整備は領主の義務です。資金不足を理由に先伸ばしになって2年たつそうですね」

「な、何故…」

震える声で、領主は尋ねる。

ルトヴィアスは、大層親切な口調で、領主に答えた。

「下流の村の村長から直接上申書をうけとりました。昨夜の雨で村がどうなっているか気になるところです。そう思いませんか?」

「それは…も、勿論…」

「人や田畑を獣害から守る対策も不十分だと、これは複数の村の連名の上申書にありました。対策が後手に回る理由は何です?」

「それは…っ」

ルトヴィアスがハーデヴィヒに視線を移す。

「ハーデヴィヒ嬢。見事な金剛石ですね」

ハーデヴィヒはガタリと椅子から立ち上がった。

「で、殿下…」

美しい顔は、真っ青になって震えている。

ルトヴィアスは、そんなハーデヴィヒを一瞥もせず、いや、誰を見るわけでもなく、冷たく微笑んだ。

「辛気臭かろうと趣味が悪かろうと、我が国の財政難と国民の貧困を知りながら身に付ける豪華な衣装よりは、余程好ましい」

ハーデヴィヒは、目に涙をためて凍りついている。

「大叔父上はどうお考えですか?」

「え?」

突然呼ばれ、大公は酔いから覚めた顔でルトヴィアスを見返した。

「そ、それは…我が国の財政難は早急な改善を…」

「どんなに美しかろうと、人を見下した微笑みは見るに耐えない。それなら不機嫌な仏頂面を見ながら食事をしたほうがよっぽど良いと、私はそう思うのですが、どうやら大叔父上は私とは趣味が異なるようで残念です」

大公の顔が、怒りでみるみるうちに赤く染まる。

これはまずいのではないか、とアデラインは気がついた。大公は、ルトヴィアスの立太子を承認する貴族議会に強い影響力を持っている。その大公を敵に回すようなことをすれば、最悪、王位継承順位がひっくり返る。

それを知らないはずはないのに、ルトヴィアスはまだ続けた。

口許に笑みを浮かべ、けれど瞳はまっすぐ大公を糾弾している。

「そもそも王妃の装いは国威を示すためのものです。ただ美しさを誇示するための装いと比べるなどおかしいとは思われませんか?」

大公が持っていた杯を床に叩きつけた。

「ルトヴィアス!…貴様、大叔父の私にむかって何という…」

「敬称を忘れていらっしゃいますよ。大公殿下」

宰相が、静かに、けれど強く指摘した。

「大甥でも、継承順位はルトヴィアス王子殿下が上でございます。王族のしきたりをご存知ないわけではないはずです。どうぞ身分の上下を重んじ下さい」

「…っ」

大公は怒りで震える拳を乱暴に机に叩きつけると、足音も荒く、部屋から出ていってしまった。

「た、大公殿下!」

屋敷の主人が、慌てて大公を追いかける。

部屋は静まり返り、アデラインを嘲笑した誰もが青い顔で凍りついていた。ハーデヴィヒでさえ、小刻みに震えるばかりだ。

ルトヴィアスただ一人が、悠然と杯をあおって、葡萄酒を飲んでいる。まるで何事もなかったかのように。この事態に、アデラインは茫然とするしかない。

――…どうして…。

ルトヴィアスだって言っていたではないか。アデラインの装いは、ルトヴィアスの隣に立つのに相応しくないと。自分の立場を自覚しろと。

誰よりもルトヴィアスが一番、アデラインを着替えさせたかったはずだ。

なのに、何故庇ってくれた。

自分の地位を失う危険をおかしてまで。

アデラインはルトヴィアスの横顔を凝視した。

その無遠慮な視線に気付いているはずなのに、ルトヴィアスはアデラインを見てはくれない。

――…どうして?

アデラインにわかったのは、アデラインへ投げられた泥を、ルトヴィアスが代わりにかぶったということだけだった。


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