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第二十六話 哀しきトロールの活け造り ~猫の涙添え~

 世界には理が存在する。


 風が天を行き交い雨を呼び、地を潤して海へ流れ込む。

 太陽の熱が命を育み、夜の帳は安らぎをもたらす。

 全てに大きな流れがあり、世界は形作られていく。


 大いなるその自然律を、人は世界の理と呼んだ。

 そして龍とは、その理が体現したものである。


 

 眩い光に照らし出されるその存在は、余りにも大きかった。


 

 眼球の大きさでさえ、軽く人種の背丈を超えている。

 長く伸びた顎に隙間なく並ぶ牙は、その一本一本が両手で抱えられないほどに太い。

 顔だけで途轍もない大きさであったが、その体も当然、極大であった。


 高く伸びた首は巨木のようにそびえ立ち、大地を踏みしめる脚は大岩の如く揺るがない。

 黒く汚れた鱗を纏うその身は余りに大き過ぎて、全身が視界に収まろうともしない。

 眼前の生き物の度を越したサイズに、猫たちは言葉を失った。


 

 身動ぎ一つ出来ぬ一行を前に、首をもたげた龍が顎を開けた。



 龍は巨体を震わせながら、大きく息を吸い込み始める。

 鼻腔がひくひくと動き、凄まじい勢いで空気が取り込まれていく。


「……なんかすごくヤバい気がするニャ」 

「隊長が頭に登ったから、怒ったのかニャ」

「ギャオギャオ。ギャオ」

「早く謝るニャ。今ならまだ許して貰えるニャ」


 焦った顔で皆が口々に言い合う中、龍の動きがピタリと止まった。

 天井を見上げたまま、虚ろな視線を宙に向ける。


 その様子に、一行がホッと息を漏らしたその時――。



 山が震えた。



 それは咆哮と呼ぶには、余りにも大きかった。

 竜の巨大な顎から放たれ響きは、衝撃の波と化して前方の空間へ暴風雨さながらに降り注ぐ。

 大地が軋みを上げ、壁が今にも崩れ落ちそうなほどに揺れる。


 凄まじい音にひっくり返った猫と鳥たちは、ころころと後ろに転がった。

 だがたった一人、龍の咆哮を耐え忍んだ者がいた。


 両手両脚を広げ衝撃を一身に受け止めて、皆を守ったトロールである。

 

 大咆哮を放った龍を見上げたトロールは、振り向いて皆の無事を確認したあと黙って大きく頷いた。

 背中に庇っていた子猫たちを地面にそっと下ろし、頭の上のヒヨコを優しく手渡す。


 龍に向き直ったトロールは、躊躇う素振りもなく足を踏み出した。


 巨大な龍へ近付いていく王様。

 しかしその体格は、明らかに違い過ぎた。


 体の大きさだけではない。

 生物としての存在そのものが、龍と他の生物では別格であった。


 それでもトロールの歩みは止まらない。

 静かに龍へ立ち向かっていく。

 それはまるで大嵐に挑む一匹の羽虫のように、果敢でありながらも悲劇的な結末しか感じ取れない光景であった。


 地面に残された子猫たちは、その背中を呆然と眺めていたが、不意に我に返ったように騒ぎ始める。 


「誰か早く、王様を止めるニィ」

「いっちゃ駄目ニィ」

「王様、死んじゃうニィ」


 けれども誰一人、動こうとはしない。

 いや、動けないのだ。

 それほどまでに、龍の存在は圧倒的であった。


 皆が固唾を飲んで見守る中、トロールは龍の傍らへ到達する。

 その存在を認めたのか、龍も首を巡らして足元を覗き込む。



 陽の光届かぬ深き地の底で、巨龍と異形は静かに対峙した。



 先に動いたのはトロールであった。

 首に下がるマントを取り外し、地面に投げ捨てる。


 そして綺麗にしわを伸ばして整えたあと、その上にゴロンと横になった。

 両手を胸の前で組合せ、無言のまま目を閉じる。


 そのままトロールは、動きを止めた。



「王様は……王様は、自分が食べられてる間に逃げろって言ってるニィィィ」

「ニャンだってぇぇぇ!!!」



 金縛りが解けたかのように、子猫たちが一斉に走り出す。

 

「うわーん、王様死んじゃやだニィ」

「王様、食べられちゃ駄目ニー」

「置いてっちゃ、やだニィィ」


 横たわるトロールのお腹に顔を埋めた子猫たちは、懸命にしがみ付いて泣き始める。

 その様子に、黒猫たちも慌てて駆け寄った。


「王様、どうしてそんな事するのニャ?」

「分かったニャ。うちも一緒に食べられるニャ」

「俺もお供するするニャ。だから、みんなは早く逃げるニャ」


 トロールに抱きついた猫たちは、子猫と一緒になって泣き声を上げる。


「おう、さま、じぶんは化け物だからだって、言ってるニィ」

「嫌われているから、食べられたほうが、良いって言ってるニィ」


 その言葉を聞いた黒猫は、髭を逆立てて大声を上げた。



「そんな事ないニャ!!」



 瞳を見開いたトロールを、猫たちは一斉にギュッと抱きしめる。


「王様が死んだら悲しいニャ。とっても辛いニャ……。王様は僕たちを救ってくれたニャ。とても嬉しかったニャ。それに僕らはみんな知ってるニャ。王様は見た目は怖いけど、とても優しいニャ。くっつくと凄く暖かいニャ。ぜんぜん化け物なんかじゃないニャ!!」


 涙をボロボロこぼしながら、黒猫は言葉を続ける。



「……僕らは王様が大好きニャ。だからずっとずっと一緒に居てほしいニャ……」



 黒猫の言葉を聞いたトロールの腕組みが、ゆっくりと解かれた。

 そっと壊れ物を扱うような優しい動きで、太い腕が猫たちをおずおずと抱きしめる。 


 置いてけぼりにされたヒヨコが、トロールの額にぴょんと飛び乗るとピッと鋭く鳴いてツンツン突き始める。

 それを見たハーピーたちも、一斉にトロールの体に群がった。



 揉みくちゃにされ続ける王様の姿を、龍はひたすら困惑した顔で見下ろしていた。



 

   △▼△▼△



「色々とお騒がせして、申し訳ないニャ」 


 頭を下げる黒猫の目は、まだ少し赤い。

 他の猫も気恥ずかしそうに、目を伏せている。

 ヒヨコと子猫たちは上機嫌で、王様の肩と頭の上で遊んでいた。


「それでちょっとお尋ねしますニャ。僕らの王様のお知り合いですかニャ?」


 黒猫の問い掛けに、龍は頭を下げてジッとトロールを見つめる。

 よく見れば龍の鼻の左右からは、太いどじょう髭が生えていた。

 かなりの老龍のようだ。


 首を捻る龍の髭が触手のように動き出し、ペタペタとトロールや猫たちを触り始める。

 しばらく触ったあと龍は大きく顎を開き、何かを言いかけて寸前で止める。


 困り顔の龍を見て察したのか、子猫が声を上げた。


「龍さん、お鼻が詰まって困ってるニィ」

「ニャンと! それならお任せニャ」

 

 寝そべって貰った龍の鼻の穴に、トロールと猫たちが突入していく。

 ヒヨコが照らす鼻の奥は、真黒な岩で塞がれていた。


 トロールたちが岩を一気に引き抜いて、外へ投げ飛ばす。

 大きく鼻で息を吸い込んだ龍は、歯を剥き出しにして笑ってみせた。



「助かったよ、小さな友人たち。これでやっと会話ができるな」


  

 突然、降ってきた声に、一行は驚いて天井を見上げた。

 かなりイントネーションが怪しいが、他に誰も発する存在が居ない以上、それは明らかに龍の声であった。


「先程はすまなかった。クシャミを我慢しきれなくてね」

「あれクシャミだったのかニャ。びっくりしたニャ」

「鼻詰まりの解消にはあれが一番なんだが、どうも思った以上に眠っていたようだ」


 そう言いながら、龍は大きくあくびをする。

 

「体もいやに汚れているし、随分と時間が経っているのか」

「龍さんはどうやって喋ってるのニャ? 不思議ニャ」


 口を開けたまた流暢に言葉を操る龍に、黒猫は疑問をぶつける。


「ああ、これかね。こうやって話しているのさ」


 そういって顔を近づけてくる龍の鼻の穴が、器用に閉じたり開いたりする。


「私達の口は、小さい友人たちのように話すのは向いてないからね。こうやって鼻の孔で会話するのさ」

「なるほど分かったニャ。龍さんは凄いニャ」

「なーに、練習すれば、誰だってすぐにコツを呑み込めるよ。ところで先ほどの質問の答えなのだが」


 そこで言葉を区切った龍は、申し訳なさそうに首を横に振った。


「残念ながら妖精猫族ケットシーの知り合いに、心当たりはないな」

「王様は妖精猫ケットシーじゃないニャ。でも僕らの王様ニャ」

「ああ、そっちの長耳族エルフの子か」

「そうニャって王様、エルフだったのニャ!!」


 驚きの声を上げる猫たちを置いて、龍は言葉を続ける。


「正確には古長耳種ハイエルフだね。なるほど、君は女王の子か。祝福の地では面倒見切れずに、地上に廃棄したってとこか。相変わらず彼女は杜撰だな」

「よく分からないけど、王様は大丈夫なのかニャ?」


 竜の髭が再び伸びて、トロールの体をペタペタと探り始める。


「ふむ。成長阻害因子の異常による筋肉肥大と超回復か。それに下垂体前葉部の調節因子の破損による狂暴化と。それを結晶体の効果で押さえ込んでいると。いや少し治療された形跡があるな。うーむ、うむむ……」

「どうですかニャ? 龍さん」

「結論から言えば、遠からず彼は元の状態に戻ってしまうね」

「そんニャ!」

「まあ待ちたまえ。手が無いわけでもない」


 その言葉に、皆は目を輝かせる。 


「だがその前に、色々と事情を理解する必要があるな」


 そう言いながら龍は、後ろ脚を伸ばしてガリガリと脇腹を掻き毟った。

 黒い鱗が剥がれ落ち、地面へ落ちる。


 そして床の上の鱗は、骸骨へと姿を変えた。

 武器を構え歩み去る竜鱗兵ドラゴンスケイルウォリアーを見送った龍は、壁の一画へ髭を伸ばした。 


 そこに置いてあったのは巨大な呼び鈴であった。


「さて、この呼び出しはまだ通じるかな」


 岩戸を持ち上げて現れた壁の穴へ、髭で摘み上げた鈴を差し込む。

 鳴らされた鈴の澄んだ音色は、地下通路を駆け巡り遥か遠く北嶺山脈の麓まで到達した。




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