第十九話 ギンギンきのこの大暴走
暴れ風の荒野には、王国中の風が集まると言われている。
四方八方から吹き付ける強風は、大地を抉り奇怪な形の岩山をそこかしこに生み出した。
さらに風は雨雲さえも吹き飛ばしたせいで、地面はカラカラに干上がり、緑の種子は根を下ろすこともなく枯れ果てる始末。
どこまでも続く赤茶色と白灰色の世界。
それがこの荒野を知る者の心象であった。
だがそんな不毛の地でも、息づく生命はある。
砂虫を食べる角鼻ネズミ。そのネズミを狙う砂縞蛇。そして蛇を喰らう多頭鷲と。
つむじ風が逆巻く荒れ地でも、ひっそりと命のサイクルは形作られていた。
しかし本日の主役は彼らではない。
もっと恐ろしい生物が、この地には棲息していた。
「おい、今あの岩山の陰で何か動かなかったか?!」
「落ち着けよ、夜明けまではまだ少し時間があるぜ。あいつらなら、まだぐっすりとおネンネ中さ」
「そうだよな……気のせいか」
角石を隙間なく積み上げた堅固な防壁の上で、見張りの兵たちは固唾を呑んで夜が明けるのをじっと待ち構えていた。
日が昇れば、もう軽口を叩く余裕もなくなる。
そう、朝日は今の彼らにとって死神と同じ意味を持っていた。
――茸蟻。
この荒野に住まう最多にして最凶の存在である。
体高は成虫で大人の腰ほどもあり、頑丈な外殻と鋭い顎を持つ。
性格は比較的穏やかで、他の生物を襲うことは非常に稀である。
彼らの主食は地下の巣で栽培している茸であり、その養分として死骸を集める性質を持つため、むしろ掃除屋としてこの荒野に欠かせない存在であるとも言えた。
もっともそれは残念ながら、この時期の暴れ風の荒野には当てはまらない。
年に一度、彼らに繁殖の時季が訪れる。
巣別れと呼ばれるそれは、通常なら女王蟻候補の若き雌が、雄蟻とともに飛び立ち空中で交尾をしながら新たな巣作りを目指す行為である。
だが烈風が吹き荒ぶこの地では、四枚の薄翅如きでは簡単に地上へ叩き付けられてしまう。
翅の代わりに彼らが選んだのは茸だった。
そして巣別れの旅立ちは、茸にとっても胞子散布の絶好の機会である。
捕食者と被食者の思惑は、最悪の形で合致する。
「あと少しで夜明けだな。そろそろ、弓弦を張り直しておけよ」
「ああ、分かったよ」
「焜炉の向きも気を付けろよ。今、種火が消えたら洒落にならんぞ。ってどうした?」
「団長の増援、間にあうと思うか?」
「……無理だろうな」
「そっか。じゃあ、もうどうしようもないな」
暴れ風の荒野と王都の間には、石造りの長い防壁が横たわっている。
最初の礎石がこの地に置かれたのは、五百年ほど前だ。
先人たちはそこから永い時をかけ、少しづつ石を積み上げて堅固な壁を造り上げていった。
そして今や高さと幅が大人の身長三人分はある石壁の全長は、端から端まで歩くのに丸一日でも足りないほどに伸びた。
王国の民がそれほどまでに強い意志を込めて、この長壁を造り上げたのは、"蟻を喰い止める”ただそれだけの理由でしかなかった。
強風に千切られた雲の合間から、眩い輝きが音もなく現れ地平線を金色に染め上げていく。
朝が、蟻どもが動き出す時間がやって来た。
地に伏していた雄蟻の群れが暁の光に浮かび上がり、その奇妙なシルエットが赤茶けた大地へ伸びる。
黒く膨らむ腹部と三対の脚が突き出した胸部、そして歪に長い頭部。
彼らの顔に当たる部分からは本来あるべき触覚や複眼、大顎さえも消え失せていた。
代わりにあったのは、巨大な一本の茸であった。
茸蟻の雄たちの頭部は完全に消え失せ、首から上は茶色の茸に置き換わってしまっていた。
この大繁殖の間、茸に寄生された蟻たちは本能のままそこら中を走り回り、その過程で胞子を辺り一面にばらまき続ける厄介な存在と化す。
これが"茸蟻の大暴走"と呼ばれる、蟻たちの恐るべき習性だった。
光を浴びた頭部の茸の傘が、静かに開いていく。
併せてその六本の脚が、力強く大地を踏みしめ始める。
「――――来るぞ、構えろ!」
兵士たちは油を染み込ませた布が鏃に巻き付けてある矢を、一斉に赤く火を灯す焜炉に突っ込んだ。
燃え始めた矢を素早くつがえて、蟻どもへ向ける。
夜明けを告げる横殴りの風が、蟻たちに吹き付けた。
それを待ち受けていたかのように、蟻は地面を強く蹴り飛ばし頭部の傘を最大限に広げる。
突風を受けた蟻が宙を飛んだ。
恐ろしい勢いで空をかけ、真っ直ぐ防壁に突っ込んでくる。
轟音とともに茸蟻は石を砕き割り、その頭部を壁にめり込ませた。
一呼吸のあと、胞子のガスが盛大にばら撒かれる。
「今だ! 矢を打ち込め!」
壁に刺さったまま身動きが取れない蟻へ、火矢が次々と撃ち込まれた。
たちまちの内に燃え上がった火が蟻を包み込み、胞子ごと焼き焦がしていく。
投石機なみの速さで飛来する蟻には、こうやって焼き殺すくらいしか対抗手段がないのだ。
動きが速過ぎるため、生身で近寄るのは自殺行為。
網は突き破り、堀はあっさりと飛び越えてくる。
こちらの投石機は、狙いを定めることさえままならない。
残された対処法は、こうやって火を点けることだけであった。
「クソ、誰か手伝ってくれ。三匹も刺さってるぞ!」
「すまん、こっちだけで手一杯だ! 踏ん張ってくれ」
地響きのような音が、次々と鳴り渡る。
茸蟻の突撃は容赦なく、石壁に無残な穴を開けていく。
兵士たちは手分けして火矢を撃ち続けているが、荒れ狂う蟻たちに対してその数は余りにも少なすぎた。
だがこの地を守る要である東方辺境騎士団の大半は、今もまだベッドから起き上がれる体調ではない。
この防壁が突破されれば、王都が蟻どもに蹂躙されるのは間違いない。
だからこそ兵士たちは、懸命に矢を射続けた。
しかし止まってる的とはいえ、この強風の中で矢を当て続けるのはかなりの集中を要する。
兵士たちの疲労は、すでに限界を越えようとしていた。
そして石の壁もまた数ヶ所を大きく抉られ、そこから亀裂が全体へと広がりつつあった。
「もう…………だめか……」
誰かが諦めの声を発したその瞬間、流星のような矢が空を走った。
飛来していた蟻が、燃え盛る矢に撃ち抜かれ空中で激しく燃え上がる。
茸の傘を燃やされた蟻は失速し、地面に墜落して黒い煙を吹いた。
「なんだ! 何が起こった?」
「おい、あそこだ。あれは…………増援だ! 助けが来たぞ!」
兵士が叫びながら指差した先にいたのは、小高い丘に陣取った亜人たちの姿であった。
その身は人族を軽く超え、上半身は彫刻のような美しい筋肉で覆われている。
手には長い弓を携え、多頭鷲の尾羽根で作った羽飾りが頭部を彩る。
そしてその下半身は、逞しい馬の姿をしていた。
人馬族、この暴れ風の荒野に住まう亜人の一族だ。
先程の矢を放った一際目立つ白髪の人馬族の男の傍らで、甲冑姿の騎士が高らかに角笛を吹き鳴らす。
響き渡る合図に、 人馬族の若者たちが一斉に火矢を解き放つ。
瞬く間に、数十匹の茸蟻が燃え上がった。
「団長だ! 間に合ったんだな。これで何とかなるぞ」
兵士たちは歓喜の声を上げながら、駆けつけてくれた人馬族へ大きく手を振る。
だがその喜びが続いたのは、ほんの僅かな間だけであった。
彼らの目に、絶望が形となって浮かび上がる。
人馬族の遥か後方に見えたのは、地平線の彼方を埋め尽くす黒い虫の群れであった。
「うそ…………だ……ろ。あれ全部、蟻なのか…………」
「畜生! 多すぎだろ!」
助かったと思った瞬間にまたも絶望を見せつけられた兵士たちは、弓を取り落として膝まずいたり、喚きながら拳で石床を叩き始める。
だがその中でたった一人だけ、あらぬ方向を見つめる兵士がいた。
「なあ、やっぱりあの岩山の天辺、誰かいないか?」
「お前、まだそんなこと言ってんのか――あ、ホントだ。誰かいるな」
「な。気のせいじゃなかったぜ。しかし、何やってんだ、あんなところで」
その人物は、細長く伸びる岩山の上に独り屹立していた。
逆光のせいで顔貌ははっきりと見えないが、丸く太い奇妙な身体つきをしているのは分かる。
なぜかその背中には、マントがはためいていた。
切り立った岩の上から周囲を睥睨していた謎の人物は、不意にマントを大きく広げた。
そして二人の兵士が、注目する中――。
そのまま豪快に飛び降りた。
「飛んだ!!」
だが風には乗れず、あっさりと失墜する。
謎の人物はもんどり打ちながら、凄まじい勢いで斜面を転がり落ちた。
ゴロンゴロンと猛烈に回転しつつ、蟻どもを弾き飛ばし踏み潰しながら壁へと迫ってくる。
勢いのまま謎の人物は、石壁に衝突した。
爆発に近い轟音と足元から起こった激しい揺れに、希望を失っていた兵士たちは慌てて正気を取り戻す。
「なんだ? 今度は何が起こった?」
「見ろ! あそこだ」
「あれは一体…………」
土煙の中から立ち上がった異形に、兵士たちは声を失った。
その人物の体は、灰色の毛で覆われていた。
腕も足も胴回りも、大人の二倍は軽く超える身体つき。
大きな頭部は黒い毛に覆われ、側面からは一対の尖った耳が伸びる。
マントを翻しながら化け物のような男は、何事もなかったように立ち上がった。
同じく何もなかったように飛来する一匹の茸蟻。
軽々と男の手が伸びて、茸蟻は防壁にぶつかる前に掴み取られた。
男の口元に運ばれた蟻の頭部が食い千切られる。
ごしゅりごミュもぐもぐりぐちゃ。
咀嚼音が響き渡り、蟻の胴体部分が投げ捨てられた。
異形の男は、周囲を見渡しながら大きく息を吸い込む。
化け物が咆哮した。
大風を打ち消すような響きは、荒野を走り抜け地平線の彼方まで駆け巡った。
余りの声の大きさに蟻や兵士は、動きを止める。
化け物が手を伸ばし、石壁にめり込んだまま燃え盛る蟻を掴み上げた。
頭部を食われた蟻が、風に乗って飛び立った蟻へと投げ付けられる。
仲間の死骸をぶつけられた蟻は、空中で四散して絶命した。
その結果を気にする素振りもなく、化け物は次の蟻を掴み上げる。
この石壁には、弾がいくらでもあった。
絶望の戦場に今、新しい風が吹いた。
そして茸蟻の虐殺が始まった。
茸蟻
女王蟻を頂点とした巨大な地下コロニーを形成する。暴れ風の荒野の中枢種であると言われる。
茸が寄生虫状態の雄蟻は、日が昇ると活動を始めるが、夜間でも刺激を受ければ簡単に暴走するので要注意である。
なおその状態の茸蟻は、茸が主体のため蟻茸と呼ぶべきではとの、長い論争が今も学会で続いている。




