第十七話 魔性の女の棲家
曇天の大沼の外れにある魔女の庵には、ときおり変わった客が訪れる。
「おやおや、アンタ一体どうしたんだい?」
裏の池に水を汲みに行った老婆は、水面から顔を出す奇妙な男に驚いて声を掛けた。
熊か何かの毛皮を着込んだその男は、なぜか池にどっぷりと全身を沈めたまま空を見上げていた。
老婆の声に男が顔を向ける。
大粒の黒瑪瑙のような無機質な眼。横に走る亀裂のような口にはズラリと牙が並ぶ。
だが老婆はそんな異貌を目の当たりにしても、意に介した様子もなく言葉を続ける。
「へんな被り物だね、都で流行ってんのかい? まあ何でも良いからソコから上がっとくれ。落ち着いて汲めやしないよ」
威勢のいい老婆のしわがれ声にたじろいだのか、男は無言で池から立ち上がった。
その身の丈は軽く老婆を二回り以上はあり、腕や腰回りも驚くほど太い。
岩のような大男であった。
水から上がった男は何も言わず老婆の横に立つと、その皺まみれの手から優しく手桶を取り上げる。
薄皮の卵を扱うような手つきで、男は手桶で水を組み上げ老婆に首を傾げる。
「手伝ってくれるのかい、アンタ。助かるよって、なんだいこりゃ!」
池の水面を藻のように覆いつくす白い何かに、老婆は目を丸くして悲鳴を上げた。
よくよく見ればその白い物は、男の背中から水面まで伸びて雫をぽたぽたと落としている。
目を細くして男の毛皮にくっついた怪しげなソレを眺めていた老婆は、合点がいったのか大きく頷いた。
「これ沼蜘蛛の巣糸だね。なるほど、それで池に浸かってたのかい。残念だけど、これは水洗いじゃ簡単に落ちないのさ」
全身から水滴を垂らす男に、老婆は得意げな顔で岸の傍に生える水草の葉をむしった。
羽状に広がる葉を手の内で揉んで緑の汁を絞り出し、毛皮に絡む糸になすり付ける。
粘つく糸は嘘のように、男の身体から剥がれ落ちた。
「沼ヨモギの汁を付ければ、簡単に取れるんだよ。ほら、残りも取って上げるから後ろ向きな」
老婆はヨモギの絞り汁を手際よく塗り付けて、蜘蛛糸を丁寧に取り除いていく。
「アンタは中々の運の持ち主だね。こんなに巣に絡まったまま、無事に逃げて来れるなんて驚いたよ」
空にした手桶に蜘蛛糸を詰め込みながら、老婆は言葉を続ける。
「それにこの糸は高く売れるからね。丈夫で水捌けが良いから都じゃ引く手あまたさ。でも綺麗に取るのは、この沼ヨモギの汁が一番良いんだがね、コイツはこの辺りじゃここにしか生えてないんだよ。水温が高いとすぐに枯れちまうのさ。だからアンタは三重の意味で運が良いとも言えるね」
そこで一旦、言葉を区切った老婆は男の正面に回り、意味あり気に目線を向ける。
「とはいっても、そんな幸運もここがどこだが知ったら吹き飛んじまうよ」
老婆の言葉に、男はキョロキョロを周りを見渡した。
咲き乱れる沼蓮の白い花のおかげで、濁りを忘れた清い水面はそんな男の姿を鮮やかに映し出す。
池には沼蓮だけでなく、様々な水草がそこかしこに伸び放題な様を見せていた。
沼ヨモギを始めに可憐な水魚草に青々した雫切り、薬効の高い黒美蘭や悪魔菱まで並んでいる。
よく見れば池の周りには泥に埋まって半ば朽ちかけた柵があり、奥の方には年季の入った桟橋まである。
老婆は棒杙に張られたボロボロの注意書きに、顎をしゃくって唇の端を持ち上げた。
「どうだい、驚いたかい? ってもしかして、読めないのかい? これは"ここは魔女の薬草園。立ち入る者にはそれ相応の災いが降りかかるであろう"って書いてあるんだよ」
丁寧に解説してくれる老婆に、男は首を傾げた。
「アンタ、悪名高い沼の魔女を知らないって? たまげた話だよ。聞いたことないのかい? 迷い込んだ旅人を喰っちまう噂とか」
反対側に首を傾げ直す男の仕草に、魔女は呆気にとられる。
魔女の噂を知らないことも驚きだが、それを知った今も平然としている男の態度はもっと驚きであった。
二の句を失った老婆と、山のような男はしばし見つめ合う。
ぐうぅぅぅうううう。
不意に虚ろな音が、静まり返る空気をぶち壊すように鳴り響いた。
黙ったまま目を合わせていた老婆は、耐え切れずに笑い声を上げる。
「ふぇふぇふぇ、魔女の棲家にわざわざやってきて、腹の虫を目一杯鳴らす相手は初めてだよ。どうだい、仕事を手伝ってくれたら何か食わせてやるよ。押し掛け弟子が里帰りしちまって今、男手は大歓迎さ」
返事を待たずに老婆は、棒杙を抜いて水面へ向けた。
「まずは池の上の蜘蛛糸を集めて、綺麗にしとくれ。ほら、こうやるんだよ」
老婆は棒を使って、器用に糸をすくい上げ見せる。
手渡された棒で男もおずおずと、老婆の真似をして蜘蛛糸を手繰り寄せる。
「そうそう、上手いじゃないか。それが終わったら水汲みの続きも頼むよ」
沼の魔女と恐れられるこの女性は、もとは王都でも評判の薬師だった。
患者の病状を素早く看取り、的確な薬を処方するその腕前に、病人が次々と押し寄せて通りに溢れ出すほどであった。
当然のごとく彼女は、同業者から妬まれた。
様々な悪評が立てられたが、彼女は全く意に介せず振る舞っていた。
薬師とは人を癒やすものであり、人を謀るものではないという信念を持っていたからだ。
そして心を込めて他人に尽くせば、それは信頼となって戻ってくるとも。
「おや、もう水瓶は一杯かい。早いねぇ。それじゃ次は掃除だよ。箒はそこの壁に下がってるのを使いな」
彼女の人を信じる心は強かったが、それ以上に人の悪意は底を知らなかった。
その事件が起こったのは、彼女が王宮に薬を納めるほどの立場に上り詰めた頃だった。
王妃の毒殺未遂が起こったのだ。
王宮内は隈なく探索され、彼女の納品した薬箱から毒の一部が見つかった。
「そんなに強く擦ったら、箒の頭が擦り切れちまうよ。アンタは背が高いしハタキを掛けておくれ。うん、優しく撫でるんだよ」
悪評が立っていた彼女は、裁判もなく投獄された。
喉が枯れるほど無実を訴え続けた彼女だが、誰もその声を聞き届ける者はいなかった。
半年後、彼女の師にあたる人物が、違法な薬物の取り引きで密告され逮捕された。
そして家宅捜索で王妃に投与された毒と全く同じものが見つかり、件の人物は計画のほとんどを白状した。
彼女は運び屋として利用されただけであったと。
「その箪笥はこっちへ持ってきておくれ。椅子はこっちだよ。アンタ、本当に力持ちだね。模様替えがあっという間に終わっちまったよ」
牢屋から出た彼女を待っていたのは、冷たい事実だけであった。
愛した夫や血を分けた子供たちは、王都から逃げるように立ち去り消息は分からずじまい。
古い友人は顔を背け、父母は心労からの病ですでにこの世を去っていた。
彼女は失望のまま都を後にし、この暗澹とした地へ辿り着く。
「次はちょっと力の要る仕事だよ。こっちへ来ておくれ」
魔女が男を連れて行ったのは、庵から少し歩いた沼地であった。
そこは水底に沈む泥炭が燃え盛り、激しく水面が沸き立つ地獄ような光景が広がっていた。
ゴボゴボと黒い泡を噴き上げる泥池には目もくれず、魔女はその先の少し開けた広場まで進む。
そこはあちこち掘り返されて、真っ黒な泥が剥き出しになっていた。
「この泥を掘り返して、そっちの板の上で乾かして使うのさ。ほら鋤でこうやってね」
泥炭を軽く掘り起こした老婆は、日当たりのいい場所に置かれた板の上に泥の塊を手際よく並べていく。
男はすぐに理解したのか、鋤を寄越せとばかりに腕を差し出した。
一息で鋤は、地面深くに突き刺さる。
男が腕を動かすと、有り得ない量の泥の塊が持ち上がった。
しかし男は全く重みを感じぬ素振りで、軽々とすくい上げた泥炭を板の上へと投げ落とす。
老婆が一週間掛かって掘り出す以上の泥炭を、男は瞬く間に積み上げていく。
黙々と鋤を振るう男の背中を、老婆は目を細めて見入っていた。
逃げるようにこの地へやってきた彼女の棲家の戸を叩いたのは、亜人の小鬼たちであった。
ズカズカと上がり込んできた彼らは、無遠慮に家の中を見渡しアレコレと質問してきた。
そして彼女が薬師だったことを知ると、その両の眼を輝かせた。
それからは稀に客が訪れるようになった。
もっともこんな辺鄙な土地へ、わざわざやってくるのは亜人ばかりであったが。
人付合いにうんざりしていた彼女には、純朴で裏表の少ない彼らくらいがちょうど良かったのかもしれない。
徐々に亜人たちとの付き合いも長くなり、その関係は深まっていく。
この地で薬草を育てながらゴブリンの行商人たちに薬を卸したり、竜人族の相談に乗ってやったり、長耳族の若者を弟子にとったりと、気がつけば長い歳月が積み重なり、彼女の中にわだかまっていたものは綺麗に消え失せていた。
「ホントに力持ちだね、アンタ。もう、それくらいで十分さ。助かったよ」
不平一つ言わず真面目に働く男に、老婆は労いの言葉をかける。
この奇妙な被り物をした寡黙な男は、多分どこぞからはぐれた亜人なのだろう。
王都という群れから追い出され、人を寄せ付けないために魔女という仮面を被った昔の自分とどこか似ている気がして、老婆は小さく笑みを浮かべた。
「あとは蜘蛛糸と鍋の様子をみたら、ご飯にしようかね。そろそろ沼鰻のパイが焼きあがってるハズさ。って、なんで穴ん中に入ってんだい? 遊んでないでさっさと行くよ」
老婆がまず立ち寄ったのは、グラグラと煮え立つ沼に浸してあった大きなザルであった。
持ち上げて、入れてあった蜘蛛糸の茹で上がりを確認する。
糸は粘り気が取れ、黒く艶やかな色合いに変わっていた。
「今日のお返しに、これで何か編んであげるさ。わたしはこう見えても編み物は結構、得意なんだよ」
次は沸騰する沼の一画に、石を積み上げて作った天然の窯へ足を向ける。
水面から吹き上がる熱で、石窯の上に置かれた大鍋は良い感じに湯気を上げていた。
この大鍋は魔女ご自慢のもので、わざわざ黒小人族に特注した黒鋼製の逸品だ。
備え付けの木杓子で鍋の薬湯をかき回した老婆は、味見をしたあと匂いを嗅いで首を捻る。
「どうも、今ひとつだね。やっぱりアレは、少しばかり残しておくべきだったかね」
薬の出来栄えに失望の声を漏らした老婆は、後ろへ控えていた男へ振り返った。
「やれやれ、これは片しておいてくれるかい。急いで新しいのを作り始めないとね」
二日前に届いた風邪薬の調合を依頼する手紙からは、差出人の飄々とした語り口が少しばかり消えており、あまり猶予が無さそうな感じが読み取れた。
長い付き合いの友人だけに、出来うる限りの手は尽くしてやりたいと魔女は考えていた。
不意に聞こえてきた牝牛の出産のような呻き声に、老婆は顔を上げる。
振り向いたその眼が、飛び出しそうなほど開かれた。
男が沸騰する池に肩まで浸かってた。
大火傷しそうな熱湯の中で、男は顔を綻ばせて奇妙な声を発している。
その腕がさらに熱々の大鍋に伸ばされた時点で、老婆は掠れた悲鳴を上げた。
熱さを気にする素振りもなく、男は大鍋を持ち上げてぐいっと傾ける。
ドロドロに熱せられた薬湯が男の喉奥へ消えていく様を、呆然と眺めたあと老婆はおもむろに口を開いた。
「アンタ、もしかして…………結構、鈍いのかい?」




