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第十五話 緊縛の美王子



「俺様は所詮、生簀の魚。広い海を知らずに生きる定めなのか」



 その独言は竜人族ドラゴニュートの王族に生まれ、王宮の外へほとんど出ることなく育てられたギール王子の諦めの心持ちであった。


 三海を統べる海龍たちの眷属、竜人族ドラゴニュートは母系社会である。

 各々の群れを束ねる女王の統治の元、海上貿易や漁業が主産業の海洋国家群を形成する。 


 竜人は男性が生まれにくく、特に王族となればその貴重さは計り知れない。

 ギールも例にもれず、男子が生まれたと知った父親が、喜びのあまり滂沱しながら気を失ったと聞く。


 たくさんのお節介な姉妹に囲まれて育ったギールは、母貝に抱かれる珠の如く大事にされ美しい竜人の少年へと成長した。

 肌を覆う鱗は深き蒼海から浮かび上がるあぶくよりも薄く透き通り、それでいて晴れ間にたゆたう波照りよりも濃い青を滲ませる。

 紅珊瑚を思わせる背びれや耳びれのあまりの美しさに、ギールの美貌は三海に波響き知らぬものは居ないほどであった。


 だがいくら東海一の美男子と持て囃されても、伸び盛りの少年にとって王宮での花婿修業は退屈そのものである。

 王宮を出ることも滅多に叶わず、ひたすら礼儀作法や舞踏の勉強ばかりの毎日。

 

 多感な十代において窮屈な日々の繰り返しは、さながら牢獄での生活と同等といっても過言ではない。

 そんな王子のたった一つの気晴らしは、月に一度訪れる小鬼ゴブリンの行商人に旅の話を聞くことだった。

 

 西の果てにある立って歩く犬どもの村。

 地中に暮らす黒き肌の小さな民。

 際限なく骸骨が湧き出してくる南西の火吹き山など。


 王宮の外の世界の話は、ギールの胸を熱く焦がすとともに失望を色濃く刻みつけた。

 

「ゴブチャック、お主の話はいつも俺様を昂ぶらせ、そして空しくさせるな」

「おほめにあずかり光栄ごブ、ギールおうじさま」

「褒めてなどおらぬわ。ただの嫉妬だ、聞き流せ」

「よく分からないごブ」

「分からずとも良い。ほれ取っておけ」


 ギールが真珠を一粒投げ与えると、小鬼ゴブリンのゴブチャックは恭しく諸手で受け取った。


「次は何時になる?」

「それも分からないごブ」

「どう言うことだ?」

「ぬまに大蜘蛛がすみついたごブ。ここに来るのたいへんになったごブ」


 王国の東、暴れ風あかしまの荒野の道無き道を進んでいくと、やがて風たちは息を潜め大地は湿り気を帯び始める。

 さらに進むといつのまにか蹄がぬかるみに取られ、辺りには沼気が立ち込める胡乱げな地へと成り果てる。


 この曇天(どんてん)の大沼と呼ばれる湿原は、途中で干潟に姿を変えながら東の海までを茫漠と覆い尽くす難所であった。


 呼び名の由来は雨天の多さも含まれているが、曇り空と並ぶほどに陽光を遮るものから来ていた。

 生い茂った植物が泥に呑まれ、沼底に溜まりながら炭と化す泥炭。

 それらが沼のあちこちで燃え盛り、黙々と黒煙を噴き上げる風景こそが曇天の名の謂れであった。


 沼には丸太を組んだ径路が張り巡らせてあるが、そこから一歩外れると底知れぬ泥土が待ち構えている。 

 さらに燃え盛る泥炭の熱で水温が高く、また養分を多大に含んだ泥地は多くの魚や虫や花たちを引き寄せたが、それらの中には当然厄介な質の生き物も含まれていた。


 危険な生き物に加え視界を遮る煙と、ところどころで煮え立つ泥沼。

 その上、沼の奥に永らく棲み着いている魔女の噂まである。

 うっかり道を違えた旅人が姿を消す話などは、数え上げるときりが無い程ありふれていた。


 だが竜人族ドラゴニュートの港街と、人族の王都をつなぐ交易路はこの沼の悪路しかない。

 その唯一の道の脇に、大きな蜘蛛が巣を張ってしまったのだという。



 ギールは激怒した。


 

 たった一つしかない窓が、虫如きに閉ざされようとしているのだ。

 塞ぎこんで寝付けぬまま、波間に揺れる月を見上げる日々にはもうウンザリであった。

 その日の夜、皆が寝静まったのを見計らって、王子はこっそりと王宮を抜け出した。


 ゴブリンどもから聞き出した沼の道を、ひたすらに走り抜ける。

 その手に黒刃のナイフと、煌々と輝く松明を手にして。


 沼蜘蛛とは水棲の蜘蛛である。

 普段は泥の中に潜み、地上に張った巣に獲物が掛かると這い出てくる。

 大きいものだと海牛の雄並に育ち、その体は多分に体液を含むせいで衝撃に強く、なまじっかな武器では歯が立たない。

 退治するどころか、傷つけるのも難しい相手であった。


 しかしその外皮を貫ける強い武器と、巣を焼き払える強い火さえあれば恐るるに足らず。

 王子のこの後先を深く考えない性格は、母親譲りであった。



「俺様はどこまで行っても囚われの魚。網を掻い潜ることもできず、足掻き続ける一生なのか」



 蜘蛛の巣に絡まって身動きが取れなくなったギールは、そう呟いた。

 なんでもスパスパきれるごブと商人が豪語した黒鋼の刃は、すでに糸が絡まりすぎて綿飴のような有り様だ。

 ぬれても大丈夫ごブと太鼓判を押された松明は、たしかにパチパチと燃え盛ってはいたが、とうに王子の手から抜け落ちて地面で気炎を上げている。


 灌木と灌木の狭間に宙吊りとなったまま、ギールは辺りを見渡した。

 低い木立は松明の灯りに照らされ、張り巡らされた蜘蛛の巣が真っ白な霞となってたなびく。

 ふと見上げた空からは、半月が薄曇りの合間から穏やかな顔を出していた。


 王宮の外で見る初めての夜空に、ギールは深い満足を覚えた。

 恐ろしい大蜘蛛の巣の中で窮地に陥った王子だが、実は恐怖を全く感じていなかった。


 それよりも酷く困惑していた。


 原因はすぐ横に吊るされた蜘蛛糸の塊である。

 真っ白な糸に包まれた巨大な繭のようなそれは、中身がどのようになっているかさっぱり見当もつかない。


 だが中にいる人物が、今もまだ生きているのは確実であった。

 繭は先程からずっと、左右にゆらゆらと動いていた。

 そして揺れに合わせるように、繭の中から奇妙な音が響いてくる。

 高く低く途切れ途切れに。


 どうやらその音が蜘蛛どもの気に障るらしく、何度も子蜘蛛が糸の塊へと近寄っていく。

 もっとも子供といっても、その大きさはギールの頭ほどもあったが。


 見ていると子蜘蛛は糸の塊をよじ登り、その中の主に牙を突き立てようとする。

 ゴブリンに聞いたが、この蜘蛛毒は並の人間が噛まれれば数日は体が麻痺する代物らしい。

 そうやって指先一つ動かせない獲物から、体中の汁をじっくりと吸い取るのだとか。



 糸繭の中から不意に、太い腕がニュッと現れた。



 その剛腕はまとわり付く蜘蛛糸を物ともせず、素早く正確に這い上がってきた子蜘蛛を鷲掴みにする。

 腕が繭の中へ引っ込むと、バリボリぎゅむもぐもぐりと何かを咀嚼するような音が聞こえてくる。


 しばらくの後、ぽいっと子蜘蛛の手足だけが外へと投げ捨てられた。

 子蜘蛛の残骸は、繭の真下で燃え盛る松明に炙られながら火の勢いを少しだけ強める。


 さっきからこの光景が延々とループしており、ギールの神経は蜘蛛毒とは全く関わりなしに麻痺しきっていた。


 子蜘蛛を始末した繭の主は、またも奇妙な物音を立て始める。

 低く高く調子外れに。


 苛立たしげに、新しい子蜘蛛が再び糸の塊を伝い始めた。

 物音が止みしばらくして、子蜘蛛の残り滓が吐き出される。

 その繰り返しを眺めながら、ギールは世の儚さを感じ取っていた。



「俺様の言う自由とはそもそもなんだ。虫けらに奪われる程度のものなのか。だがあの腕の持ち主は、束縛された身でも豪胆に振る舞っている。あれこそが真の自由気ままと言うものではないか……」



 新たに捕まった子蜘蛛の死骸が再度、松明の火にくべられた。

 憧れの眼差しで隣にぶら下がる人物を見つめていたギールだが、突如、周囲の暗がりが動いたことを不審に感じ顔を上げる。



 いつのまにか、ソレは頭上にいた。



 灌木にのしかかる巨大な影からは、八本の長い脚が伸びる。

 松明の灯りを跳ね返す複数の眼は、あまりにも無機質だ。

 口蓋から飛び出した長い牙が、獲物を求めるようにゆっくりと蠢いた。


 親蜘蛛のあまりの大きさと不気味さに、ギールは両目を見開き息を止めた。


 そんな少年に一瞥もくれず、大蜘蛛は呑気な音を立て続ける糸の塊へ近付く。

 一切の音を消したまま繭に取り付いた親蜘蛛は、大人の二の腕ほどの太さを持つ牙を剥いた。


 大きく口を開き、糸に捕われた哀れな犠牲者へ容赦なく牙を突き立てる。

 繭から鳴り響いていた音が、パタリと止まった。


 その後に起こる惨劇を予期しながらも、ギールは目を逸らせずにいた。


 優しく吹いた風が沼の水面を揺らし、薄曇りを束の間取り除く。

 月の光がギールの眼前に、信じがたい光景を映し出した。


 糸の塊から伸びた腕はあろうことか片手のみで、がっしりと親蜘蛛の牙を掴んで喰い止めていた。

 体格の差は倍以上だ。

 だが牙はそこに固定されたかのように、蜘蛛は身動ぎ一つできない。


 どうなるのかと息を詰めて見守るギールの前で、謎の人物の片腕は予想外の動きを見せる。

 掴んだ牙を手繰り寄せて、親蜘蛛の頭を糸の塊の中へ引きずり込んだのだ。


 同時に凄まじい吸引音が、空気を激しく震わせる。

 親蜘蛛の体が見る見るうちに、へこみひしゃげ小さくなっていく様にギールは瞬きさえ忘れた。


 ものの数秒だったろうか。

 大蜘蛛だったものは、ポイッと地面に打ち捨てられた。

 その死体は体液が強引に全て抜き取られ、からからに干からびていた。


 松明の火が燃え移り、蜘蛛の死体が轟々と燃え始める。

 

 その音に負けじと、またも吊るされた糸の塊から音が鳴り響く。

 時に高らかに、時に低く奏でる波のような音を聞きながら、気がつけばギール王子は深い眠りに落ちていた。



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