言葉にすること、しないこと
フィリップスの話しぶりは、淡々としたものだった。
物心つくかつかないかの時期に、何者かによって王宮から連れ出されて、東地区に放り込まれた記憶がある。攫って満足したのか、相手は手を下して命を奪うことまではせず、ただ打ち捨てられただけだった。物乞いをしている子どもたちに混じって、その日暮らしの生活で命を繋いだ。
辛酸を舐めた。
「気の弱いご令嬢が聞いたら、悪夢で眠れなくなるようなこともたくさんあったぞ」
さらりと言われて、ジュディは「私は気の弱いご令嬢では」と言い返したが、声がかすれていた。
いつの間にか椅子の側まで近づいてきていたステファンに、ワインを注いだグラスを差し出される。
「顔から血の気が引いていますよ。強がる場面ではないでしょう」
受け取ろうとしたが、手が震えていて、どうしても無理だった。ステファンはため息混じりに「これは俺の役目ではないのでは?」と、ソファに座っているガウェインに水を向けたものの、ガウェインは腕を組んで瞑目している。諦めたようにグラスを近くのテーブルに置き、「ひざ掛けでもお使いになりますか」とジュディに尋ねてきた。いつになく、優しい。
「寒くは、ないです。ありがとうございます……」
額に、脂汗が滲んできた。手だけではなく、体も震えている。
(殿下は、幼い頃にとても怖い思いをしている。いま生きているのが不思議なくらい、凄惨な経験も含まれているのでは……)
自分が同じ立場であれば、あのように強く自分の足で立ち、前を向いて生きていられただろうか、と自問する。過去に何があろうと、いまのフィリップスには、ひとを惹きつけてやまない輝きがある。眩しいほどに。
「先生? 気付けになるような、強い酒でも飲んだ方が良いのでは?」
フィリップスが、ごくごく軽い調子で言った。そこに彼なりの気遣いを感じて、話を聞いただけの自分がいつまでも動揺している場合ではない、と思い直す。ジュディはこわばっていた指を膝の上で伸ばし、無理にでも表情筋を動かして、笑ってみせた。
「話してくださってありがとうございます。ご心配には及びません。私は初夜の晩に夫から『お前を愛することはない』と言われても平気な女ですから、決して気が弱くは」
しまった。
ジュディは笑顔のまま固まった。フォローする? しない? いま何を言ってもこの空気はごまかせないんじゃないかしら? と思いながら、他の誰かが何かを言い出す前に果敢に手を打つ。
「いまのは例えです。『初夜に夫からお前を愛することはないと言われる』は、気の弱い令嬢が取り返しのつかないダメージを受けるお決まりのシチュエーションとして、御婦人方の間で話題にのぼるネタです。私はその状況でも全然平気というのはつまり、気が強い方に針が振り切れているわけでして」
天秤でしたらこう、がこん、と沈む方です、と身振り手振りで説明をした。自分でも何を言いたいのかもうよくわからない。教育係の沽券が危うすぎる。
大変神妙な顔で耳を傾けていたステファンが、話の途切れたタイミングで口を挟んできた。
「天秤の重い方? 先生、目方が増えたんですか?」
けぶるような水色の瞳を細め、穏やかな声で尋ねてくる。どことなく失礼なことを言われている気はしたが、ジュディは見惚れるほどに完璧に整ったその顔を見つめて「その通りですわ」と力強く答えた。
「私の場合、離婚でさらに気が強くなりましたから。未婚のご令嬢よりはよほど、天秤の重い方です」
「強さと重さが混ざってますよ」
言いながら、身を屈めて腕を伸ばしてくる。視界がぐるんとまわる。抵抗をする間もなく、その腕にさっと抱き上げられていた。
「ステファンさん!?」
憂いを含んだ長い睫毛、澄み切った瞳。華やかで影のある美貌が間近に迫り、ジュディは悲鳴じみた声を上げる。
額がぶつかるほど近く、まるで口づけでもするかの距離で、ステファンはくすりと笑って囁いた。
「羽のように軽いですよ、先生。力を入れたら抱き潰してしまいそうです。どこもかしこも細くて頼りなく儚い。あなたは、この体で――」
真摯な光を湛えた瞳にあやしい光を宿して、ステファンはジュディの体をしっかりと抱え直す。
「ミイラみたいにシーツぐるぐる巻きにされていたって本当ですか?」
「はい」
さくっと尋ねられて、ジュディもはっきりと返事をした。その通りであった。同時に、顔に別の影が落ちてくるのを感じた。いつソファから立ち上がり、ここまで近づいてきたのかもわからない距離に、ガウェインが姿を見せていた。
「お、ようやく起きましたか、閣下。寝ていましたよね?」
突然一切の興味を失ったように、ステファンはぱっとジュディを床に下ろして解放する。ジュディがよろめくと、ガウェインの腕に支えられた。落ち着いてから手を離し、ガウェインはさりげなくジュディを背にかばいながら、一歩前に出た。
「寝てはいない。殿下の話を聞いていた」
いつもより低く、不穏な声をしていた。ガウェインよりほんのわずかに背の高いステファンは、目を伏せるようにして視線をぴたりとガウェインに向けて、口元をほころばせる。
「疲れが出たのかと。さすがに、先生に男が近づくと気付くみたいですね。反応としては鈍いみたいですが」
「お前だからだよ」
気取ったところのない、限りなく素の口ぶりでガウェインはそう答えた。そして、同じ調子で言い足した。
「お前が俺に逆らうだなんて、疑ってもいないんだ」
「その安心感はどこから?」
緊迫感の漂う中、ガウェインは一歩踏み込み、勢いのままがつん、とステファンの額に額をぶつけた。
「お前は俺のことが好きだろう。裏切るわけがない」
ステファンの冷めた美貌が、溢れた感情で決壊するほどの発言ひとつ。すっかり黙らせてから、ジュディを振り返る。
「変なところ、触られてませんか?」
尋ねてきた声はいつも通り。
(あのステファンさんに、あんな表情をさせる閣下……! あの勢いで「俺のことが好きだろう」って言われたら、私だって動揺する……!)
目の前の一部始終に、妙にドキドキと高鳴る胸をおさえて、ジュディは「大丈夫です」とかろうじて答える。ガウェインはほほえみを残して、そばのテーブルに置かれたグラスを手にし、ワインを飲み干した。
それから、ソファに座ったままのフィリップスを振り返り、声をかけた。
「殿下ご自身から、その話を聞いたのは初めてです。結構覚えているものですね」
その一言で、ガウェインが事情を把握していたことを知る。それはそうよね、とジュディは納得した。自分が教えてもらえていなかったことも、納得はしている。こんな機密は、たとえ教育係が相手でも、おいそれと話せるものではない。
ガウェインの問いかけに対し、フィリップスは明るく笑って、なんでもないことのように答えた。
「言わなかっただけだ。覚えていないふりをした方が、周りは救われるだろう」




