宰相閣下の仮面
ガウェインが帰宅したのは、深夜だった。
部屋の中を歩き回るかすかな足音で、ジュディは目を覚ます。
彼はすでにジュディが寝ているものとして、気を遣っているのだろう。手にしているらしい灯りは最小限だ。遅くなったときのガウェインは、着替えも湯浴みも別室で済ませてくる。そのまま静かにベッドに入って、ジュディの隣で朝までのわずかな時間、眠るのだ。そういうところがとても優しいな、と思う。
(私があなたのその睡眠の邪魔をしてはいけないと、わかってはいるつもりなのですが……)
ジュディは、読みかけの本を手にしたままベッドではなくソファで眠っていた。
起きている必要はないと言われるのはわかっていたが、今朝はろくに話す時間もなかった。夜も顔を合わせなければ、一緒に暮らしているのにまったく話さないで一日が終わってしまう。
それが寂しくて、ぐずぐずと待っているうちに寝てしまったらしかった。
ジュディの位置から、燭台を手にしているガウェインの姿は確認できたが、テーブルのローソクは燃え尽きており、ジュディの周りは闇に包まれている。
この暗がりから声をかけたら驚くかしら? とジュディが考えたのとガウェインがベッドにたどりついたのが同時だった。
「……ジュディ?」
ベッドに姿がないことに気づいたらしく、不安げな声が響く。
驚かせてはいけないと思いながら、ジュディは闇の中からひそやかな声で呼びかけた。
「私はここです、ガウェイン様」
弾かれたように、ガウェインが振り返る。その俊敏さに、ジュディは目を瞠った。
(やっぱり、武芸に秀でている方だけあるわ。声をかける前に侵入者に間違われていたら、大怪我をしていたかも)
ソファの上で身を起こしている間に、ガウェインが滑るような足取りで近づいてきて、燭台の灯りでジュディの姿を確認した。
「ソファで寝ていたの?」
「淑女にあるまじき行動というのはわかっているのですが、本を読んでいるうちに居眠りをしたようです」
ガウェインは燭台を近場のテーブルに置くと、ソファに腰を下ろした。自然な仕草でジュディを抱き寄せながら「愛しい人」と囁き、口づけてくる。逃がすまいとするかのように、すぐに後頭部を手でがっちりと掴まれた。口づけは深くなり、ジュディは起き上がったばかりのソファに押し倒された。
胸を押し返そうと手をねじ込めば、手首を掴まれて、ため息をつかれてしまう。
「……なぜ人間には理性があるんだ」
「必要だからだと思います」
呻くようなガウェインの問いかけに対し、ジュディはいつも通りの返事をする。さらに、念押しのように付け加えた。
「あなたはこの国でいま、もっとも理性的な判断力が必要とされている宰相閣下とお見受けします。大丈夫ですよ、体を起こせばすぐにいつもガウェイン様です。さあ、まずはその手を離して」
「恐ろしい暗示をかけようとしているな。いいだろう、乗っておく。いまの俺には『有能な宰相閣下』の仮面が必要だ。君の前でも被っておくよ」
挑戦的な口調で言いながら、ガウェインはジュディの背を支えて抱き起こした。並んで座る形になり、ジュディは乏しい灯りの中でその超然とした横顔をしげしげと見つめた。
(きつく言い過ぎたかしら? お疲れの中、せっかく屋敷に帰ってきたのに、寛ぐことも許さないなんて)
自分は彼に緊張感ばかりを与える存在になっているのではないか――そう危惧するジュディに、ガウェインはちらっと視線を流してきた。そのまま、耳元に唇を寄せて囁いてくる。
「さすがにベッドに入ったら仮面は外すよ」
「ああ……裸で寝るのがお好きですもんね」
「健康に良いよ。君もそうするといい」
ちゅ、と耳にキスをしてから、ガウェインはふと何かに気づいたように正面に向き直った。
ローテーブルの上に、書類が数枚重ねて置いてある。
「勉強?」
「そうとも言えるかもしれませんね。今日、ヴィヴィアンさんに聞いたことを復習していました。ガウェイン様を狙っているご令嬢及びそのご家庭、背後関係についてだそうです。狙っているというのは、妻の座ですよ。そのことによって、私は命を狙われているかもしれませんが」
「見てもいいか?」
「どうぞ。何か訂正すべきところや、付け加える点がありましたらご教示ください」
ジュディの答えを待って、ガウェインは書類を手にした。ジュディは燭台を持ち上げて、ガウェインの手元を照らし出す。「ありがとう」と言いながらガウェインは文字列に視線をすべらせ、紙を繰った。
「……なるほど。挙がっている名前は予想通りだが、補足情報は観点がいいね。俺も見落としていたようなことがあって、勉強になる。特に、ご令嬢たちの父親の事業と王宮内の派閥までカバーしているのは素晴らしい。この辺何人か、クラブに引き込みたいな。俺が娘婿としてついてこなくても、俺とのつながりがあれば十分と考えている紳士たちも中にはいるはずだ」
「クラブですか?」
初耳の言葉にジュディが食いつくと、ガウェインはさらっと答えた。
「紳士の集う社交場を作ろうと考えている。『金曜会』のようなものだ。出入りは金曜日に限らず自由、ただし女性の立ち入りは禁止。家柄や財産を含め、厳しい基準をクリアした優秀な『男性』だけが会員になれる」
きっぱりと言われて、ジュディは「あら」と少しばかり鼻白む。
優秀さに関しては男性も女性も無いのではないかという気がしたし、家柄を重視するというのも時代に逆行していく考えのように思えた。
だが、ガウェインには何か考えがあるのだろうと、すぐにそれを口にすることなく考えてみる。
それを見越していたかのように、ガウェインは紙から顔を上げて、ジュディを見つめて口を開いた。
「たとえば会員の基準に『上院もしくは下院のいずれかに所属する議員であること』という基準はありだと思っている。貴族も平民も一堂に会することが、理論上は可能だ。このまま選挙法が変わっていけば、女性もいずれは議員になるだろう。ただし、クラブの立ち入りは禁止、そこは譲れない。理由は、家庭のある男性にも気兼ねなく来て欲しいから。優秀な女性との会話が刺激的なのは、俺にだってわかるよ。なにしろ俺には君がいる。だが、尊敬できる優秀な女性である君がその場に出入りし、他の男性たちと交流をしている姿を見るのは、心情的に辛いものがある。だからといって『俺はこれからクラブで他の優秀な女性から刺激を受けてくるけど、君は屋敷で留守番をしていて』とは言いたくない。どう? 君はそれを俺に言われたとき、どんな気分になる?」
淡々と説明をされて、ジュディは理屈よりも先に心で理解した。
「そう言われてしまうと、その通りですね。私は、夜会に参加すれば慣例で他の男性とダンスすることもあります。同様に、そのクラブの場では男女で刺激的な会話をするのが礼儀とあらば、ガウェイン様に雛鳥のようにつきまとうわけにもいきませんので、自分なりに交流を持とうとすると思います。私よりも積極的な女性は、喜んでそうなさるかもしれません……。やましいことではないからと、大胆にガウェイン様の正面に立ち、論争をふっかけるかも。それをパートナーである私が目の当たりにするのも少々しんどいですが『そういう場だから、君は留守番で』と言われてしまうのも面白くはないです」
そうそう、とガウェインは頷いた。
「おそらく、多くの男性のパートナーである女性たちも、そう考えるのではないかと思う。その場合、快く男性を送り出しにくいだろう? クラブに行くと言って、家を顧みず浮気のひとつやふたつ……なんて疑いもするだろうし。実際、恋愛のいざこざもハニートラップもあるだろう。それは、どう考えても面倒だ。だから紳士のクラブには女性が禁止。君はこれを女性差別だと思うか?」
差別という強い言葉を使われて、ジュディは一瞬緊張したものの、ゆるく首を振った。
ガウェインはそこで話題を変えて「それもこれもね」と続けた。
「情報というのは、戦略上非常に大切なものだ。メディアを押さえられるというのは、相手方に軍隊を掌握されるくらいの脅威となると、最近の件でよくわかったばかりだから。国内最大有力紙『パブリッシュ』の買収とかね。あれを阻止できなかったのは痛かった。こちらも、このまま手をこまねいているわけにはいかない。有力者を直接押さえに行く必要がある」
「ですが、ガウェイン様のいまの微妙なお立場では……」
表立ってひとを集めるのは難しいのでは。
そう言おうとしたジュディに対し、ガウェインは破顔して答えた。
「とても信頼できる相手が発起人として世間に対して名前を出し、客寄せとなってくれると約束してくれた。俺はその人物については、あまり心配していない。外国暮らしが長かったらしいのが、少し気になってはいるけど。スパイを引き受けるには十分な期間のようだから。そこさえ目を瞑れば、一見すると俺とは血縁でもなく関係ないが、誰が見ても背後に俺がいるのが明白。そういう素晴らしい人物だ」
「すごい! いい方を見つけましたね!」
ガウェインに頼りになる味方がいると聞いて、ジュディは声を弾ませて言う。
にこにこと笑ったガウェインは「そうなんだ、それもこれもすべて君のおかげだ、ありがとう」と過剰な謝辞を述べながらジュディを抱き寄せてキスをし、そのまま再びソファに押し倒す。
すぐに、先程と同じことをしていると気づいたようで、がばっと起き上がると「だめだ、続きはベッドで」と言って、ジュディを抱え上げてベッドへ急ぐのだった。




