殺意は躍る
ちょい調整
「嗚呼……」
恍惚の表情で、アハーマが囁く。一歩踏み出した先で天を仰ぎ、無手の両腕を広げる。わずか十メートル先には、敵意を剥き出しにした死兵がふたり。そんなものは、この場の小さな飾りでしかない。
背後に立つラウネの、甘い香りに酔う。静かに首筋を撫でる、無音の暴風のような殺気を心ゆくまで味わう。
――わたしに。そして、きっと彼女にも。怖いものなどない。
なぜなら。もう最強の敵を、知ってしまったから。身も心も震わすような最高の恐怖を、なにものも代えがたい戦いを知ってしまったから。胸を灼くあの熱を、肌を切り裂くあの痛みを知ってしまったから。だから。
なにもかもが陳腐だ。なにもかもが退屈だ。薄曇りの空の下、微温湯のなかで、色を喪った世界で生きているようなものだ。
ずっと、求めていた。夢見ていた。希っていたんだ。あの輝くときを。光に満ち色彩に溢れた、この場所を。
「……渡さない。誰にも」
この世に、これ以上の楽園などない。世界の誰よりも、自分を殺したがっている相手を背中に感じて。でも絶対に殺されないという確信に浸る。その理由は友誼じゃない。間違っても信頼じゃない。
殺すときは前から。逃げも隠れもせず、真っ直ぐに目を見つめながら。そう決めているからだ。
もう耐えられない。思わず笑みが零れる。背筋を耐え難いほどの恍惚が走る。呆れ顔で見ているであろう最愛の敵が、小さく漏らした溜め息が聞こえた。
「ああああああぁッ‼︎」
張り詰めた気持ちが限界を超え、最後に縛っていた細い糸が弾け飛ぶように。
猛り狂う獣が、雄叫びを上げながら突進する。鞘から引き抜きざま短剣を突き出す。
「……ッ!」
敵の反応もまた一瞬だった。年嵩の男が長剣で受け止め、流しつつ切り返しざまに振り抜いてくる。
彼我の体重差は一目瞭然。身長差と攻撃圏の差も明白。アハーマの身体は鍛えられているが細く小さく、魔力と魔圧もそう高くない。となれば手数で補い速度で翻弄する戦法なのも読まれていて当然。
だとしても。迷いなど、ない。
常人には視認すらできないほどの加速。敵の間合いを潰せば、勝ちは決まったようなものだ。アハーマに殺せない相手など、背後にしかいない。
避けられても押し返されても、彼女には関係ない。弾かれても防がれても、次の攻撃を繰り出すだけ。攻撃が軽かろうと攻撃圏が狭かろうと、結果が果たされれば問題ではない。手数と速度で、ただひたすらに押し込む。相手が倒れるまで、アハーマは全身で打ち込み続ける。
あらゆる角度から繰り出される双剣の斬撃。全ての敵を斬り伏せてきたそれは、見る者の目には小さな嵐のように映る。それで付けられた二つ名は。
「……“死の風”⁉︎」
副官と思しき男が小さく呟くのを聞いて、アハーマは彼がただの兵士ではないことを察する。ラウネの牽制を巧みに避け、副官は動いた。目的は、切り刻まれている上官の救出。
血飛沫を上げる年嵩の男は、倒れかけてもなお目が死んでいない。とどめを刺すまでに必要なのは、あと四撃。
だが、その間はない。死角に、回られた。
「しッ」
アハーマは気配だけで身体を傾け、飛んできた魔力硬化鞭を躱す。手元で伸びる上に妙な弧を描き、引き戻しの軌道では後頭部を掻き切るような動きまで見せる。
膂力も魔力も特殊な武器も。その使い方も熟れた、なかなかの手練れだ。アハーマと同じ人外ランク、と言われれば納得するほどの難敵。
だが彼女の心は、微塵も熱を持たない。
“そのまま”
傾けた姿勢で止まったアハーマの身体を死角として利用し、ラウネの“鞭笞”が音もなく打ち出された。男が引き戻した鞭体の影に重なるような勢いで。その先端は音速を遥かに超える。
青白い魔力光が弾けて、“鞭笞”と魔力硬化鞭が絡まりながら千切れ飛ぶ。
“もう動いて大丈夫”
飛び退る鞭使いの利き手側に身を沈め、アハーマの身体が間合いの内側に入り込む。攻撃圏の外側から斬撃を被せる。敵に避ける以外の選択肢はないはずが、あっさりと鞭を手放して転がった。
敵に覆い被さる勢いで頭を下げ転がると、アハーマの頭上を長剣が振り抜かれる。
「ちッ」
最初に打ち合った年嵩の男だ。あの出血で、満身創痍で。まだあれほどの斬撃を繰り出すとは。元暗殺者は心のなかで感嘆の声を漏らす。
気配もなく。視覚にも入らない完璧な不意打ち。躱せたのは単なる幸運でしかない。
「マイル!」
鞭使いの男が草のなかに身を投げた。アハーマは気配を読みながら、身を潜めた男たちの目的を訝る。退却していくようだが、目的がわからない。正面からぶつかる愚を悟ったのか。とも思ったが、その判断は遅すぎる。あるいは、まだ早い。
「【索敵】」
“菌癒”
アハーマとラウネの声が重なり、魔力による包囲が男たちを追い詰めてゆく。
彼らが逃げてゆく先にあるのは、脚を喰われてもがく瀕死の軍馬。齧り付いているのは数体の<倒立葬花>だが、次々に斬り倒されて数を減らす。魔物の吐き出す“体内魔素”と濃い血の匂いが、男たちの気配を隠し始めていた。
彼らは、まだ気持ちが死んでいない。身体も、生きることを放棄していない。
「あいつらの目的は」
“部下の馬に積まれた、魔道具。どこかで嗅いだことのある、臭い”
ラウネが、すんと小さく鼻を鳴らした。
撒かれた“菌癒”の粉が風に乗って草原を漂い、息を細める者たちに降り注いでゆく。
“さっきの、大きな魔法に……”
「焼尽炎弾か?」
“そう。それに近い、何か”
火炎系の攻撃魔法を発生させる魔道具か。アハーマも存在を聞いたことはあるが、実物を見たことはない。
魔導師と兵士が兵科で分けられるアーレンダイン王国で、魔道具はあまり一般的ではないのだ。
「草が焼かれて困るのは、逃げ場を失うあいつらの方なのでは……」
“だめッ!”
バシンと奇妙な音が鳴って、アハーマが倒れる。
その胸から鮮やかな血が噴き出すのを見て、ラウネが甲高い悲鳴を上げた。
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