終前話「最後の二人」(挿絵あり)
悪には様々な名前がある。
ミズチ、アサメイ、魔術、使い魔、膜、躬冠、霧争、黄泉、ユダ、信奉者、暗黒界、種子、レヴィアタン、鎖、セノバイト、ラプラス、デモゴルゴン、アバドン、666、ビースト、反キリスト、不法の者、黒衣の男――――
それだけではない。
悪はあらゆる所に息づく。
無数に潜んでいる。
静かに伝染して、
一気に増殖する。
常に身近にいて、見えない。
木徳直人も、その一つだ。
夜の教室に佇んでいる。
「何か言えよ、ミズチ」
対面の黒川ミズチは目を瞑っていた。
答えない彼女を見ていた彼は、奇妙な感覚に陥る。
自分の心臓が静かに強く脈打っているのは聞こえるが、頭の中では冷静さを邪魔する何かが引っかかっていた。
『殺してやる』
死の宣言も実行できずにいる。
――殺せば、元通りになる。取り返せる、自分の人生を。
なのに、
「――いや、殺す必要はない。今の俺なら思うだけで、ミズチ、お前を消せる」
ミズチは指さえ動く気配がない。
「この瞬間、その鎖は、もう必要ない」
鎖が失せた。
拘束も失せた、
かに見えた。
「――あの時みたいにダンス、踊って見せろよ」
踊れるはずがない、嫌味だった。
彼女は立ち尽くしている。
見えない力で今も縛っていた。
「お前は売女だ。大淫婦バビロン。初めから、この先も永遠に。
俺は盲目だったが、今は見える。慈悲は燃え尽きた。この世界を血に染めたのはお前だ、ミズチ。お前のせいで……俺は感じる。
今この時、念力の種族が拡散していく。セノバイトで、宇宙中の暗黒物質が上書きされる。
原子への侵食を、感じる!」
直人は自分ではない誰かが演説している気分だった。
自覚があるのに止められない。止める自分が何なのかも分からない。
それでもミズチは沈黙していた。
「何か言えッ!」
頭の中、引っかかりに対しても。
「俺がおかしいんじゃない。愚か者は消えた」
何かが強まる。
――どうすればアイツを打ち負かせる、どうすれば……。
彼女が目を開けた。
「あたし……直人くんとずっと一緒にいたかった。けど死ななきゃいけないならそれでもいい。殺されてもいい。直人の為なら――」
「よくそんな事が言えるな。あんな酷い事を俺にしておいて。お前はまだ謝ってもいない」
ミズチは驚きと戸惑いの表情を見せてから、顔を伏せた。
「謝れよ」
「…………」
「謝れ!」
「……ごめん」
「何だ?」
「ごめんなさい! あたし、直人にあんな……どうしてあんな……今はどうしてなのかも分からない!」
「いいよ。だったら、俺が、殺してやるッ!」
瞬時に景色がガラリと変わった。
夜の建築現場にいる。
静けさの中、二人は鉄骨や足場に囲まれていた。
彼女が見つめてくる。
「許して、直人。ごめん、だから……」
彼は視線を上方にそらして言った。
「上を見ろ。俺を殺そうとしたお前の、死が降ってくる」
錆びた金属。
長い鉄骨が降ってくる。
ミズチは再び目を閉じていた。
鉄骨が槍と化す瞬間。
肩から突き刺さる。
鉄が彼女の全身を貫いた。
血が飛び散る。
息も絶え絶えの声が聞こえた。
「……直……人」
ミズチが嘔吐物と共に内臓も吐き出す。
見ていた直人が片手で頭を抱えた。
「――クソオオオッ!!」
反応で景色が夜の教室へ戻った。
彼女の身体は窓からの月明かりに照らされていた。先程の傷は消えている。
けれど汗をかき、苦悶の表情を浮かべていた。
「早く……殺して……」
彼は声を無視して疑問を叫ぶ。
「なぜ消えない! ダメだ……これではダメだ!」
表情が歪んでいた。
脳のどこかが何かでおかしくなったと感じる。
だが次の瞬間、何かが閃光の様に――
「そうか、これだ……これだったんだ! この方法でいい、他にはない」
納得した直人は笑っていた。
「自由にしてやる。魔術も武器も全て」
アサメイが宙に浮いた。ミズチの前まで移動する。
宙で静止した銀色のアサメイ。彼女はそれ見て首を横に振った。
周囲の景色が剥がれる。
明かりの灯る荘厳な神殿の中にいた。
悪夢で見た神殿と同じだが、死地の空気が充満している。
今は石の一つから空気まで、黒衣の男の意思で構築されていた。
「取れよミズチ。能力者殺し。能力者なら、ここにもいる」
ミズチがまた首を横に振る。
「今では俺の周囲、あらゆる空気が障壁。思いのままに操れる。誰も俺に危害を加えられない。反逆の意思も刈り取れる。どこにいようが、歯向かった相手は排除出来る」
彼は続けた。
「だがお前ならどうだ。唯一のブラックキラー。力は元に戻した。膜があればセノバイトの精神干渉は防げる」
呼びかける。
「早く来い。その上でねじ伏せてやる」
「嫌……あたしには出来ない!」
叫んだ彼女へ右手を向けた。
掌で首を絞める動作。
「命令を、聞け!」
「うぐ……が……」
念動力が膜の上から首を絞める。
更に左手の幻影がミズチの胸を掴んだ。
膜を貫き、先にある心臓を握り締める。
「苦痛を永遠に味わいたいか」
「あがっ……イ……ヤッ……!」
「嫌ならなんだ? 中二病の売女が!」
彼女が拒絶の悲鳴を叫んだ。
左手でアサメイを掴んで宙を斬る。
黒いアサメイ――
その一撃は、見えないセノバイトも切り裂いた。
「使い魔をぶつけたのか!
俺の念力に!」
発想に感嘆の声をあげる。
しかし直人は直ぐ様に腕を突き出して、掌を上にした。
指で手招きする。
「かかって来い。誓いは消えてる」
目と目が合う。
「アンタは……違う。直人じゃない。誰なの? アンタは誰! 返して! あたしの……直人を、返して! 返してよッ!!」
悲哀と憤怒が入り交じった瞳。
雄叫びをあげながらミズチが走ってくる。
刃物を腰だめに構えて――
動きも叫びも、何もかも素人に似て滑稽だった。
だが彼は視線をそらさずにいる。
目と目を合わせたまま、
障壁の反応を制御した。
念力の種族の反応を制御した。
信奉者の反応を制御した。
悪意を制御した。
直人による反撃。
彼は無意識に反抗していた。
反して、直人の体表に膜が展開される。
まるで最終防衛ライン。
彼女の無意識による防御。
ミズチが守ろうとしているのだと分かった。
ふと何かを感じる。
暖かい、何か。
彼は思い出した。
二人でいた時の光景。話した事。交わした言葉。笑った出来事。楽しかった気持ち。安心した気分。相手の姿。何気ない仕草。気遣い。思いやり。
そして彼女の笑顔。
また愛犬と重なる。
溢れ出た記憶。
湧き上がる感情。
あり得なかった情景も。
右手と左手。
そっと繋がる。
何かによる彼の閃き。
無意識を見越していた。
過去と予測が未知を呼び込む。
変化が訪れる。
彼女を受け止める為に。
再び変容した。
素直な心が見える。
ミズチが動きを止めた。
黒いアサメイの刃も懐寸前で止まる。
――ああ、そうか。
直人は瞬時に答えを感じた。
頭がおかしくなった原因。
共感した理由。
――けど。
両腕で彼女を包んで、抱き寄せる。
「これでいい」
――ずっとこうしたかった。
ミズチの感触と体温を身近に感じた。
黒い刃先がゆっくりと腹部に刺し込まれていく。
感じる、残酷で激しい痛み。
それでもいいと、彼は思った。
害意があれば膜が阻む。
彼女に害意はなかった。
だから反応しなかった。
直人も同じだった。
自身に対して害意は持てない。
あったのはミズチに対しての――
だから利用した。
自分では出来なかったから。
柄から手を放した彼女が、力なくその場へ座り込む。
黒い刃は胸へ向けて斜めに刺さっていた。
――これでは浅い。
ユダの要領と同じ、まだ最後の一仕事が必要だった。
本当はミズチには見せたくなかった。
心が痛むから。
彼は柄を両手で掴む。
「お前を打ち負かす」
渾身の力を込めた。
「これで引き分けだ、湯田」
使い魔を帯びた黒いアサメイで胸を引き裂いていく。
黒衣の男がいる心臓――
――核を目指して。
6という字を描く様に、
円で心臓を切り裂いて、
最後に横へ引き切った。
ブラックを破壊した血塗れのアサメイを投げ捨てる。
直人はまだ立っていたかったが、
膝を床につけていた。
*
ミズチは放心していた。
現実を受け止められず、口からは嗚咽の様な声しか漏れない。
膝をついた直人の身体が倒れそうになって、やっと身体が反応した。
彼の身体を抱き支えて、血で服が汚れていく。
あの時と同じ。
だが違っていた。
「なんで。なんで、こんな。どうして、どうしてなの、なんでこんなに、血。血……お願い、治して、お願いだから。早く、早く、治して」
「ごめん、もう、治せない。治すわけにも、いかないんだ……」
胸に手を当てても血がどんどん溢れてくる。
同時に、心臓が崩壊しているのが見えた。
「嫌、イヤよ。嫌、イヤだから、こんなの嫌。時間を、そう、時間を止めて。止めればいい、止めてよ、時間、できるよね。止めて、止めてよ時間! 今すぐ、お願いだから……」
「もう、いいんだ。奴らが、消えていく……。門が閉じる……分かるんだ」
「ならあたしが治すから、使い魔で、絶対!」
けれど彼女は感じなかった。
「無理だ……使い魔では、治せない傷。それに……」
「どうしてなの? どうしてよ。使い魔、出てきてよ。なんで!」
「僕が……、ミズチを殺した」
直人が口から血を吐き出しながら言葉も吐き出す。
「ブラック……、魔術師使いが壊れたら……きっと、根源が消えたら、種子も消える……」
彼が微笑んだ。
「嘘よ、そんなの嘘だから、あたし信じない。だから出てきて、出てきてよ」
直人が呟く。
「最後に、自分の為に、残った力を使っても……いいよな……」
景色が剥がれる。
真っ白な空間に二人はいた。
冬を迎える雪が降る。
桃色の雪だった。
雪が春の桜に変わっていく。




