第三話「黒い獣」(挿絵あり)
躬冠黄泉は必死で逃げていた。
包丁も部室で落とし、今は混乱と恐慌で脚だけ動かす。
――アイツ、何?
街中に出ていた。
足が絡みそうになるが踏ん張ってバランスを保つ。
窓へ咄嗟に飛び込んだ勢いで、彼女の身体には数か所の裂傷があった。
制服に血が滲んでいる。
リスの様な愛らしい顔にも浅い切り傷。
顔の傷より黄泉は命が惜しかった。
平日の夕刻は人通りが少なく、彼女は焦った。
――追われてたら、見つかる!
振り返り、通行人の顔を次々確認。
木徳直人の顔はなかった。
安堵して目を瞑る。
呼吸を整え目を開けた。
黄泉の視界に何かが映る。
まだ数十メートル先。けれど確実に違和感を覚えた。
黒い影――
人と人との間にある黒い何か。じわじわと大きくなるのが見える。
こちらへ近づいていると彼女は感じた。
急いで向きを変えて走り出す。
――何よアレ!
目の錯覚、恐怖感でおかしくなったのだと判断した。
――こんなはずじゃない。こんなはず、
黄泉は走りながら思い出していた。
数回のメールの差出人、親愛なる友人がよこした文面を。
――葛葉レイに接触して『四曜の術』を促す。
成功すれば、兄の行方を知る超常現象の元凶、真犯人へ辿り着ける。
その手段、都市伝説『ブラックサイト』が出現するページ。日付と時刻。
更には儀式で起こる現象。二人分の生命力を吸収する魔術。
自分も参加必須である旨。そして吸収する立場である事――
心を病み藁も掴みたかった黄泉にとって、他人がどうなろうと知った事ではなかった。
そもそも当初は半信半疑。彼女はレイほどオカルトを信じていない。
だが注意すべき点もあった。
吸収を果たしたもう一人。該当者とは儀式後の接触を避けよとの点。
相手がレイだと分かっても彼女はどうでもよかった。
関係に距離をとり、離れていった。
術の実態は願いを叶えるのではない。生け贄を誘う口実である。
術者の願いが叶ったと感じても、精神の死を和らげる快楽の幻である。
メールにそう書いてあった。
術で泉が得られる力。
それは真犯人と同じ力。
敵への対抗策にもなる。
『君の願いは叶う』
最後の文章を読んだ際、皮肉にも願いを叶える術を得たとは彼女は思っていた。
――なのに。あそこまでやったのに!
「木徳……アイツのせいで」
黄泉は人気のない路地裏へ入った。
息を整える。
距離は相当引き離した。暫く隠れてやり過ごす魂胆だった。
薄暗い奥へ入っていき、壁にもたれかかる。
隅には不潔な鼠がいた。
――忌々しい。
彼女は殺意を飛ばした。
鼠が何かに押し潰され、爆発。
血痕だけが残った。
力は戻っている。アイツから離れたからだと考えた。
初めて魔術を使った数日前を思い返す。
突然現れた自身の膜を見た時は驚いた。念じれば膜が離れて物を動かせる事にも。
極めつけは生き物を簡単に殺せる魔術。ただこれにはコツがあった。
慣れていないからか、殺意自体では発動しなかったのだ。
まず殺意で標的を固定、引き金を引く要領で憎悪を爆発させる。
先程の鼠と同じく人間以外の動物で試すと上手くいった。
他にも何か力がある気はするが、思い描けない。
多分きっかけがいるのだろうと、黄泉は感じていた。
ブーンという音がする。
どこからか湧いた蠅に彼女は苛ついた。
飛ぶ生き物は標的として上手く固定できない。鬱陶しい、と手で払う。
嫌がった蠅が表通りへ飛んでいく。
路地の入口。
黄泉は注視した。
黒い何かが、立っている。
影の様な姿――
「ひっ」
彼女は小さな悲鳴をあげた。
黒い影の様な者がこちらへ歩いて来るからだ。
近づいてくる。
数メートルで立ち止まる。
そこにいるのは、
――木徳ッ!
「俺からは逃げられない」
彼は静かに立ち尽くしていた。
「なんで私のいる所が!」
「俺の目は二つだけじゃない」
言われた後、眼球の前でブーンと音がした。
――まさか、蠅?
そんなバカな。
木徳が話しかけてくる。
「部室での続きだ。ハンデもやる。魔術を使え」
言われるまでもない。
エネルギーを感じていた黄泉は臨戦体勢に入っていた。
彼が腕を突き出し、掌を上にして指で手招きしてくる。
「かかって来い」
彼女の殺意が飛ぶ。
「お兄ちゃんの…………殺すッ!」
憎悪で大気が揺れた。
クォンと音がして空間がズレる。
起こしたのは黄泉だが目の錯覚かと感じた。
随分手前で発生したからだ。
「殺す殺す殺す!」
空中から溶岩めいた液体も吹き出す。
それらがシャワーの様に飛び散る――
だが木徳は無傷だった。
膜ではない。もっと手前。
見えない壁の様な何かが彼との間にある。
何かのせいでなぜか攻撃が届かない。
文字通りの防壁、防壁は膜の事だ、と混濁した考えも生じた。
原因を探る為に凝視すると、数匹の蠅が飛んでいた。
次の瞬間。
黄泉は恐ろしい事実を目視した。
蠅に膜がある。
防いでいたのだ。
蠅が。
膜で。
飛んでいる、
複数の、
蠅が、
――まるで透明の、飛ぶ、小さな盾。
意味が分からなかった。
目が乾いて一瞬だけ瞑る。
すぐに開く。
木徳の両側に、二匹の大きな犬がいた。
それだけではない。
自覚のない“魔術眼”に映っていたのは、
木徳直人ではなかった。
重なる様に、
別人が同一人物の様に、
背の高い――
黒いスーツを着た男。
重なる。
頭がおかしくなったのかと彼女は思った。
木徳の前ではもう蠅さえも殺せないのでは? そんな激しい疑念に縛られて、口走る。
「……アンタ、一体、何!!」
少年は一瞬考え込む様に顔を伏せた。
「俺は――――」
黒衣の男が顔を上げる。
「不法の者だ」
*
直人が黄泉へ告げた。
「“転位効果”。無意識でも蠅が気になる。だから自動で迎撃した。標的も固定できない未熟な魔術――
俺に届く事はない」
彼は側にいる狼の夫婦の頭を撫でた。
「彼らを殺す事は出来ない。彼女らにも膜がある。成熟した俺の念力と共にあるから――
お前の復讐はここで終わる」
直人が命令する。
「行け」
二匹の狼が弾丸の様に駆けた。
彼女は叫びながら魔術を放つ。
現れた現象を狼達の膜が防いだ。
狼が黄泉に飛びかかり、執拗に何度も噛みつく。
一分間。
遂に膜が貫かれ、破れた。
牙が柔肌を穿つ。
肉を裂く音がした。
悲鳴と唸り声。
「もういい。下がれ」
倒れた黄泉に彼が近づく。
狼はすぐに噛むのをやめて下がった。
「これは俺からだ」
思いきり腹を蹴る。
「これはミズチ」
顔面を蹴り上げる。
「そしてレイ」
傷と血にまみれた女の顔を踏みつけた。
充分踏んでから瀕死の黄泉の襟を掴む。
引きずり上げる様に立たせた。
接吻する程の近さに顔がある。
直人が口を開けた。
彼女の口も見えない力で無理に開かれる。
黄泉の口内から黒いエネルギーが溢れ出た。
黒い粒子が彼の喉から奥へ吸い込まれていく。
火と月を吸収し終えた直人が、彼女の耳元で囁いた。
「まだ終わってないぞ」
放り投げる様に明るい道路へ向けて突き放す。
泉は酔っ払いに似た後ろ歩きでよろけた。
上方から黒い影が近づいて来る。
彼女めがけて舞い降りる。
弧を描く様に黒い姿が頭上を通り過ぎる時、
足が泉の額を蹴った。
微弱な力で押された彼女が、
道路へと躍り出る。
「兄貴に宜しく」
瞬間。
巨大なトラックのバンパーが泉の姿を視界外へ吹き飛ばした。
彼は既に空を見上げていた。
遥か上空へ向け、人間には見えない手を伸ばす。
何かが来る。
直人はそれが何か知っていた。
彼自身が操縦士を操り、下降させたのだから――
誘導された巨大な旅客機が降ってくる。
まるで不安定な紙飛行機。
玩具みたいにゆっくりと。
直人は両手をズボンのポケットに入れて歩き出した。
落下予定地とは逆の方へ。
烏は先に飛び去り、蠅と狼が彼に随行する。
ジェット機ならではの轟音が響く。
直人は乗客の恐怖も聴き終えていた。
落ちる。
泉の死体がある場所へ。
凄まじい爆音。
地響きが起きた。
炎と砂の匂い。
近隣で起こる悲鳴と怒号。
風と破片が飛び交うが、煙も音も何一つ彼には届かない。
直人には依然膜はなかったが、周囲の全てが障壁だった。
邪魔な物は全て排除できる。
彼は既に知っていた。
三つの6が同時に疼く。
直人という獣の脳が、深淵を覗き見た。




