第三話「無音の心」(挿絵あり)
「――いや、違う。そんな気がするだけなんだ。音楽が聴こえる気がする。この中で」
木徳直人は自身の頭を指差して表現するしかなかった。
何かの音が聴こえるでも幻聴でもない。曲が聴こえる感覚だけあるのだから。
他に表現の仕方がなかった。
告白を聞いた黒川ミズチは物言いたげな顔をしていた。
要領を得ないと思った彼が促す。
「何か言いたい?」
「うん……それ、は」
口ごもり逡巡している。
待ってもハッキリしない。
「歯切れが悪いな。ハッキリしてくれ」
「……ごめん。なら言うね。それはもしかして『地獄にいる』みたいな感覚?」
数か月前の直人なら『意味が分からない。中二病?』の感想で一蹴した。
だが今の彼には分かる。
異質な『いる』という感覚。見えない墓場に片足を突っ込んでいる気分が――
「ああ……どうしてそうだと分かる?」
「ミズチも感じてるから。ううん、違う。ずっと感じてたけど最近は感じなくなってきた」
ミズチも似た感覚を持っていたなら、と直人はその先を思案した。
イメージとしての牢獄、黒い部屋、何かの根源――
彼女が続ける。
「それまでは地獄だとかそんな風には感じなかった。むしろこの世界の方を地獄みたいだと感じてた」
「なら今は?」
「今は……不思議な気分。薄らいだ感覚の方が紛い物だった気がするの。前は人も嫌いだったのに。最近は嫌いじゃない」
「そうか」
「ねえ、直人くん」
また突然キスでもねだられるのかと彼は思った。
「あたし最近はね、誰かを殺したいって欲求も無くなってきたんだ」
「それは良かった」
「直人くんと一緒にいて、ミズチは変わったのかもしれない」
はにかんでいた。
ミズチの素直な感情が見える表情。
――どうでもいい、そんな事は。
そんな彼女が生真面目に言ってくる。
「だけど、直人くんを守る為なら。うん、あたしはいつも通り殺せる」
「頼もしいよ」
直人がふと聞いた。
「ミズチは、地獄とは逆の、天国はあると思う?」
一考したミズチが答える。
「分からない。前は考えもしなかった。だけど今は、分からない。あるかも」
「僕も前は漠然とあるかもしれないと考えてた。だけど今は、あるかもとさえ思えない」
彼は分からなかった、本当は何もかも。
ただ明確な意思と判断だけが胸中を支配した。
その夜、ベッドの中の直人は神殿にいた。
やはり夢の中だったが、そうとは気づかなかった。
古代ローマを思わせる荘厳な神殿。
等間隔の支柱と松明の間。
全裸の彼が一人掛けのソファに座っていた。
高級な本革仕様のソファ。
場違いだが肌触りは良い。
神殿の持ち主になった気分だった。
だがソファは自分の物ではなく新品でもない。誰かの愛用品の様だ。
だから腰もよく沈んだ。
革の表面もどこか汚ならしい。
血に似た跡が付いている。
程無く、直人は気づいた。
両脇に全裸の女。
一人が左腕、一人が右腕。
纏わりついている。
偉大な御手で、
愛でて欲しい――
そう主張する艶かしさ。
物欲しげな目配せ。
この女達が誰なのか。
彼は遅れて把握した。
右にいるのは次元由美。
左にいるのは友紀陽子。
次元の柔らかな部位が右手に。
友紀の滑らかな部分が左手に。
肉が当たるのを感じた。
卑猥な行為を受けても直人は無感動だった。
なぜか興奮さえしない。
右側の首筋がチクリとする。
瞬間、彼は別の場所に立っていた。
数メートル先。
ソファに座った自身の姿と二人の女が見える。
しかし関心の対象はそこになかった。
座っていた時には気づかなかった神殿の様子。
直人は驚倒して目を見開いた。
三人の背後に、無数の裸体が積まれていた。
裸の山だ。
人体がブロック代わりになった壁の様にも見える。
凝視するとよく見える。
山の全てが女体だった。
豊かな乳房を持つ女達。
各々で蠢いている。
異様な光景を目にしても、視線をそらせない。
遂には見た物の正体に衝撃を受ける。
積み重なった女体、
最初の夢で見覚えがある身体――
山の全員が、
――レヴィアタンだった。
夢中の彼は気づかない。
ソファの下の自分の影。
立った際にも出来た影。
二メートル程の体格から生じるその影と、
首筋に浮き上がった痣の断片に。
翌日の直人は平時と同じく登校し、真面目に授業を受け、変わらぬ休み時間を過ごした。
湯田黄一と話している間、黒川美月や葛葉レイの方も見ていた。
二人の様子は特段差し障りもない。
レイの周りの生徒達は指にある黒いタトゥを気にしていなかった。
見えてないのか、力の影響で気づいてないのか――
オカルト研究会はといえば、あれから休止状態。
不登校が一人、更に会長の状態が混迷にあっては休止も仕方なかった。
自身が原因の一端でもあったので、彼はこの状況を滑稽にも感じている。
今は停滞した戦況に退屈さも抱いていた。
「レイ、ちょっと」
放課後の廊下で、直人が人目の隙をついて声をかけた。
「直人!」
跳ねるかの様に喜びを見せた彼女が近づいてくる。
「少し話がある」
「何でも言って。ウチは何でも聞くから」
思った通り、レイは完全に彼の手中にあった。
だが直人は彼女を完全に操る気はない。
事態が安易になれば今よりずっとつまらなくなるからだ。
「ミズチの件が気になるなら、僕が彼女に話して都合をつけてもいい」
レイはふっと考える表情をしてから向き直った。
「話をつけて欲しい。ウチはミズちゃんと片をつけたいから。直人もその方がいいんでしょ? だからこんな話をウチに持ちかけたんだ」
見透かされていた。
ならば素直に吐露すべきだと考えた。
「鋭いねレイは。話の呑み込みが早いレイのそういう所、僕は一番好きだよ」
好きという言葉を耳にした彼女は驚いた顔を見せた。けれどすぐに幸福感を撒き散らす表情になる。
「ありがと……ウチも直人が好き。大好き」
酷くバカバカしい、愚かな相手とのやり取りだと心中で毒づいた。
所詮は能力で精神のバランスが崩れている人間なのだから。これは無理やり均衡を保っているに過ぎない――
それからレイと二三の段取りを話して、彼はその場から立ち去った。
直人はミズチにメールを入れてからアジトへ向かった。
いつも通りすぐ返信が来る。
今はアジトにはいない旨の内容。
言わずとも彼女は飛んでくるらしく、そのままアジトで待ち合わせをする。
室内で待っていた彼は片膝を立てて座っていた。
独り言もなく、
何かを見るでもなく、
笑うでも怒るでもない。
だが真顔でもない表情で、
じっと空間を捉えていた。
ドアの音がして、ミズチが姿を見せる。
軽く息が切れていた。
――走って来たのか。
「話って、どんな……?」
赤い眼鏡以外は学校で見かける姿と何ら変わらなかったが、今までの彼女とは異なる印象を直人は受けた。
街中で人混みに紛れたら見つけられない、平凡な印象。
「レイとの件だよ」
「……そっか。レイの事、何とかしなきゃいけなかったね」
少しがっかりした様な表情。
それを見ても、彼は気にせず話を続けた。
「ここに来る前に僕がレイと話をつけておいた」
「そうなんだ。それでどう?」
「ミズチにも話をつけると言ってある。『明日の放課後、体育館の裏で』と伝えて段取りもつけた」
「……うん」
「僕の面子の為にも、明日一緒にレイと会って欲しい。頼むよ」
「分かった」
これ程簡単な話もない、と直人は改めて胸中で笑った。
直接的な事は何も言っていない。だが示唆した意味はミズチも汲み取っている。
彼はいつも通りの礼を述べた。
「ありがとう」
――明日が楽しみだよ。
「レイの目的はあたしだけ。直人くんには手を出さないはずだから」
無邪気な笑顔だった。




