第二話「夢時間」(挿絵あり)
根源的な原因は木徳直人の気分の高揚。
「ミズチは、彼氏とかはいるの?」
聞いた理由は本人も分からない。
黒川ミズチに恋人がいる様子はなく、いるならこうも一緒の時間を過ごすはずもない。
「いないよ」
彼女には何の困惑も見られず、当たり前に答えていた。予想通りの返答を。
ミズチは人格、私生活的に多大な問題があるのだから。
「直人くんは彼女いるの?」
当然の如く尋ねてきた。
何の躊躇もない調子。
「いるわけない。そう見える?」
先程の自分の様に回答は予想済みだろうかと彼は気になった。
「知らない。男子をそういう目で見た事ないから」
「ミズチこそかなりモテそうに見える。ポジション的にも」
スクールカーストの含みを持たせていた。
「確かにモテるよ」
遠慮のない率直な返答。
「だろうね」
率直すぎて逆に清々しく感じた。
「けどあたし、そういう人間に言い寄られても鬱陶しいとしか感じなかった。ミズチは恋愛にも交際にも興味がないから」
興味がない。
言葉が耳に入った瞬間、直人はガラスのナイフで刺された感触があった。
場所は心臓の中心。
「そもそもあたしって女かな」
どう見ても女。
意味不明だが彼は興味本意で受け入れた。
「ならミズチは異性の好みのタイプとかもないの?」
「分からない。考えた事もなかった」
「そうなん――」「――けど」
相槌に彼女が割り込み、続ける。
「なぜか思い出す、」
艶やかな唇が滑らかに動く。
「――直人とのキス」
胸が締めつけられた。
息苦しくなる。
「それってどの――」
「直人くんの好みのタイプは?」
記憶の検索から引き戻される。
胸の縛りからも解放された。
「僕は……女らしい子かな」
最もらしい回答。
だがミズチは神妙な顔つきになる。
「女らしい……。ミズチにはない要素」
「そんな事ないと思うけど」
「普段のミズチ――美月みたいなタイプは、あたしの本質じゃない」
「優等生の黒川さんは別に僕の好みではないな。ていうかこの話……ややこしい!」
怒声にならない程度に声を張る。
「僕が好きなのは自然体! 女らしさはそこで見えるから」
「そっか。分かった」
彼女は真顔で返答した。
眼鏡をかけて賢そうなのに相変わらず何かの動物に見える。
ミズチの応対は幻想世界の獣人みたいだった。
直人の方はさながら人間の教師だ。
「そもそも僕は何でこんな話」
言った本人が「自分からだ」と思い出した。
それにしても――
――現実感がない。
気持ちが浮遊していた。
理由も見えない。
頭の中で疑問が湧き、掴めそうで直後に消えていた。それが繰り返す。
「変な事、聞くけど」
彼は不意に問う。
「あの夜、僕達はキスをした?」
――躬冠司郎を殺した夜。
名前を呼び捨てにされた、あの後――
彼女がスッと立ち上がる。
「したよ」
制服を脱いでいる。
「本当に?」
白のブラジャー。
「ずっとしてた」
スカートを脱ぐ。
「どんな?」
白のパンティ。
「舌が絡み合うキス」
ブラジャーのホックを外す。
「そうだったかな」
上半身が裸になる。
「いやらしかった」
パンティを脱ぐ。
「思い出せない」
下半身も露になる。
「抱き合ってしてた」
全裸になっている。
「そんな気もする」
彼女の裸体を眺める。
「こんな風に」
柔肌が寄りかかる。
「綺麗な身体だね」
豊かな胸が当たる。
「ありがとう」
綺麗な顔が近づく。
「ならまたしよう」
目を瞑る。
「しよう」
唇が重なる。
「――木徳くん、何をしてるの?」
目を開けた。
腕を絡め合っているミズチの向こう。制服姿の黒川美月が見える。
「やあ、こんばんは」
ふやけた頭での挨拶。
美月は泣いて言った。
「酷い」
泣きじゃくっている。
「木徳くんの事、」
怒ってもいる。
「――大好きだったのに」
――そうだったのか。でも、もう――
ミズチが毒を吐く。
「あんたみたいなカマトト、死んでよ」
美月の心が砕ける。
心音が止まる。
「お願い。私の木徳くんを取らないで」
美月の顔が消えた。
ミズチの嘲笑が聞こえる。
「ねえ直人。あんな女ほっといて。代わりに、もっとイイ事、しよう」
ふやけた脳ミソが頷く。
「ああ、イイ事、したい」
「しよう。もっと、気持ちイイ事」
「ああ、もっと」
「気持ちいい事、好き?」
「ああ」
「じゃあ、しよう」
「ああ」
「堕ちよう」
「ああ」
絡んだ身体が奈落に。
「メルキオール――」
左胸に接吻される。
「バルタザール――」
右手の甲に。
「カスパール――」
首筋に。
最後に唇と唇が接触する。
「アバドン」
頭がめり込んでいく。
『お前は』
『悪くない』
『悪いのは』
『躬冠だ』
直人はベッドから跳ね起きた。
「――なんなんだッ!」
服の中が汗だくだった。
「クソッ! なんだ!」
ぼやけた目と頭が段々と鮮明になっていく。
ここは自室、寝ていたんだと順次把握した。
――外着で寝てた。時刻は……二十三時。
「夢だったんだ」
悪夢だった。
鳥肌が立っている。
「夢ださっきのは。気にしなくていい。気にする必要ない……」
自分に言い聞かせる。
彼にとってまるで自身の性質が変容するかの体験。
悪夢で寒気がする経験は初めてだった。
同時に快楽の螺旋で溺れていたのを思い出す。
「どこから夢だったんだ」
くらくらした頭を抱えた。
――二日酔いってこんな感覚かな。一滴も飲んだ事ないのに。
まるで全速力で走った後だった。
急激な疲れが全身に回っている。
「いつ帰ってきたんだろう」
――あれから帰宅してそのまま寝たんだろうか。
記憶が曖昧だった。
時間の境界線があやふやに感じられた。
二十三時にしてはいつもより空腹感がある。夕飯は済まさずに寝たんだろうと考えた。
頭を冷やす為にまずシャワーを浴びた方がいいと判断する。
「出たら軽く何かを食べよう」
直人は風呂場へ直行した。
シャワーのヘッドから出てくる生暖かな湯。
液体が途切れなく頭へ降り注ぐ。
鎮火を促す雨の様に彼の何かを洗い流す。
両親は既に就寝していた。風呂場へ邪魔が入る事もない。
湯を浴びながら考えを巡らせる。
――明日彼女に聞いてみればいい。つい今日の事なんだから。
ちゃんと答えてくれるだろうか。
問題ない。ミズチなら答えてくれる。今までがそうだ。聞けば常に答えてくれた。
でもなぜ。拒否された覚えがない。はぐらかされた事もない。
そういえば今までに嘘はないんだろうか。
ない気がする。なんとなくだがなぜ。なぜ彼女は嘘をつかないんだ――
直人は迷いを払う為に頭を横に振った。
――前と比べたら普通に話せる仲になってきた。会話がちゃんと通じる。多分それだけの事。
馴れたのかなんなのか、そこは分からない。けど良い事だ。好転したに違いない。
最近は殺人もしないでくれてる。考えるべきはこれだ。一番歓迎できる。
きっと僕らの関係が良い方へ向かってるんだ。そのまま良い子でいてくれ。
僕の方も落ちついて小説が書ける。いや、関係なく書かないと。
後は危険な奴らの件。今はいい。その時だ、その時に対応する。
降りかかった火の粉は払う。でないと僕が殺されるはめになる。
気にするんじゃない。心を強く持て。この意思をもっと鋭く――
シャワーを止める。
その時、彼はふと気づいた。
左胸の付近に痣らしき形がある。
――いつできたんだろう。ミズチと争った時かな。
痣はどこか見覚えがある形にも感じられた。
手で触って更によく眺めてみる。
その形はまるで数字の『6』に見えた。




