第七話「決闘は月夜に」(挿絵あり)
木徳直人は真夜中の神内高校に忍び込んでいた。
今は校舎の外で物陰に身を潜めている。
隣には私服の黒川ミズチ。
人生で初めての経験が二つ。
一つは無許可で学校へ侵入。
一つは夜中に女の子と行動。
馴染みがある学校とはいえ、夜中の校内は彼が知る昼間の姿とは様子が異なる。
静まり返って物音もない。
音がしても闇に消える。
これなら近隣に闘争は発覚しない。
――灯台下暗し、躬冠先輩はいい決闘場を選んだ。けど時間帯は向こうに利がありそうだ。
弓矢の大会を総なめする程の名手。目に自信があっても夜に紛れて狙われたら。更に膜――
零時三十分前。
校舎に闇夜が充満している。
暗闇とコンクリートが融合した場所では雰囲気が硬質的だ。春なのに冷たさを彼に与えてくる。
肺に入れた空気には濁りがない。
隣を見れば側には彼女が佇んでいる。
スカートながら動きやすそうな格好。身体にフィットして似合っている。
校内への侵入時もまるで入り慣れた身のこなし。
流石犯罪者だと直人は皮肉っぽく感心してしまう。
ミズチを尾行した件が頭によぎる。あの時も初めてで、結局失敗して殺されかけたんだと苦笑した。
――今回は失敗できない。二人分の呉越同舟、命運がかかってる。
ふと夜空を見上げた。
月光を放つ輪が夜を照らしている。
「月が綺麗だ」
――そういえば『アイ・ラブ・ユー』を『月が綺麗ですね』と訳した文豪の話があった様な。
彼はすぐ自覚した。似た意味で受け取られたらと焦る。
彼女も月を見ていた。
態度に変化はない。
――よかった。そういう話には疎そうだから知らないのかもしれない。
ミズチが口を開く。
「月は嫌い。明るいとやり辛いから。それに――」
「それに?」
「手が届かない物は好きじゃない」
「僕は手が届かない夢を追っていたい」
彼女は「ふぅん」という顔つきで無表情だった。目は相変わらず爬虫類を感じさせる。
少し臭かったかなと思いながら、直人は眼鏡越しにその黒目を見た。
「木徳くん、さっきの」
「ん?」
「『月が綺麗』って。あたしの事好きって意味?」
――知ってたのか。
彼は唐突にハンマーで頭を殴られた気がした。
言葉に詰まるが思考は回る。
――別に黒川さんを好きなわけじゃないし狂人にも惚れない。だけど……もうすぐ死ぬかもしれない。別にいいんじゃないか、誤解させても。
もしもイイ事があるなら。……イイ事ってなんだよ。いや、いいじゃないか。死ぬ前ぐらいおかしくない。何もおかしくない。僕は、僕はまとも――
「か、かもしれないなぁ。そういう解釈もできなくもないし……うん」
「そう、分かった」
ミズチが微笑した。
再び沈黙。
――イチャついてる場合じゃない。けど、こんな時だからか。危機的状況では男女は云々。ダメだ、やっぱりもっと真剣に――
「そうだ、これだ」
懐から薄手の黒い手袋を取り出す。
「僕の覚悟の証」
言いながら手袋を着用した。
彼女は黒の手袋をまじまじと眺める。
直人の掌を左手で支えて、右手で手の甲を軽く擦った。
「これ、モチベーション?」
彼は少し興奮して笑った。
「僕なりの眼鏡かな」
ミズチはクスっと笑った。
「あたし達お似合いだね」
*
躬冠司郎は生まれてから時間に遅れた試しがない。
零時より随分前に校内へ侵入していたのも仕込みの時間を必要としたからだ。
まず弓道部室、次にアーチェリー部室へ向かった。
自身の和弓とコンパウンドボウ、それぞれの箙と矢を持ち出す。
他の部員の道具までは持ち出せない。
個人的に調整されていない弓では本領を発揮できないのもあるが、何より怪しまれる。
もし弓や箙が損傷していたら? 矢が大量に無かったら? 後に何か事件が起きたら?
自然に関係者へ疑いの目が向く。
他人の抹殺を考えているのだから、なるだけ痕跡は残したくなかった。
事が終われば矢も回収しなくてはならず死体の始末もある。
彼は抹殺の先まで考えていた。
今の司郎は洋弓一式しか携帯しない。
いくら天才といえど弓を二つ同時には扱えないのだ。
和弓一式は校内の通過地点に隠した。
洋弓が使えなくなれば和弓を回収する算段。
零時三十分前。
彼は射場の近くで身を潜めている。
心境はまるで穏やかに揺らめく波。学校は大きな矢庭の海。
――長年の夢が叶う。なのに冷静だ。
絶大な自信から来ていると実感していた。
――実力行使あるのみ。俺は正義のヒーローになる。これが第一歩。
「俺の矢庭から生きて帰さん」
司郎は綺麗な月夜に誓った。
合意した零時を回れば自由に動けると解釈した。
黒川達も同じ解釈をしたと彼は考えた。
例え同じでなくても校内で敵を見つければ始まる。予め示し合わせて不意打ちにも当たらない。
司郎は静かに動き始める。
物音を立てない低めの姿勢で。
「どう見つけるか」
高所に陣取るなら校舎に忍び込まなくてはいけない。勿論施錠がされている。
――窓や戸を破るか。
それは痕跡が残る。
侵入されても結局接近戦になる。
今は校舎に侵入の形跡はない。
――奴らは外にいる。
「堂々とやるのが本望か」
彼は高所の陣取りを諦めた代わりに校庭へ向かう。
広々としたグラウンドでは春の夜風がさらりと吹いていた。
照明は殆ど付いていないが、校外の街灯等で校庭もそれほど暗くない。
司郎は様子を窺ってから洋弓を構えた。
空へ向け一射。
音は弧を描いてグラウンドの中央へ。
黒川達が矢の存在に気づくかどうか暫く待つ事にした。
――気づいて出てくるバカか。バカを狙い撃ちするか、バカみたいに出向くか。
彼は余興を楽しむ様に可笑しな展開を色々考えていた。
*
ミズチが動いた。
直人も背面を気にしながら付いていく。
進展は見込めないと考えて彼女の行動に異は唱えなかった。
明けて今日は学校が休み。とはいえ無駄に時間が進めば朝になる。
仕切り直しするのは絶対に嫌だと彼は考えていた。
二人が冷静に話し合うとも思えない。
マヌケな絵面。
その場で殺し合いを始めると予想できる。
綺麗に終われる機会は今夜限りしかない――
二人は校庭の入り口まで来た。
ミズチはグラウンドの方を見据えている。
人の気配はない。
直人も警戒してから校庭の中央を見ると、地面に一本の矢が刺さっていた。
躬冠の矢であるのは明白。
――挑発か。出向けば狙い撃ちされる。
行かないよねと発する前に彼女は歩き出していた。グラウンドの矢へ向かって。
「ちょっ、ミズチ……!」
うっかり叫びそうになる。
後を追って共に歩くが、地雷原の上を行進している気分だった。
ミズチの顔は全く動じていない。
――バカなんだろうか。
むしろ眼鏡の奥の黒い目は理知で燃えていた。
彼は矢が飛んで来るのを覚悟して唾を飲み込む。
矢の地点に到着。まだ狙い撃ちはされていない。
安心したが、生きた心地もしなかった。
彼女が深呼吸してから開口する。
「出てこい! 卑怯者!」
周囲に人がいるなら確実に聞こえる声量。
直人は出てこないと踏んでいた。
彼の予想は外れる。
闇夜から洋弓を携えた長身の男が現れた。
獅子の様に威風堂々としている。
弓矢を持った幽鬼に見えた。それはどこか黒川ミズチにも通じる。
「誰が卑怯者だ! 非道な殺人鬼!」
獅子が吠えた。
「お前みたいな人間だ。こそこそする弓矢の糞野郎!」
彼女も吠える。
直人は反射的に身構えた。
黒い手袋の中で、汗がじわりと滲んでいく。




