第五話「二匹の怪物」(挿絵あり)
正義のヒーローなら不意打ちはしない。
自室で座して目を瞑っている躬冠司郎は考えていた。
瞑想ではない。彼はこうして考え事を整理する。
――相手が悪人でも改心の機会は与えるべきだ。
同時に更生するタイプではないだろうと推し測っていた。
結局司郎は一度話してみたかったのだ。黒川美月という女と。
――評判に聞く以外ではどういう人間なのか。
なぜ殺人を行っているのか。快楽殺人なのか、確信犯なのか、それ以外か。
木徳という男とつるんでいるのはなぜか。男は脅威になる存在か。
まあ噂すらも聞かない一般的で地味な生徒だ。今は問題にするまでもないだろう。
そもそも魔術とは何だ? メールの差出人も一体何者なのか。これは考えても仕方ない。答えは出ない。
魔術の正体は黒川にあたる方が早いはずだ。
彼女は死の魔術を使うとあった。それはどんな術なのか。
結論づけるのは柔軟な対応ができなくなる。危険だ。
俺にもあるという見えない魔術防壁。どれ程の働きをするのか。
これも危険な方法でしか試せそうにない。
ならばどうせ危険な実戦で把握するやり方でいくか――
彼は目を開いた。
立ち上がる。
黒い弓矢を発現させる。
瞬間弓矢は消えた。
次の瞬間には再び出現させている。
「出すよりも消す方が重要か」
*
黒川ミズチは人間の敵である。
人を殺す狂気の産物である。
人であり毒を撒き散らす蛇である。
彼女は生命を汚す代行者である。
黒川は生来から殺人の性質を備えていた。
それは食事、睡眠、性交の三大欲求に近い本能。
殺人本能が脳髄の根で欲求と深く絡み合い、結びついていた。
そこに本人の意思は介在していない。
衝動とも言えない形の情報中枢は、自然体として彼女をミズチなる人物にしている。
代わりに、彼女には欠けている欲求があった。
黒川には睡眠欲がない。
彼女は眠った事がなかった。
眠った振りならできるが、眠りに落ちた日は一度もない。
人は眠らなければ脳が壊れて死んでしまう。
しかし黒川は死ななかった。
最初から脳が壊れているのか、いつからか壊れてしまったのか――
現代科学の解析でも巧妙に隠された脳の異常は見つからないだろう。
――ミズチは眠らない。
白昼夢も見ないのだ。
彼女は高校に入っても地獄を感じていた。
そもそも生まれる前から。
感覚は今までもこれからも、その心身に寄り添う。
ミズチはその感覚を地獄だとは感じていなかった。認識に些細なズレが生じている。
むしろこの世が地獄の景色に近いとさえ見なしていた。
飛び交う様々なニュース、見聞や体験。現代の社会と人間の有り様。浮き上がる醜悪さ。
結果の全てで結論づけた。
彼女は俗世を嫌悪していた。当然、人間という存在も嫌っていた。
学校で授業を受けている時、友達と話している時も、ミズチは偽善的な現状が鬱陶しかった。
平和であって平和ではなく、幸せであって幸せでもない。
麻痺した日常。
その麻痺に自らが溶け込まなくてはならず、不本意だった。
親しいクラスメイトの次元由美を含めて、彼女は友達を友達だと感じた事は一度もない。
由美達と話していても、悟られず表面だけの関係。
彼女達が例えどう思っていようと“眼鏡をかけていない”美月という人間は空っぽだった。
黒川美月なる人物が、心中や私生活の実像を友達に教える事はない。その場その場の話題をそつなくこなす。
友人達は“黒川美月”というミズチが作った架空の人物と話していた。
彼女は時折、幽霊の様に浮遊した第三者として自己を傍観している。
それでもミズチは、クラスメイト全員のフルネームを記憶していた。
完全に全員の名前を記憶していたが、特段意識しているのではなかった。
単に利便性の為。情報として切り離され、頭脳に保管して管理している。
木徳直人という名前もその一人だった。
彼女は授業中も休み時間も当面の事を考えていた。
彼の姿も思い浮かべていた。
木徳直人と以前話した際、地獄だとか観念的な事柄は話さなかった。
伝えるべき情報でもないと判断したからだ。
仮に伝えても感覚的な概念は理解できないだろう。そうミズチは考えていた。
何より、聞かれなかったからだ。
はたと気づく。
――なぜ。
聞かれたって答えなくてもいいのに。
嘘をついたって問題ない。
なのに、なぜ、なぜだろう。
素直に答えてしまうし、話してしまう。
木徳直人には嘘がつけない。
というより、嘘をつきたくない――
不思議だった。
彼と共に過ごす事自体、今までの彼女ではありえない出来事である。
他人を素顔で殺した経験はあっても、素顔で接した経験はなかったからだ。
一緒にいる時間はミズチに真新しい体験を与えた。
木徳直人の物語を聴いた時も、彼女はえもいわれぬ感覚を体感した。
心地よさ、癒し――
興奮や期待、共感――
面白く感じないのになぜそんな気分に陥ったのか、ミズチは論理的な理由を導きだせずにいる。
――もしかしたらこれが恋愛感情なのだろうか。
常識的な性愛の可能性も考慮した。
単純な発想をした結果、彼の家で接吻も試してみたのだ。
だが予想は外れた。
彼女は恋愛感情的なパトスを一切感じる事はなかった。
性欲への軽い刺激以外、唇が触れたという物理的な感触しか残っていない。
味も記憶にない。
「美月ちゃん、どうかしたの?」
由美が不思議そうに聞いた。
無意識に指で唇を撫でていたミズチはハッとして我に返る。
失敗した――
「なんでもないよ」
完璧な作り笑顔で返した。
「そうなんだ」
由美も可愛らしい笑顔で返す。
「でさぁ――」
教室での黒川組――女子五人の雑談が再び続いていた。
彼女がちらりと目を動かす。
木徳直人の姿が見えた。
遠い距離感を察した。
「黒川さん」
放課後の廊下で呼び止められた。
振り返ると男が立っている。
「黒川美月さん、だよね」
「はい、そうです」
やや低く男らしい声。
長身でスタイルが良い。
顔も整った男。
良い匂い。しかし好きな匂いではない。
なぜかふと木徳直人の姿と顔が浮かび、彼とは違う人種だとミズチは瞬間的に感じた。
「私になんのご用でしょう?」
「ちょっといいかな」
彼女は男に覚えがあった。更に記憶を探る。
――見覚えがある。こいつは多分、校内で有名な三年生。確か大げさなあだ名もついてる。
「なんでしょうか」
「キミと少し話したい事があって」
「話ですか」
「ここじゃなんだから場所を移して話せないかな」
今日のミズチは木徳直人と会う予定はなかった。何より気分的に彼と会談するつもりもない。
「いいですよ、先輩」
「ははは。やはり知られていたかな。改めまして、俺は三年の躬冠司郎です。では行こうか」
まるでイギリス紳士にも似た振る舞いの躬冠に誘導される。
二人は連れだって歩いた。
人目につけば噂になりそうな美男美女のツーショットである。
だがすれ違う生徒の姿はなかった。
放課後の射場には人がいなかった。
広々としたスペースの近く、通りすぎる春風が匂いも運んでくる。
「今日は弓道部もアーチェリー部も休みなんだ。ここら辺なら誰も来ない。邪魔をされずに話がしたいから――」
言われたミズチは射場を一瞥した。
弓道とアーチェリー、それぞれの訓練場が合体して併設されている。一石二鳥の考え方だ。
「――キミも色々と都合が悪いだろうし、俺も二人っきりだと都合がいい」
「それでお話ってなんでしょうか」
まさか愛の告白ではないだろうな、と彼女の頭によぎる。
求愛の類いはたまにあるからだ。
ミズチには煩わしい案件だった。
躬冠がさらりと本題に入る。
「キミはどういう理由で人を殺してるんだ」




