回顧 ――高校二年生 夏―― 6
その声に、慌ててとーこさんから腕を外して後ずさった。
少しバランスを崩したとーこさんは、傍の手すりに縋って身体を支える。
「……、驚かさないで」
手すりに掴まったままとーこさんが、下の階、階段の下に立つ人に言った。
驚かさないでと言う割には落ち着いた態度のとーこさんに戸惑いながら、俺は階下に視線を向けた。
「……っ」
そこにいた人の姿に、俺は動きどころか心臓まで凍りつきそうになった。
「せ、た……?」
脇に分厚いファイルを抱えた瀬田が、階段の下から俺を見上げていた。
冷たい、視線で。
――君に纏わり付かれるのは、迷惑なので
最後に言われた言葉が、まざまざと甦る。
記憶は、忘れていない。
足元から冷たい空気が這い上がってくるようで。
「圭介、やっぱりまだ帰っていなかったのね」
とんとん、と落ち着いた足取りでとーこさんは俺の横を通り過ぎて階段を降りていく。
それを感じながらも、俺は足を動かせなかった。
瀬田の前に立ったとーこさんは、瀬田の持つファイルに視線を移して。
それに気付いた瀬田が、脇に抱えていたファイルを手に持ってとーこさんに見せる。
「お役御免になったはずなんだけどね、元生徒会長だっていうのに受験始まるまでこき使われそうだよ」
「ふふ、ご愁傷様」
くすくすと笑うとーこさんの後姿をじっと見つめながら、二人の間に入っていけない雰囲気に立ち尽くしていた。
ずっととーこさんの笑顔が見たくて、仕方なかった。
今、目の前のとーこさんは笑ってる。
瀬田の隣に行けば、その笑顔が見れる。
でも、足の裏は床と一体にでもなったかのように、まったく動かなくて。
瀬田の記憶が、接着剤のように身体を固定している。
二・三、瀬田と言葉を交わすと、とーこさんは立ち尽くしたままの俺に気付いて顔を上げた。
「要くん? どうしたの?」
不思議そうなその声に、俺の口から言葉にならない声が漏れる。
「あ……う……」
「要くん?」
挙動不審な俺に、首を傾げながらとーこさんが足を一歩踏み出す。
すると、黙っていた瀬田がとーこさんの腕を掴んでそれを止めた。
「桐子、いくぞ」
「圭介?」
戸惑ったように瀬田を見るとーこさん。
……瀬田は
二人の姿を見て、頭から血が引いていく。
……瀬田は、本当に俺を利用しただけだった……?
途端、それまでびくともしなかった足がふっと軽くなった。
「……っ」
くるっと二人に背を向けて、階段を上がり始める。
今、とーこさんと一緒に降りてきた階段を、戻っていく。
「要くん?」
さっきより強い口調で、とーこさんが俺の名前を呼んだ。
どくり、と心臓が鼓動を刻む。
こんな状況でも、呼ばれて嬉しいとか思っちゃう俺って、どれだけとーこさんのことが好きなんだろう。
でも、だからこそ。
人に疎まれている状況を、見せたくない。
「お先、失礼します」
瀬田を目に映さないようにとーこさんに伝えると、頭を下げて俺は再び階段を上る。
駆け上がりたかったけど、そうするともっととーこさんに不思議がられちゃうから。
意識して、駆け上がらずにいつもの足取りで。
するとどちらのなのか、小さく息を吐く音が聞こえた。
「圭介、離して」
「……桐子」
「離して」
そう桐子さんの声が聞こえた途端、階段を駆け上ってくる足音に驚いて身体を後ろに振り向ける。
俺の目には階段を上ってくるとーこさんと、それを追うように上がってくる瀬田の姿が映った。
どうするべきか逡巡している間に、とーこさんは俺の立つ段の一つ下の段に立って俺を見上げてくる。
「要くんは何もしていないんだから、逃げる必要は無いわ。一緒に帰るのでしょう? なぜ、あなたが遠慮しなければならないの」
きっぱりと告げてくるとーこさんに、俺は困惑した表情を浮かべる。
とーこさんの後ろに立つ瀬田が、目に見えてイラついているのが分かるから。
その視線が、楽しかった頃のものと重なって苦しくなる。
あんなに、優しかったのに。
本当に、本当に瀬田は――
「……なんで?」
ずっと我慢してきた言葉が、思わず口から零れた。
「え?」
怪訝そうに聞き返すとーこさんを通り越して、俺の目は瀬田に向けられていて。
瀬田も分かっているのか、ただじっと俺を見上げている。
「あれは、嘘だったのかよ。俺、楽しかったのに。そんなに迷惑だったのかよ」
ずっとずっと、考えてた。
例え利用するためとはいえ、自分の領域ともいえる自宅や書斎に入れてくれたのに。
利用するためだけで、友人と言うか先輩後輩として話すことさえイヤになるほど、俺のことが嫌いなのかよ。
「要、くん?」
どういうこと? と、瀬田を振り返るとーこさんの表情は、俺からは見えない。
けれど、とーこさんを見る瀬田の顔が顰められていくのを見ると、決して笑顔ではない、それだけは分かる。
「桐子、いいから離れろ」
イラついたように低い声音でとーこさんに言う瀬田の言葉を、俺は遮った。
「なぁ、瀬田。そんなに俺は邪魔だった? 利用価値が無くなったら、疎むほど……」
信じたくない。
今でも、信じたくない
三人で過ごしたあの日々が、ただ俺を利用したいが為の嘘だったなんて。
「圭介、どういう事?」
とーこさんの声は、低く掠れていて。
彼女が怒っている事に気づく。
「桐子……」
困った顔をした瀬田がとーこさんに手を伸ばすと、それを避けるようにとーこさんは身体を捻った。
「っ!」
途端、とーこさんの身体が傾ぐ。
がくんっと、足が階段を踏み外した。
「とーこさんっ」
慌てて伸ばした腕を、とーこさんの腰に絡める。
下では圭介が両手で彼女を受け止めようとしていて。
ぎゅっと、腰を抱く手に力をこめる。
とーこさんも俺の腕を掴んで、自分を支えた。
さっきと同じ様な状況に、支えられた事にほっとする。
怪我は無いようだ、よかった……。
「――ありがと……」
少し掠れた声で、そうとーこさんが呟く。
「いえ……」
押さえたような声で、それに返答した。
俺の腕と縋るとーこさん本人が落ちるのを止めているだけで、瀬田はほとんど触れていない。
こんな状況だというのにそれを少し嬉しく感じながら、とーこさんの身体から自分の腕を離した。
「苦しくなかった? とーこさん」
「……えぇ」
とーこさんはしっかりと自分の足で立つと、ゆっくりと瀬田を振り返る。
「圭介。要くんと帰るから」
「桐子、俺は……」
「圭介」
何か言おうとした瀬田の言葉を、とーこさんの強い口調が遮る。
「あとで、ね?」
疑問系でありながら、有無を言わせない。
とーこさんが、ここまで感情を露わにするの、初めて見た。
「とーこさん?」
思わず呟いた声にとーこさんは振り向くと、俺のシャツの裾を小さく引っ張る。
「行きましょう」
「えと……」
とーこさんの後ろにいる瀬田が、凄く気になるんだけど……。
俺の困惑に気付いたのか、とーこさんは軽く頭を横に振って先に階段を降りだす。
「あ、ちょっ……」
瀬田の事が気になったけど、俺は振り向かずに彼女の背を追いかけた。




