第55話
阿須田さんはゆっくりと身体をおこし、私を見つめた。そこにはもう、微笑みのかけらも残っていなかった。
「ごめんね、日向さん」
感情を隠した阿須田さんの顔はまるで人形のように表情を失っていたが、声は哀しげだった。本当に謝っているのだと、そう感じる。
だが、阿須田さんの隣でぐったりとしている桜子を助けるそぶりは全くない。
「あ……すだ……さん?」
「違ったらいいと思っていたけど……、やっぱりラウル王子はここにいるんだね。どこ?」
震える声の私に、阿須田さんは淡々と問いかけた。手には、テーブルの下に落ちていたらしい一枚の紙。魔方陣らしきものが描かれている。ラウルが勉強していて、テーブルの下に迷い込んだ紙なのだろう。
「な、なに、言って……」
喉がはりついたようになって声が上手くでないまま精一杯誤魔化そうとするが、急変した阿須田さんに身も心も怯えて演技などできるはずもない。桜子を置いて逃げるわけにもいかないし、そもそも足が震えてこの場から動くことすらできそうにない。
せめてラウルだけでもこの家から逃げ出してくれたら……。
そう思ったが、その想いは全く届かなかったらしい。タタタッと軽やかな足音と、うみゃーという威勢のいい鳴き声が勢いよく近づいてくる。せめて人間の姿になるのは止めなければと思ったが、抱きとめる間もなく、黒猫は軽やかなジャンプをして私の唇に激突した。
黒猫をふわりと光が包見込み、そして次の瞬間に厳しい顔つきの美少年が現れる。変身してから首輪をはずしたからか、人の姿に戻ったラウルはちゃんと着物を着ていた。
激突された唇の痛さに目を閉じた私の耳に、阿須田さんがはっと息をのむ音が聞こえた。
「まさか猫に変化していたとは……。さすが王。常人にはできぬ魔法をかけられたものですね」
「何用だ、アスター」
人の姿に戻ったラウルを見て苦笑を浮かべた阿須田さんに、凛としたラウルの声が投げかけられる。阿須田さんは小さなその背で私を守るように立っているラウルを見つめ、そして小さくため息を吐いた。
「言わずとも、わかっておられるでしょう」
「…………」
静かな声で答えた阿須田さんを、ラウルは無言でじっと見つめる。それは阿須田さんの言葉を肯定しているかのようだった。
それからラウルは阿須田さんの隣にいる禍々しい光に包まれた桜子をちらりと見る。再び阿須田さんに視線を戻すと、ゆっくりと口を開いた。
「何故、関係のない者まで巻き込んだ。お前のすることとは思えんが」
「……心苦しいですが、確実に目的を達成する為です」
ラウルの怒りのこもった眼差しを逃げることなく受け止めてそう答えた阿須田さんは、次にまだ動けずにいる私に目を向けた。
「本当にごめんね、日向さん。できれば貴方達に迷惑をかけたくはなかった。でも、僕にはやらなきゃ行けない事がある。その為には手段を選ばない。そう決めているんだ」
「…………」
迷いのない瞳に、悪意はないように思えた。ただ、彼は彼の信念を貫こうとしているだけ。それが、誰かを傷つけることだとしても……。
阿須田さんは私の潤んだ瞳から逃れるように、一度目を閉じた。それからゆっくりと目を開けた時には、また表情を隠していた。そして、窓の外に視線を向ける。
「蓮殿も隠れていないで、姿を現していただけますか? いらっしゃるんでしょう?」
「え?」
阿須田さんの静かな呼びかけに答えるように、庭に面した窓がするすると開いた。カーテンの向こうから、蓮が現れる。おそらく、桜子の様子を見に行く途中で、桜子たちがうちに向かっているのに気づいてついてきたのだろう。
リビングに入ってきた蓮の頬は、寒さの為か怒りの為か赤く染まっていた。見たこともないくらい冷たい瞳で阿須田さんを睨み付ける。
「どんなに丁寧な口調だろうが、人質とってたらただの脅迫だよな」
「えぇ、わかっています。言うことを聞いていただくために、佐倉さんにご迷惑をかけているのですから」
丁寧な口調が逆に癇に障るのか、ぴくっと顔を引き攣らせる蓮。静かな怒りの炎が瞳の中で揺らめいている。そして、その鋭い眼差しはすぐにラウルに向けられた。
「お前が考えなしに飛び出すからこうなるんだぞ、ラウル」
蓮の言葉に、ラウルが首だけ振り返って睨みつけた。
「考え無しとはなんだ。二人が危なかったから助けに向かったのであろう」
「だからそれがあからさまにお前をおびき出す罠だろうがっ!」
「罠だとて、二人を守るのが優先であろう!」
「だーかーらー、お前が出るのが一番最悪なんだよ!! お前をおびき出せなきゃ、二人を傷つけても意味がないんだから」
「しかし、もし関係なく魔法を発動させていたらどうするのだ!!」
「俺がなんとかすりゃいいだろ! つか、そもそもお前がこいつは女子供に手を出さないって言うからだなぁ!!」
まるで阿須田さんがいるのを忘れているかのように、いつもと同じようなノリでぽんぽんと言い合いをはじめる二人。この状況で何をしてるのかと驚いている私の視界の端で、阿須田さんが目を眇める。
「その手を止めてください、蓮殿」
「え?」
その言葉の意味がわからず蓮を見つめると、ちっと舌打ちをする蓮。先ほどまでテンション高く甥っ子と言い争いをしていたとは思えない冷静な表情で阿須田さんを静かに睨む。それを、唇の端を僅かにあげながら見つめている阿須田さん。
「可愛らしい顔をして、油断ならない方ですね。喧嘩をしている振りをして、攻撃魔法の準備とは……」
「えぇ!?」
悔しそうに唇を噛む蓮の反応からしても、阿須田さんの言ったことは当たっているのだろう。喧嘩自体に注目させ、阿須田さんからは見えない角度の手で魔方陣を描いていたのだ。普段の蓮からは想像が付かない抜け目のない行動に私は驚いていた。ラウルも蓮の意図がわかって喧嘩に付き合っていたのだろうか。
「しかし、私を一撃で仕留めたとしても、佐倉さんは助かりませんよ」
「なぬ?」
阿須田さんの余裕の表情に、眉をひそめたのはラウル。蓮は睨むように阿須田さんを見ている。
「正確な解除魔法を用いなければ、佐倉さんは永遠に意識をとりもどしません。私を攻撃し意識を失わせても、魔法は解けるどころか佐倉さんの精神を攻撃するだけです。彼女の精神がずたずたになってもよろしければ、どうぞ?」
「そんなっ……」
短く叫ぶような私の言葉に、阿須田さんは少し表情を曇らせる。ラウルたちに対しては罪悪感はないようだが、私や桜子に対しては本当に申し訳ないと思っているようだった。
「阿須田さん、どうして……」
「お二人が言う事を聞いてくだされば、貴方達に一切害は加えません。そして、このお二人は貴方達を危険な目にあわすという選択はしないはず。今しばらく、何も聞かずに辛抱してもらえるかな、日向さん」
気遣うような瞳に私の心は余計混乱する。きっと本当は優しい人のはずなのに、いくら国の為とは言え、どうしてこんな事をするのか。いっそのこと、明らかに悪人のほうが気持ちは落ち着いたかもしれない。
「……ヒナタアオイにも、サクラコにも、本当に手を出さぬのだな?」
「おいっ!」
意を決したように阿須田さんに尋ねたラウルに、蓮があせったように声をかける。だが、それを気にも止めず、答えを求めるように阿須田さんを見つめ続けるラウル。
「はい。目的さえ達成できれば、私は誰も傷つけません。それに、たとえ目的のためでも、できれば女性を傷つけることは避けたいですからね」
ラウルを真っ直ぐに見つめながら答えた阿須田さんの真意を読み取ろうとするように、その綺麗なエメラルド色の瞳でじっと見つめるラウルの表情は、凛として落ち着きもあった。時折見せる、大人びたラウルの雰囲気が彼を今包んでいる。
「その言葉に、嘘はないのだな?」
「ラウルっ!!」
「黙っておれ、蓮!」
たしなめるような蓮の声に、ぴしゃりと言い返すラウル。
「今ヒナタアオイがあんな辛そうな顔をしているのは、オレのせいだ。万が一サクラコに何かあって、これ以上傷つけるわけにはいかんだろう」
「お前に何かあっても、ひまわりは傷つくんだよっ!」
叫ぶような蓮の言葉にラウルは一度口を閉ざし、それから少し悲しげな視線を私に向けた。それから、阿須田さんを見つめる。
「お前は精神系の魔法が得意であったな。女子を傷つけるのは好まんのだろう? ならばお前の目的を叶えてやった後、ヒナタアオイの記憶からオレを消し去る事までやってくれるのであろうな?」
「え……?」
ラウルの言葉に耳を疑う。
私の記憶から、ラウルを消し去る……?
「お望みとあらば。安心してください」
「そうか。ならば、よい」
阿須田さんの答えに、満足げに微笑むラウル。
阿須田さんが偵察以上の仕事を与えられていたとして、いったい具体的な目的とはなんなのだろう?
ラウルにとってよくない事なのはわかる。阿須田さんの上司が危険な相手だとも聞いた。
だけど、それはラウルが王子であり続けることが難しくなるというだけではないのか。記憶を消し去る事までしなければならないほどの事とは、一体どんな事なのか……。
「ラウ……ル?」
座り込んだまま動けずに見上げた私に、ラウルは優しく微笑んだ。
そして、その綺麗な顔を近づけてそっと頬に口づけする。
「今まで楽しかったぞ、ヒナタアオイ」
「ねぇ、ラウル……」
「真実の愛、お前となら見つけられると思ったのだがな。少し時間が足りなかったな」
「ラウル! ちゃんと説明して!! 阿須田さんは、子供に危険な事はしないって言ったよね? いったい、何を話しているの? 目的って、何?」
ぎゅっとラウルの小さな手を握り、強がっているようにしか見えないラウルの目を真っ直ぐに見つめる。だが、ラウルは僅かに瞳を揺らせただけで、何も答えようとしなかった。
阿須田さんも、決意した様子のラウルをじっと見守っている。
静寂が辺りを包み、ただ不安だけが胸の中に広がっていった。
その静けさを破ったのは、蓮。
「アスターとか言ったな……。お前の望む国は、こんな子供の命を犠牲にしてまで得るべきものなのか? それが、正しいものだと思うのか!?」
子供の命……? 犠牲……??
「何事にも犠牲はつきものですよ、蓮殿」
二人の言葉に、私は心臓が止まりそうだった。
桜子を解放する為の代償は、ラウルの命。
二人の会話の意味するものは、信じたくないがそういう事だろう。
思いもしなかった……いや、考えようとしなかった最悪の答え。
蓮の見た事もないような怒りの表情が、それを真実だと物語っていた。
2013.12.23 14:37 改稿




