第26話
「ごめんね、蓮」
私は今、黒猫ラウルを膝の上に乗せ、蓮のこぐ自転車の後ろにのせてもらっていた。家まで迎えにきてもらったうえに、診療所までラウルと共に連れて行ってもらい、診察が終わるまで外でラウルを預かっていてもらった帰り道だ。
「別に、ひまわりが謝ることは何もないだろ。謝ってもらうなら、そっちの猫だな」
蓮の言葉に、ラウルが不服そうに低く鳴く。苦笑いしながら、私は黒猫の背をなでた。
「今日は心配してずっと傍にいてくれたし、悪いとは思ってるんじゃないかな」
昨日の真相を聞くタイミングを逃していたが、桜子の話を聞いてから離れようとしないので、自分のせいで具合が悪くなったのを気にしているのは確かだ。留守番していろという話も聞かず、猫の姿になってまで診療所についてきたくらいだ。
「まぁ、それならいいんだけどさ。これに反省して、もう迷惑かけないといいんだけどね」
ちょうど信号で止まった蓮が振り返ってそう言うと、ラウルは小さく唸り、私の膝からぴょんっと飛び降りた。そのまま、テケテケと走っていく。
「ラウル! ちょっと、どこ行くの?」
慌てて声をかけると、ラウルは立ち止まって顔だけ振り返った。
「言った傍からこれだよ……」
呆れ気味に小さくため息をついた蓮と目が合うと、いらっとしたように尻尾をバタバタとふり、再び前に向き直るとそのまま小走りに去っていく。その先には、廃工場があった。
「ラウル! そっちは危ないから入っちゃ駄目だよ!」
大声で注意したものの、ラウルはそのまま廃工場の敷地に入っていく。そこを抜けられれば我が家への近道になる。どうやら蓮が嫌で一緒に帰りたくないらしい。
「もう! ラウル!」
「あ、ひまわり! 気をつけろよ」
ラウルが奥に行く前に捕まえようと後を追った私に、自転車を押しながら蓮が続く。蓮が外に自転車を止めている間に、入り口に張られた鉄線をくぐって先に中に入った。
ずいぶん前に廃工場になったこの場所には、色んな資材やゴミが捨てられていた。細い針金なども捨てられており、もしかしたらラウルはここからヘアピンの材料をとってきたのかもしれない。そんな雑然とした中を、小さな黒い生き物がトコトコと歩いている。
「ラウルってば! 危ないから、こっちきなさい!」
怒ってみるものの、不機嫌なラウルは振り向きもしない。壊れて開きっぱなしの入り口から建物の内部に入っていく。蓮の事がそうとうお気に召さないようだ。
溜息をつきながら、ラウルを追って中に入った。
「ちょっと、待ちなさいって……うわっ」
半ばまで入った所で、先を行くラウルに気を取られて、足元にあった廃材に躓き見事に転ぶ。
「いったぁ……」
両膝を打ってつい声をもらす。膝からはうっすら血が滲んでいた。立ち上がろうとしたが、積み上げられた古い段ボールから飛び出した針金が上着に引っ掛かり、外さなければ動けない。溜息がもれた。
「ひまわり?」
声が聞こえたのか、建物の入り口から心配そうに名を呼ぶ蓮。少しすまなそうな顔をして踵を返し、こちらに向かってくるラウル。その二人の瞳が、同時に見開かれる。
「ひまわり!!」
蓮の危機迫る声が辺りに響く。同時に駆け出すラウルと蓮。転んだくらいでそんなに心配してくれるのかと不思議に思っていると、ふっと影が動いた。
「え?」
嫌な予感がして、影と逆方向に振り向く。視界に入ってきたのは、ゆっくりと傾いてくる、高く積み上げられた段ボール。中に入っている物しだいでは、当たったら痛いどころではすまされないだろう。
やばい、と思ったものの、突然の事に身体が硬直して動かない。蓮は間に合う距離ではない。ラウルの魔法ならと思うが、猫の姿では魔法を使えないし、人間に戻るほどの時間はない。ここまで来たら、二人まで怪我をしてしまう。
ほんの数秒の間に思考はいろいろと巡るものの、体はぴくりとも反応できなかった。
「みゃーー!!」
ラウルの必死な鳴き声が響く。小さな体で私の腕に飛び込んできたが、完全にバランスを崩した段ボールは、重力に従って崩れ落ちる。黒猫は頭突きをしようと身体を伸ばそうとしたが、もう間に合わない。子猫姿のラウルだけでも無事なように、ぎゅっと胸の中に抱きしめる。目をつぶり、来るだろう衝撃にかまえて身を硬くした。
「――――?」
数秒たっても訪れない痛みに、私は恐る恐る目を開けた。
顔をあげ、周りの状況を確認しても、何が起こったのか理解できなかった。
私の頭のすぐ上に、空中で動きを止めた段ボール箱があった。その前には、まるで私を守るように立ちはだかる壁のような光。すぐにこれは魔法だと思い当たったが、ラウルは黒猫姿のまま腕の中にいる。魔法を使っているようには見えない。
「戻れるんだろ、ラウル。さっさとひまわり助けろ! 言っとくが、あまりもたないからな!」
「みゃー!」
叫んだ蓮に、わかっておると言わんばかりに腕の中で鳴くラウル。
ゆっくりと振り向いた私の目に映ったのは、光の壁に向かって手をかざし、少し気まずそうに、でも必死の眼差しで光の壁を見つめている蓮の姿。ぽかんと蓮を見つめる私の胸を、腕の中の黒猫がべしべしと叩く。はっと我に返って腕を緩め、ラウルを見ると、黒猫は勢いよくジャンプをし、唇に頭突きをした。ふわりと光に包まれ、人の姿に戻るラウル。
「何をぼーっとしておるのだ! 早くこの場を離れるぞ!!」
「え、あ、うん」
まだ状況が飲み込めないまま頷くと、ラウルはすっと宙に何かを描く。魔法を使うんだと思った時には、私の上着を捕らえていた針金が、ぶつりと切れていた。
「行くぞ、ヒナタアオイ!」
「あ、うん!」
差し出されたラウルの手をとり、頭上の段ボールをよけながら慌てて立ちがる。膝の血を見て、ラウルは眉をひそめた。
「走れるか? レンもそろそろ限界だ。急ぐぞ」
「うん」
私の手を引き、駆けだしたラウルの小さい背中は、頼もしく見えた。
「レン、もういいぞ」
「言われなくても、もう限界っ」
蓮の背後まで私と逃げたラウルにそう言い返すと、蓮はがっくりと膝をついた。とたんに光の壁は消え、崩れ落ちそうだった段ボール箱は動きを取り戻す。周りの廃材を巻き込みながらそれらは派手な音をたてて地面に散乱した。段ボール箱の中からは、鉄製の機械の部品などが飛び出していた。あの下にいたと思うとぞっとする。
青ざめて立ちすくんでいると、ラウルがぎゅっと手を握った。見ると、白い頬をバラ色に染め、エメラルド色の瞳には怒りの色が見えた。
「何を考えておるのだ、ヒナタアオイ! 無事だったからよいものの、身を挺してオレを守ってどうする! お前に何かあったら、自分の身が無事でも嬉しくもなんともないぞ! そう、前にも言ったではないか!!」
小刻みに震える小さな手。廃材が散らばり、まだ埃が舞っている目の前の惨状に、あの下に私がいたらと怖くなったのだろう。何かを堪えるようにぎゅっと唇を噛んでいる。
「もっと、自分を大切にせぬか!」
「そもそもお前のせいだろうが!」
私を叱咤したラウルの頭を、蓮が後ろから叩く。振り返って睨みつけたラウルを無視し、蓮は私を一瞬見つめたが、すぐに視線を逸らして踵を返した。
「行くぞ、ひまわり。誰か来たら大ごとだ」
「あ、うん」
確かに、今の音で誰かが様子を見に来るかもしれなかった。見つかれば怒られる事は間違いない。急いで廃工場の外に向かったが、蓮の足取りは少し重い。
「大丈夫、蓮?」
「平気。それよりそれ、猫に戻して。目立つから」
蓮の指示にラウルは不服そうに顔をしかめたが、確かに蓮の言うとおりだ。ただでさえ目立つ美少年に加え、今は和服姿。思い切り目立つ。
「ごめんね、ラウル」
辺りに誰もいないのを確認してから、軽く唇に触れる。ふわりと光に包まれて猫の姿に戻ったラウルを抱き上げると、今度は蓮が顔をしかめていた。
「蓮?」
「そうやって戻るのかよ……」
溜息混じりに呟いた蓮は、小さく首を振ってから、気を取り直したように自転車に跨る。その後ろに乗って遠ざかる廃工場を眺めながら、私は今の状況を頭の中で整理していた。
2013.4.17 16:47 改稿




