第13話
思わず一歩後退さった私の腕の中で、ラウルが威嚇するように唸った。しかし、子猫の事など彼が気にするはずもない。
突然の事態に身がすくんだ私を追い詰めるかのように、柳くんは薄笑いを浮かべて近づいてくる。
「みゃー!」
人の姿に戻せと言わんばかりに鋭く鳴いたラウルが腕の中で立ち上がろうとしたが、その額が私の唇に届く前に、私の腕は柳くんにつかまれた。腕が解かれ、支えを失ったラウルはそのまま床に落ちる。
「俺のこと、好きなんだろ? だったらいいじゃないか」
私が好きだった明るく優しい笑顔とは違う、女性を見下したような嘲笑。
つかまれた腕よりも、心が痛かった。
「私はっ……」
反論しようと思っても、言葉がうまく出てこない。ショックと恐怖が、思考回路を正常に働かせてくれないようだ。
腕を振り払う事もできずただ震えている私を、柳くんは笑みを浮かべて突き飛ばした。その勢いで、私は後ろのソファに倒れこむ。
「べつに、別れてやってもいいんだけどさ」
そう言いながら、彼は覆いかぶさるようにソファに膝をつき、私の両腕を押さえつけた。
「安物でもプレゼント買ってやったわけだし、何もせずに別れるのももったいないじゃん? それに、友達との賭けもあるんでね」
「か……け?」
震える声の私に、柳くんはにっこりと笑った。
「そ。お前の誕生日までにやれるかどうか」
「!?」
「見た目が可愛くてスタイルもいいからOKしたけどさ、お前ってそれだけじゃん。大人しいだけでなんの面白みもないし、取り柄も大してないだろ。つまんなくなってた所だったんだよね。だから、賭けでもすればちょっとは楽しめるかと思って」
楽しげに笑う柳くんに、私はぎゅっと唇をかみ締めた。今までの優しさの一つ一つにそんな裏が隠されていたかと思うと、悲しみを通り越して、自分が情けなかった。
上辺だけの優しさを、なぜ見抜けなかったんだろう……。
「せっかくの誕生日なんだ。楽しもうぜ、葵」
「やっ!」
弄ぶような笑みを浮かべて顔を近づけてきた彼から、顔を背ける。抵抗しようと手も足も必死に動かそうとするが、しっかりと抑えられ抗う事ができない。
頼りがいがあると思っていた大きな手は、今は恐怖を感じさせるものでしかなかった。
男の人と、こんなにも力の差があるのかと初めて思い知る。学校などで男子とケンカしても怖くなかったのは、彼らの良識的な優しさで力を出さずにいてくれたからなのだ。傷付ける事などかまわない人の力には、どうすることもできない。
恐怖の中に、諦めが入り混じり始める。
見た目のかっこよさに、上辺だけの優しさに惑わされていたのは自分。
ちゃんと彼をわかろうとしなかったのかもしれない。
甘い夢の中に浸っていたかっただけ……。
自業自得かもしれない。悔しくて、悲しくて、情けなくて、恐くて、涙が零れ落ちた。
その時だった。
黒い塊が猛烈な勢いで柳くんに飛びついたのが視界に入る。
黒猫ラウルが、小さな口で彼の腕に必死に噛み付いていた。
「さっきからうぜーんだよっ!」
怒りに任せ、乱暴に腕を振り払う柳くん。小さなラウルは宙を飛び、受身も取れないまま、ダンっと床に叩きつけられる。ぐったりとして動かない。
「ラウルっ!」
「ネコのしつけもできないのかよ」
見下したようにそう言った彼に、怒りが込み上げた。
私は自分に甘さがあったから、自業自得なところもある。でも、ラウルにはなんの非もない。ただ、私を守ろうとしてくれただけ。しかも、今はあんなに小さな子猫の姿だ。それを、乱暴するなんて……。
「悪いのはあの子じゃないわ」
きっと睨む私に、柳くんは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、それはすぐにニヤリとした笑いに変わった。
「へー、強気なところもあったんだ。でも、そんな子を泣かすのも好きなんだよね」
「っ……」
優しい仮面の下は、こんなにも卑劣な男だったのかと愕然とする。
一度正体を見せてしまえば、取り繕う気もないのだろう。自分の思い通りになっていれば、優しい振りをして利用し、そうじゃなければ傷付ける事すら楽しむ。
自分の男の見る目のなさが情けなかった。
楽しげに押さえつける彼に必死に抵抗しつつ、倒れているラウルに視線を向けたが、子猫は既にそこにいなかった。
「ラウル?」
動揺して名を呼んだ私の目の前に、苦しそうに顔をしかめながらひょっこり顔を出すラウル。痛む体のまま、ソファの真下まで歩いてきていたらしい。ソファに押し付けられ、横を向いていた私の唇に自分の額を押し当てる。
光に包まれたその瞬間に体を翻し、渾身のダッシュで人の姿に変わる寸前に少し開いた戸の隙間から隣の和室へ姿を消すラウル。見られたのではとドキドキしていたが、柳くんはラウルにはなんの興味も示していなかったようだ。ただ、抵抗する私の服をどう脱がせようかと試みている。
その手の感触に激しい嫌悪感を覚えつつも、ラウルが動けた事にほっとする。
あのまま、倒れたままだったらどうしようかと思った。私が拾ってしまったばっかりに、ラウルを不幸にしたらと少し怖かった。でも、あれだけ動ければきっと平気だろう。
和室からは衣擦れの音が聞こえ、さらに何か動く音もする。
物音はさすがに気になったのか、柳くんは手を止め和室の方に目をやる。
「誰かいるのか?」
私に言ったのか、和室の向こうの誰かに言ったのかはわからなかった。
確かめるようなその言葉に、ゆっくりと戸が横に開く。
そこから現れたのは、慌てて身に着けたからか服は乱れ、怒りのオーラを身に纏い、斬りつけるような眼差しで柳くんを睨みつけるラウルの姿だった。
2013.4.11 21:18 改稿




